andymori「1984」における散文的表現と詩的表現


 「1984」は、andymoriの楽曲。作詞作曲は小山田壮平。2010年2月3日発売の2ndアルバム『ファンファーレと熱狂』に収録されています。

 どこが優れているのか言語化しにくいけれど、不思議な魅力にあふれた1曲。イントロからアコースティック・ギターを使用し、ゆったりとしたテンポで、牧歌的な風景が浮かんでくるようなサウンド・プロダクション。

 コード進行もヴァースからコーラスまで共通で、後半にキーを上げるように転調する部分がありますが、基本的には4つのコードが循環しているだけ。

 それなのに、単調な印象はなく、ヴァースからコーラスへの盛り上がり、イマジネーションをかきたてる言葉の数々など、ポップ・ミュージックが持つ魅力を存分に持っています。

 「1984」が教えてくれるのは、音楽を構成するパーツそれぞれはシンプルでありふれたものでも、かっこいい音楽を作り上げることは可能だ、ということだと思います。

 前述したように、この曲ではヴァースとコーラスでコード進行が変わりません。それにもかかわらず、ヴァースとコーラスはコントラストを成し、進行感があるのはなぜか。

 ひとつには、ボーカルが歌うメロディーの違い。特にコーラスではヴァースに比べて、ファルセットを用いた高音が、盛り上がりを演出してくれます。しかし、使用する音域が異なっているということ以上に、メロディーのリズムと譜割りが、コーラスとヴァースの印象を大きく変えています。

 このメロディーの差違を生み出しているのは、歌詞によるところが大きいのではないか。歌詞の質の違いが、メロディーの違いにもあらわれているのではないか。そして、歌詞の表現自体にも特異な部分がある、というのが僕の仮説です。

 それでは、その仮説に基づいて、歌詞の分析と考察をおこなっていきます。

ヴァース部分の歌詞

 ヴァース部分では、散文的な歌詞が続きます。以下は、1番のヴァース部分の引用です。

5限が終わるのを待ってたわけもわからないまま
椅子取りゲームへの手続きはまるで永遠のようなんだ
真っ赤に染まっていく公園で自転車を追いかけた
誰もが兄弟のように他人のように先を急いだんだ

 時間をあらわす「5限」、場所をあらわす「公園」、時間帯と風景をあらわす「真っ赤に染まっていく」などなど、具体的な情報とイメージを持つ言葉が並びます。

 また、改行が少なく、例えば1行目の「待ってた」は、通常の文章ならそこで終わりそうなところですが、その後にスペース無く言葉が続いていきます。

 そして、これらの歌詞にあてられたメロディーも、流れるようになめらか。歌詞とメロディーがほとんど一体化しているように感じられます。

コーラス部分の歌詞

 それに対して、コーラス部分の歌詞はどのようになっているでしょうか。以下は、コーラス部分の引用です。

ファンファーレと熱狂 赤い太陽 5時のサイレン 6時の一番星

 ヴァースでは散文的に言葉がつづられていたのが、コーラスに入ると一変して、名詞が並びます。しかし、言葉の選び方はヴァースと共通していて、ある具体的な情報をともなった、イメージの浮かびやすい単語が続きます。

 話し言葉のような自由で散文的なヴァースと、イマジナティヴな言葉が並列するポエティックなコーラス。メロディーとボーカリゼーションもそれに準じて、語りかけるような細かい譜割りから、より旋律的なものへ変化しています。

 このコントラストが、曲に進行感を持たせ、コーラス部を際立たせていると言えるでしょう。

歌詞の内容

 では、歌詞の内容についてはどうでしょうか。前述したように、時間や場所などある程度は情報が与えられるものの、わかりやすいストーリーは提示されません。これはヴァースでもコーラスでも共通しており、むしろヴァースでの方法論が、コーラスではより先鋭化したかたちで実行されているようにも思えます。

 まず、ヴァース部分の歌詞を見ていきましょう。歌い出しの「5限が終わるのを待ってた」という一節と、ヴァース内の時制がすべて過去であることから、歌詞の語り手は現在の視点から、学生時代のある時期を回想していることが示唆されます。さらに「椅子取りゲーム」という単語からは、小学生ぐらいの年齢であることが推測できるでしょう。

 しかし、具体的な感情やストーリーが語られることはありません。印象的なフレーズが並び、小学生ぐらいの放課後のイメージがリスナーには喚起されます。すなわち、5限が終わるのを待つあの感じ、日が暮れていくなか家を目指すあの風景。多くの人が持っているであろう過去の一場面が、フラッシュバックのように喚起される歌詞だと言えます。

 コーラスに入ると、イメージをともなった言葉が、文章とはならずに名詞のかたちで歌われ、リスナーはますますイマジネーションを刺激されます。語り手が具体的にどのような場面を歌っているのかは、判然としません。

 しかし「赤い太陽」「5時のサイレン」と次々と投げられる言葉のイメージが、自分の過去の記憶と結びつき、音楽を聴きながら風景や感情が呼びさまされる。曖昧性を持った歌詞なのに、いや曖昧性を残した幻想的な歌詞であるからこそ、そのような効果を持っていると言えるのではないでしょうか。

 僕はこの曲を初めて聴いたとき、通常の日本語の機能の仕方とは全く違うかたちで意味が伝わってくるので、まるで外国語の歌を聴いているような、不思議な感覚を持ちました。

歌詞のなかのロック性

 政治性や思想性と書くと、言葉が強すぎるので敢えてロック性と表現させていただきますが、「1984」の歌詞にはロックがあつかうような要素も感じられます。

 このように説明すると、一気に陳腐になってしまいますが、過去の風景を描写するだけでなく、過去のある時期の感情をも同時に描写している、程度の意味だとご理解ください。

 例えば、1番のヴァースに出てくる「わけもわからないまま」や、2番のヴァースの全編。これらの部分からは、大人の価値観をなにも考えずに受け入れている段階から、その価値観に疑問を持ちつつも反発することもない、そのような絶妙な心情が伝わってきます。

 風景の描写がリスナーの過去の記憶に結びつくのと並んで、誰もが思春期に持つであろう心情にも結びついた歌詞と言えるのではないでしょうか。

 以上のように、曖昧性を残したイマジナティヴな歌詞が、リスナーの過去の記憶と結びつき、風景や心情がリアリティーをともなって浮かんでくる1曲です。

 同時に、散文的なヴァースと詩的なコーラス、それに対応したメロディーのコントラストも、イマジネーションを喚起する一因になっているのではないかと思います。