目次
・イントロダクション
・歌詞のテーマ
・エンターテイメント化する自殺
・語り手と野次馬たちの違い
・語りとメロディー
・結論・まとめ
イントロダクション
「生きていたんだよな」は、兵庫県西宮市出身のシンガーソングライター、あいみょんのメジャーデビューシングル。2016年11月30日にリリース。
2017年9月13日リリースの1stアルバム『青春のエキサイトメント』にも収録されています。作詞作曲は、あいみょん。
センセーショナルな歌詞が、注目されることの多いあいみょん。「生きていたんだよな」もその例に漏れず、自殺をテーマにしたショッキングな言葉が並んでいます。
でも、使う言葉が過激だったり、テーマがグロテスクだったり、という表層だけにとらわれてしまうと、あいみょんの魅力を見失ってしまう。僕はそう考えています。
彼女の書く詞は、確かにセンセーショナルではあるんですけど、ただ過激なことを書くのが目的化しているわけではなく、レトリックが駆使されていて、歌詞としての完成度がとても高いんです。
前述したとおり、自殺をテーマにした「生きていたんだよな」。この楽曲も、うわべの言葉やテーマに、注意が向かいがちですけど、表現者としてのクオリティの高さを感じる、優れた歌詞を持っています。
具体的には、やじうま精神を描くことで、現代社会の異常性を浮き彫りにしているんです。そこで、今日はこの歌詞の巧みな表現について、考察してみます。
歌詞のテーマ
最初に歌詞のテーマを整理しておきましょう。
歌詞がテーマとして扱うのは「自殺」。ある女子中高生の自殺と、それをめぐる報道が、語り手をとおして述べられていきます。
人の死という、あまりにも重い事実。しかし、テレビでの報道やSNSでの拡散をとおして、人の死という現実が、一種のエンターテイメントとなってしまう。
言い換えれば、死という現実が、ドラマと同じようなフィクションになってしまう。そんな現代社会の異常性を、この曲は暴き出しています。
エンターテイメント化する自殺
「自殺をエンターテイメントとして楽しむ」なんて言ったら、実に不謹慎。でも、そんな不謹慎なエンターテイメントが、日常的に存在していることを、歌詞は描いていきます。
1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。ちなみに便宜的に「Aメロ」と書きましたけど、メロディーをつけて歌うのではなく、語りになっています。
二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった
冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で綺麗で
「飛び降り自殺」「血まみれセーラー」など、リスナーの注意を引きつける言葉が、散りばめられています。内容的には、解釈に迷うところは、ほとんど無いでしょう。
内容を整理すると、自殺のニュースがあり、それに群がる野次馬たちが、語り手の冷めた視点で記述されています。
語り手の立場はハッキリしませんが、口語体で書かれていますし、「二日前このへんで」という一節があるので、近隣住民の1人と想定していいでしょう。
2連目の「たちまちここらはネットの餌食」からはネットで話題になっていること、3連目「そのセリフが集合の合図なのにな」と4連目「馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった」からは、ネット上だけでなく、現場にも人が群がっていることが分かります。
ネット上にも、物理的にも、野次馬が群がっているということですね。象徴的なのは「馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった」という一節。
人が亡くなっているというのに、みな「自殺」というセンセーショナルな話題にひかれ、いわばエンターテイメント化しています。
語り手と野次馬たちの違い
「自殺」というエンターテイメントに群がる野次馬たち。でも語り手は、彼らとは違った視点を持っています。
ぶっきらぼうな言葉づかいから示唆されるように、野次馬たちの行動に違和感をおぼえているのでしょう。
Aメロの最後で、語り手は「冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない 赤さが綺麗で」と述べています。
野次馬たちが血をセンセーショナルなものと受け取るのに対して、語り手はよりフラットな視点で、色としての美しさ、そして人が流した血としての、意味の重さを受け取ったのではないでしょうか。
Bメロとサビの歌詞では、そんな語り手の心情があらわになっています。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。
泣いてしまったんだ
泣いてしまったんだ
何にも知らないブラウン管の外側で
「ブラウン管の外側」と書かれていますから、語り手が一連の事件を、テレビで観ていたことが分かります。
野次馬たちが自殺をエンターテイメントとして消費するのに対して、語り手は見知らぬ誰かの人生を想像し、涙を流しています。
その後に続くサビでは、語り手の思いがより詳細に記述されます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう
赤い血を見ながら、少女が苦しみながらも精一杯生きたことを、思っているのでしょう。
何度も繰り返される「生きて」という言葉から、語り手の切迫した思いが伝わります。
「生きていたんだよな」というタイトルの意味が、凝縮された部分でもあります。
話題性に群がる野次馬とは、真逆の反応とも言えるでしょう。
語りとメロディー
先ほど、Aメロはメロディーに乗せて歌われるのではなく、語りだと書きました。その後のBメロとサビは、メロディーを持っています。
この差異が何を意味するのか、考えてみましょう。
Aメロは全編にわたって語り。でも、1番の歌詞でいえば、最後の「綺麗で」からメロディーに乗り、そのままBメロへと進行しています。
歌詞の内容は、Aメロは自殺に群がる野次馬たちの説明。Bメロとサビでは、語り手の感情が記述されています。
目の前の出来事を、淡々と述べていくAメロでは語り。そして、自分の感情をあらわしていくBメロ以降には、メロディーがあてられているということです。
つまり、歌詞の内容と対応して、語りとメロディーが使い分けられているということ。
語り手の感情にそってまとめると、Aメロでは野次馬たちの行動をウンザリと眺め、その様子を記述。
しかし、赤い血を見ることがスイッチとなり、自殺した少女の存在を意識。Aメロ最後の「綺麗で」から、溢れ出す感情のように、メロディーが躍動をはじめます。
2番に入っても、同様の構造で曲は進行します。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。
彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう
立ち入り禁止の黄色いテープ
「ドラマでしかみたことなーい」
そんな言葉が飛び交う中で
いま彼女はいったい何を思っているんだろう
遠くで 遠くで
3行目の「何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう」とは、現場が警察によって、手際よく片付けられていく様子を描写しているのでしょう。
自殺した少女の赤い血は、彼女の人生から切り離され、淡々と作業として拭き取られていく。システマティックな現代を、凝縮した表現と言えます。
4行目の「立ち入り禁止の黄色いテープ」と、5行目の「ドラマでしかみたことなーい」は、1番Aメロの野次馬の描写を、さらに補強するもの言えるでしょう。
「ドラマ」というワードが象徴的にあらわすように、野次馬たちにとっては、自殺がフィクション化したエンターテイメントとなっていることが分かります。
この後に続くBメロとサビでは、1番と同じく、語り手の感情を記述。
そして、2番サビ後に挿入されるCメロでは、語り手のさらに詳細な思想があらわされます。以下に引用します。
「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲をつかんで風になって 遥遠くへ
希望を抱いて飛んだ
語り手が、野次馬たちとは違い、自殺をエンターテイメントとして消費していないのは、ここまでの考察で分かりました。
上記の引用部では「今ある命を精一杯生きなさい」という言葉を、「綺麗事」だと切り捨てています。これは何を意味するのか。
よくある綺麗事を言うような人々も、野次馬たちと同じく、人の生死と向き合っていない。語り手は、そのように考えているのではないかと思います。
自殺をエンターテイメントとして楽しめる人は、人の生死をセンセーショナルな出来事として、いわばドラマ化、フィクション化しています。
それと同様に、綺麗事を言う人もまた、生死と向き合っているのではなく、自殺をありきたりのドラマのように捉えている。語り手はそう考えているんです。
結論・まとめ
ここまでの考察をまとめましょう。
曲のテーマとなるのは、人の生死。そして、それにまつわる現代人の異常性です。
人の死をエンターテイメントとして楽しめる野次馬はもってのほかですが、綺麗事を言う人も、生死に正面から向き合っているわけではなく、むしろ臭い物にフタをしている。
語り手はそのように考え、異常性を暴き出している。というのが、僕が出した結論です。
この曲を例にとっても、あいみょんという人は過激なテーマを選んでいるようで、冷静な視点も持ち合わせた人なんだろうな、と思います。
「生きていたんだよな」を聴く際に、「飛び降り自殺」とか「血まみれセーラー」といったショッキングな言葉にのみ注目し、「この曲すごいこと歌ってて面白いんだよ!」と反応するのは、この曲に出てくる野次馬たちと一緒。
そんな踏み絵のような、メタ的な構造を持っているところも、面白いところです。
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