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椎名林檎と宮本浩次「獣ゆく細道」歌詞の意味考察 人のなかにある獣


目次
イントロダクション
独白的な構造
この世は無情
タイトルの意味
あたまとからだ
本性は獣
はじめての道
正体は獣
曲のテーマ
結論・まとめ

イントロダクション

 「獣ゆく細道」は、シンガーソングライターの椎名林檎と、エレファントカシマシのボーカリスト宮本浩次による楽曲。2018年10月2日に、デジタル配信限定でリリース。作詞作曲は椎名林檎。

 椎名林檎さんと宮本浩次さん! 非常に個性的で、才能あふれるお二方のコラボレーションです。

 僕はファンクラブに入るぐらい、エレファントカシマシが好きなので、この一報を聞いたときには驚き、喜びました。

 作詞作曲を手がけるのは、椎名林檎さん。なのですが、エレカシの世界観とまったく同じというわけではないけど、宮本さんの音域、ボーカリストとしての表現力に、ぴったりと合った曲です。

 林檎さんも、宮本さんを想定して曲を作ったのだと思いますが、2人の才能の共鳴が感じられる、すばらしい楽曲となっています。

 今日とりあげたいのは、この曲の歌詞について。旧仮名遣いが使われ、「獣ゆく細道」というタイトルからも、クラシカルな雰囲気が漂いますが、歌詞の内容も文学的。

 「文学的」とだけ書くと、あまりにも曖昧ですけど、具体的には人間を「獣」に見立てて、その生き様を描いているんです。

 というわけで、今日は「獣ゆく細道」の歌詞を、考察してみたいと思います。

 歌詞は、ユニバーサルミュージックの特設サイトに掲載されているのですが、Aメロ、Bメロ、サビといったように、分けられるのでなく、流れるように記載されています。

 適宜、部分的に引用しながら、考察をすすめます。

独白的な構造

 ポップ・ミュージックの歌詞には、人間関係やストーリーを描いたものが少なくありません。

 しかし、この曲には「僕」や「私」といった代名詞は出てきません。具体的なストーリーも存在しません。

 その代わりに、語り手によって、独白的に言葉がはじき出されていきます。言うなれば、語り手の思想こそが内容のすべて。

 メッセージ性の強い歌詞とも言えます。前述したとおり、この曲が描き出すのは、人間の姿。

 では、順番に歌詞を確認していきましょう。

この世は無情

 まずはイントロ部分の歌詞を、以下に引用します。

この世は無情 皆んな分つてゐるのさ
誰もが移ろふ さう絶え間ない流れに
ただ右往左往してゐる

 旧仮名遣いに、ちょっとひるんでしまいますが、一言目から結論が書かれ、力強い歌詞です。

 一言目の「この世は無情」。これが、この曲のテーマと仮定して、歌詞を読みすすめていきましょう。

 「無情」というのは、字面のとおり、情けが無い、厳しいということですね。つまり1行目をまとめると、この世界は無情だと、みんながわかっている、ということ。

 2行目以降は、その無情さがどのようなものであるのか、より詳しく記述されています。

 2行目と3行目をまとめると、流れゆく時間のなかで、人はみな右往左往している。つまり、人には止めることのできない、時間の無情さを記述しています。

タイトルの意味

 この曲のタイトルは「獣ゆく細道」。先述したとおり、「獣」はこの世に生きる人間をあらわしているのだと、考えています。

 では「細道」が意味するものはなにか。結論から言うと、人生そのものをあらわしている、というのが僕の仮説です。

 「人生は旅路」といった言い回しもありますが、しばしば人生は道に例えられます。この曲においても、長い人生を道に例えているということ。

 そのため、イントロ部分では、止めることのできない流れゆく時間を、まず「無情」だと宣言したのではないでしょうか。

 「細道」は、読んで字のごとく、幅の狭い道を意味します。なぜ「獣ゆく道」ではなく、「獣ゆく細道」としたのか。

 その理由もまた、人生の無情さを強調するためだと思います。人生は道であるけれども、そこは細く、選択肢も有限である。そのような意味を「細道」という言葉に込めたのではないでしょうか。

 ただ、この曲は人生の無情さを歌うだけでなく、そんな無情な世界を生きる人間の力強さも、描き出しています。人を「獣」に置き換えているのは、道を飼いならされて歩くのではなく、力強く進む姿をあらわしているのでしょう。

 それでは、ここで確認したことを踏まえて、歌詞のつづきを考察していきましょう。

あたまとからだ

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

いつも通り お決まりの道に潜むでゐるあきのよる
着膨れして生き乍ら死んぢやあゐまいかとふと訝る

 1行目に、タイトルにも含まれている「道」というワードが出てきました。しかし、ここでは人生をあらわしているわけでなはく、もっと狭い範囲の意味。いつも通りになんとなく過ごしている様子を「道」と言っているのでしょう。

 2行目の「着膨れして」とは、身分やステータスを重視することを、意味しているのだと考えます。性格や価値観よりも、表層的なステータスを重視する現代社会を、風刺しているのではないでしょうか。

 2行目全体をまとめると「うわべばかり気にして、死んでいるように生きていないかと、ふと疑ってみる」といった意味でしょう。

 つづいて、1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

飼馴らしてゐるやうで飼殺してゐるんぢやあないか
自分自身の才能を あたまとからだ、丸で食ひ違ふ
人間たる前の単に率直な感度を頼つてゐたいと思ふ

 上記Bメロの歌詞は、Aメロの歌詞を、さらに発展させた内容と言えます。Aメロでは価値観について記述され、最後は「ふと訝る」と疑問で終わっていました。

 Bメロでは、その疑問にこたえるように、語り手は自分自身の現状へと、切り込んでいきます。

 1行目から2行目前半は、自分自身の才能を飼いならしているようで、実は飼い殺しているのではないか、と疑問を呈する内容。

 Aメロの内容を考慮にいれると、うわべの評価を気にしすぎるあまり、自分の本当の能力を消してしまっているのではないか、ということでしょう。

 2行目のその後につづく「あたまとからだ、丸で食ひ違ふ」は、社会がもとめる価値観を頭で理解してしても、自分の感情がもとめるものとはまったく食い違う、という意味。

 「あたまとからだ」とは、「理性と感情」と言い換えても良いかもしれません。

 1番AメロとBメロの歌詞では、語り手の価値観および感情と、社会がもとめる価値観との相違が、描写されています。

本性は獣

 サビに入ると、今度は人間の本性について語られます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう本性は獣 丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ
行く先はこと切れる場所 大自然としていざ行かう

 1行目の「さう本性は獣」は、メロディー的にはサビのはじまりと言うより、Bメロの最後に位置しています。

 「さう本性は獣」とは、人間の本性は獣のようなもの。意味を補って訳すと、人間は理性を持っているが、動物的な衝動もまた持っている、ということでしょう。

 その後につづく「丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ」とは、社会的な価値観の基準にとらわれず、自分の思うように突っ走ろう、ということ。

 2行目の「こと切れる」とは、息が絶える、亡くなるという意味。そのため2行目全体では「命が終わるときまで、感情のままに生きよう」といった感じの意味になります。

 ここまで1番の歌詞では、社会にはいろいろな制約もあるが、自分の確固たる価値観を無くさずに生きよう!という、力強いメッセージが綴られています。

はじめての道

 1番の歌詞では、主に社会と自分、自分のあたまとからだの対立が描かれていました。

 2番に入ると、今度はより内省的な視点へと変わります。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

そつと立ち入るはじめての道に震へてふゆを覚える
紛れたくて足並揃へて安心してゐた昨日に恥ぢ入る

 1行目の「はじめての道」は、なにか新しい挑戦をする、新しい状況に身を置く、ぐらいの意味でしょう。

 2行目は、新たな環境のなかで、目立たぬよう周囲に合わせていたが、それを恥じている、という内容。

 「昨日」とありますが、文字どおりの昨日というよりも、もうすこし広い意味で、まわりに合わせていた自分の過去を指しているのでしょう。

 その後につづく、2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

気遣つてゐるやうで気遣わせてゐるんぢやあ 厭だ
自己犠牲の振りして 御為倒しか、とんだかまとゝ
謙遜する前の単に率直な態度を誇つてゐたいと思ふ

 1行目は、Aメロの歌詞を考慮にいれて解釈すると、まわりを気づかっているようで、その態度によって、逆にまわりに気をつかわせている、あるいは向こうも自ずと気遣っている、そんな状況はいやだということでしょう。

 2行目も、1行目と共通する内容。「御為倒し」とは、「表面はいかにも相手のためであるかのようにいつわって、実際は自分の利益をはかること」という意味。

 「かまとゝ」(かまとと)とは、「知っているくせに知らないふりをすること」という意味です。

 以上の言葉の意味を踏まえて、2行目をまとめると、他者のために行動するふりをして、本当は自分の利益を考えている、ということです。

 3行目は、謙遜する態度よりも、もっと感情に基づいた態度を大切にしたい、ということ。

 前述のとおり1番の歌詞では、自分と社会の価値観の対立を描いていました。しかし、2番に入ると、自分の行動を見つめていることが、ここまでの考察でわかると思います。

 打算的な考え方を否定していますし、より人間の深いところに、切れ込んでいるとも言えるでしょう。

正体は獣

 心の深いところを覗き込む2番の歌詞。では、サビではどう展開するのか。

 2番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう正体は獣 悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て
孤独とは言ひ換えりやあ自由 黙つて遠くへ行かう

 1番サビと同じく、まず「さう正体は獣」と、人間にも動物的なところはあるという宣言から始まります。

 「悴む」(かじかむ)とは、手が凍えて動きにくくなること。つまり「悴むだ命」とは、いろいろな困難によって、不自由になった命、あるいは人生という意味でしょう。

 「悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て」を意訳すると、いくら人生が凍えるような困難だったとしても、成し遂げた結果だけが重要、ということです。

 2行目は、この曲の歌詞のなかでは、比較的わかりやすい内容。文字どおりに読んでいくだけで大丈夫です。

 「孤独とは言ひ換えりやあ自由」は、解釈は迷いようがありません。しかし、より深く意味をとるなら、孤独は自由なんだから気にするな、というポジティヴなメッセージも含まれていると、考えられるでしょう。

 その後につづく「黙つて遠くへ行かう」は、孤独を気にせず、あるいは孤独に負けずに、先へ向かおうという意味です。

 1番サビでは、社会に屈せず獣のように生きよう!という力強いメッセージが記述されていました。それに対して2番サビは、おなじ獣というワードを使いながらも、伝わるメッセージは大きく異なります。

 前述のとおり、1番では社会の価値観にときにはあがなう、激しい存在として「獣」が使われていました。しかし2番では、人間のような社会的な存在ではなく、ひとつの独立した存在として「獣」が使われています。

 「人間」というワードは、「人の間」と書くところからも示唆されるとおり、それ自体に社会的な存在という意味合いが含まれています。

 2番サビでは、そのような社会的な生き物としての人ではなく、独立した存在としての人にフォーカスするため、「獣」がキーワードとして象徴的に使われている、というのが僕の仮説です。

 社会で生きる存在ではなく、感情をともなった自由な存在。そのような、人の一面にフォーカスするため、まわりに合わせることや孤独について、2番では歌われてきたのではないでしょうか。

曲のテーマ

 それでは、この曲がもっとも訴えたいことは何なのか。のこりの歌詞を確認しながら、検討していきましょう。

 2番サビ後に挿入されるCメロの歌詞を、以下に引用します。

本物か贋物かなんて無意味 能書きはまう結構です
幸か不幸かさへも勝敗さへも当人だけに意味が有る

 こちらも、この曲の歌詞のなかでは、わかりやすい部分と言えるでしょう。本物かニセモノか、幸か不幸か、そうした基準はすべて自分自身で決めればいい、という内容。

 言い換えれば、他人や社会の基準は気にしなくていい、ということです。

 間奏を挟んだあと、曲のラスト部分となるサビの歌詞を、以下に引用します。

無けなしの命がひとつ だうせなら使ひ果たさうぜ
かなしみが覆ひ被さらうと抱きかゝへて行くまでさ
借りものゝ命がひとつ 厚かましく使ひ込むで返せ
さあ貪れ笑ひ飛ばすのさ誰も通れぬ程狭き道をゆけ

 順番に、ざっと解釈していきましょう。

 1行目は「わずかひとつばかりの命、どうせなら使い果たしましょう」。

 2行目は「もし悲しみが訪れても、抱きかかえて行けばいいのさ」。

 3行目は「借り物の命だけれど、厚かましいほど使い込んで返そう」。

 4行目は「飽くことなく人生を追求し、笑い飛ばそう。誰も通れないような自分の道をいこう」。

 補足が必要なところを、いくつか説明します。

 3行目の「借りものゝ命」は、この曲のテーマとも繋がるキーワード。この一節からは、語り手が「命」は一時的なものだと捉えていることが分かります。

 今、生きている姿は一時的なもので、やがて亡くなると宇宙や永遠に還る、そしてまた生まれ変わる、という仏教的な死生観とも繋がります。

 4行目の「誰も通れぬ程狭き道をゆけ」を、さきほどは「誰も通れないような自分の道をいこう」と訳しました。

 もうすこし説明すると、「道」というのは生き方や、人生そのものをあらわす、広い意味で使われていると考えられます。

 だから「誰も通れぬ程狭き道」とは、ほかの誰とも違う自分だけの生き方という意味。4行目後半をさらにカジュアルに訳すと、誰も真似できないほどオリジナルな、自分だけの行き方を貫こう、ということです。

 以上、これで歌詞のすべてを確認しました。人生の生き方が、この曲のテーマだと、明確になったのではないかと思います。

結論・まとめ

 結論に入りましょう。

 「獣ゆく細道」というタイトルがしめすとおり、この曲では人間を「獣」、人生を「細道」に例え、自分らしく人生を生きることを歌っています。

 そのメッセージは力強く、同時に内省的。「獣」という言葉を使ったのは、獣のように荒々しく、常識にとらわれずに生きること。そして、社会的な存在ではなく、独立した存在としての自分を見つめ直すこと。このふたつの意味を込めるためです。

 あんまり安直にこういう言葉は使いたくないのですが、こういう曲こそ「文学的」であると、声を大にして言いたいです。

 冒頭にも書いたとおり、僕はエレファントカシマシが大好きで、宮本さんのことも定期的に好きで好きでしょうがない時期が訪れるほど大好き!

 そんな宮本さんが、椎名林檎さんと共演するということで、ものすごくハードルを上げて期待していたのですが、想定をはるかに超える完成度の1曲です。これは自信を持って言えます!

 歌詞は旧仮名遣いが多く、ちょっと難解だなと思う方もいらっしゃるかと思います。このページが、すこしでもこの楽曲を楽しむうえで役に立ったなら、これ以上に嬉しいことはありません。

 本当にすばらしい曲ですので、じっくりと世界観にひたりながら、聴いてみてください。

 




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DAOKO×米津玄師「打上花火」歌詞の意味考察 語り手の視線がつなぐ過去と現在


目次
イントロダクション
設定確認
語り手の視線
視線の向きはなにを示すか?
結論・まとめ

イントロダクション

 「打上花火」は、東京都出身のシンガーソングライター、DAOKOの2017年8月16日リリースの3rdシングル。

 作詞作曲は米津玄師。楽曲のプロュースとデュエットも米津玄師がつとめ、クレジットは「DAOKO×米津玄師」名義になっています。

 アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』主題歌。

 一言では言語化できない感情。そういう繊細な気持ちをあらわせるところが、音楽の魅力のひとつだと思うんですが、この「打上花火」もまさにそういった曲。

 淡い恋心が、刹那的な打上花火に照らし合わせ、語られています。

 言葉の使い方だけでなく、この曲の歌詞で巧妙なのは、視線の描き方。打上花火は基本的には上を見上げてみるものですけど、対比的に足元に視線を落とす描写も出てくるんです。

 というわけで、視線の行き先に注目しながら、この曲の歌詞を考察してみたいと思います。

設定確認

 まずは、登場人物や場所などの設定を確認しましょう。

 出てくるのは、語り手と「君」の2人。語り手が、過去に「君」といっしょに海で花火を見ていたときのことを、思い出しているのが歌詞の内容です。

 語り手は「僕」や「私」といった、代名詞を使いません。

 前述したとおり、この曲はDAOKOと米津玄師によるデュエット。そのため、途中で語り手が切り替わっているとも解釈できそうなのですが、ここでは語り手は固定のものとして、話をすすめます。

 語り手と「君」が、恋人関係なのか、あるいは片思いなのかはハッキリしませんが、「君」への思いが綴られていきます。

語り手の視線

 語り手がつづる「君」への思いが、歌詞の内容。

 淡い恋心らしきものが描写され、それ自体は歌のテーマとして、めずらしいものではありません。この曲で注目すべきか、語り手の視線。

 上を見るのか、下を見るのか、視線の動きがわかるように記述されているんです。

 例えば、歌い出しとなる1番のAメロ。ここでも早速、視線の向きをしめす言葉が綴られています。

 以下に引用します。

あの日見渡した渚を 今も思い出すんだ
砂の上に刻んだ言葉 君の後ろ姿

 1行目では「見渡した渚」とあるので、海全体を見渡したのでしょう。レンジの広い視線と言えます。

 それに対して2行目では、より焦点が絞られています。

 「砂の上に刻んだ言葉」というのは、2人で砂浜になにか言葉を書きこんだのでしょう。視線は下を向いています。

 その後につづく「君の後ろ姿」。「君」の位置がわからないので確定はできませんが、砂浜を見るよりは、視線が上にあると考えられます。

 あるいは、言葉を刻んだ砂浜のそのさきに、「君」が立っているのかもしれません。

 いずれにしても、視線の動きが情報として盛り込まれています。

 そのあとのBメロでも、視線の動きを示唆する内容がつづきます。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

寄り返す波が 足元をよぎり何かを攫う
夕凪の中 日暮れだけが通り過ぎて行く

 上記の引用部では、視線が足元に向かっているのかは分かりません。しかし、注意が足元の波に向かっているのは確かです。

 2行目に「夕凪の中 日暮れだけが通り過ぎて行く」とあるので、視線自体はぼんやりと目の前を見つめているのかもしれません。

 少なくとも、特定のなにかを凝視しているわけではないと考えられます。

 1番AメロとBメロの内容をまとめると、語り手は「君」といっしょに海にいたことを思い出しています。

 その際に、視線は渚、君の後ろ姿、日暮れへと移動。足元あるいは、その場全体を見渡していることが、分かりました。

 サビに入ると、タイトルにも入っている「花火」というワードが登場。

 1番サビの歌詞を、以下に引用します。

パッと光って咲いた 花火を見ていた
きっとまだ 終わらない夏が
曖昧な心を 解かして繋いだ
この夜が 続いて欲しかった

 語り手が見ているのは、打上花火。ということは、はっきりとは名言されませんが、視線は上を向いていると考えられます。

 あるいは海辺で花火を見ている状況なので、わざわざ意識的に視線を上に向けなくとも、自然に目に入るのかもしれません。

視線の向きはなにを示すか?

 さて、ここまで視線に注目しながら、歌詞を確認してきました。

 では、視線を描写することで、なにを意味しているのか。歌詞のなかで、、どう機能しているのか。検討してみましょう。

 「足元」や「花火」といった、視線の方向性を感じさせる言葉が、散りばめられていたのは事実。しかし、いずれの表現も、はっきりと焦点を合わせているのかは不明です。

 唯一、語り手が意識的に見ていると思われるのが「君の後ろ姿」。そもそも語り手は「君」のことを思い出しているわけで、これは当然とも言えるでしょう。

 この曲では、語り手が過去をふり返っています。そして、その過去の中心にいるのは「君」。

 過去をふり返ることを、写実的にあらわすため、視線の先にある情報が、断片的に示されている、というのが僕の考えです。

 あくまで、語り手が思い出しているのは「君」。そして、「君」といっしょにいた海、いっしょに見た花火を、順番にそのときの視点にそって、ふり返っているんです。

 「あの日見渡した渚」「砂の上に刻んだ言葉」など、視線の向きをあらわす描写が続くのはそのため。

 そのときに見た風景を、映像的に言葉にあらわしているのではないかと思います。

 2番に入ると、焦点はハッキリと「君」へと向けられます。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

「あと何度君と同じ花火を見られるかな」って
笑う顔に何ができるだろうか
傷つくこと 喜ぶこと 繰り返す波と情動
焦燥 最終列車の音

 上記の引用部では、風景ではなく、「君」の言葉と、語り手の心情が語られています。

 1番では過去の風景を映像的にあらわし、2番に入ると本題である「君」への描写にうつる。歌詞は、そのような流れで構成されています。

 語り手の視線が、過去に「君」に抱いていた感情と、今でも「君」を思っている感情を、つないでいるとも言えます。

 感情を呼び起こすためのトリガーとして、当時の視線をとおして、過去の風景を写実的に語っているのだと、僕は解釈します。

結論・まとめ

 「目は口ほどに物を言う」という言葉がありますけど、この曲の歌詞では、語り手の視線の動きが、過去と感情をつなぐキーになっている、というのが僕の出した結論。

 歌詞の内容としては、語り手が「君」にまつわる感情を語っているのですが、写実的に描くことで、格段にリアリティを獲得しているのではないでしょうか。

 また、タイトルにもなっている「打上花火」。歌詞のなかで、2人はいっしょに花火を見ているわけですけど、夏の空に消えていく花火の刹那感が、過去の恋の切なさともリンクしていて、ますます表現が立体的になっています。

 具体的な風景を描きながら、抽象的な感情も、同時に描きだしている。この曲の歌詞の面白さは、そこにあると思います。

 ぜひ、映画を見るような気分で、イマジネーションを全開にしながら、この曲を聴いてみてください。

 




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aiko「カブトムシ」歌詞の意味考察 「かぶとむし」が広げるイマジネーション


目次
イントロダクション
カブトムシの特徴
カブトムシを利用した描写
「あたし」と「あなた」の関係性
なぜ「かぶとむし」を用いたか?
結論・まとめ

イントロダクション

 「カブトムシ」は、大阪府吹田市出身のシンガーソングライター、aikoのメジャー4作目のシングル。1999年11月17日リリース。作詞作曲はaiko。

 2018年のNHK紅白歌合戦でも、19年前にリリースされたこの曲が歌われましたし、aikoの代表曲と言って、さしつかえないかと思います。

 多くの人に認知され、すでに「名曲」の評価をうけているとも言えるでしょう。

 こういう名曲って、すでに評価が決まっているがために、どこが優れているのか、見過ごしてしまいがち。この「カブトムシ」も、巧みな歌詞をもった、名曲に値する楽曲です。

 具体的には「カブトムシ」というワードを選ぶことによって、歌詞がはるかに立体的で、イマジネーションをかきたてるものになっているんですよね。この曲は、とにかく「カブトムシ」という言葉がキー。

 というわけで、このページではaikoさんの「カブトムシ」の歌詞を、「カブトムシ」というワードが持つ、意味の広がりに注目して、考察してみます。

カブトムシの特徴

 内容としては、女性目線から男性のことを歌った曲。一般的にはラブソングにカテゴライズしても、さしつかえないでしょう。

 それなのにタイトルが「カブトムシ」というのは、ちょっと違和感があります。なぜなら「カブトムシ」という言葉を聞いて、恋愛を思いうかべる人は、まずいないからです。

 歌詞のなかにも「かぶとむし」というワードが出てくるのですが、なぜわざわざこの言葉を使ったのか。

 ちなみに曲名は、カタカナで「カブトムシ」、それに対して歌詞中では、ひらがなで「かぶとむし」と表記されています。まずは「かぶとむし」という言葉が持つ意味を、検討してみます。

 「検討」と言うほど、たいした事でもないのですが、基本的にカブトムシは1年で死んでしまう虫。そして、成虫は夏に羽化して、活動するということ。

 この2点をおさえておくと、歌詞の意味がより立体的に、うかび上がってくるのではないかと思います。

 また「カブトムシ」と言えば、ほとんどの人が幼虫ではなく、立派なカブトをもった成虫を想像するでしょう。

 この曲においても、「かぶとむし」という言葉は、一夏に生きる成虫を意図していると考えられます。

カブトムシを利用した描写

 では、上記で確認した「かぶとむし」の意味が、歌詞のなかでどのような効果を生んでいるのか。順番に確認してみましょう。

 歌詞に出てくるのは「あたし」と「あなた」。語り手の「あたし」の視点から、「あなた」のことが語られていきます。

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

悩んでる身体が熱くて 指先は凍える程冷たい
「どうした はやく言ってしまえ」 そう言われてもあたしは弱い
あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて
想像つかないくらいよ そう 今が何より大切で…

 1行目に「指先は凍える程冷たい」と出てくることから、季節は冬だと想定できます。つまり、カブトムシにとっては、季節ハズレの季節だということ。

 上記の引用部には「かぶとむし」というワードは出てきませんが、のちの歌詞で「あたし」は自分自身をカブトムシに重ねています。

 では、カブトムシに自分を重ねることで、どういう意味を帯びているのか。先述したとおり、季節は冬。夏に暮らすカブトムシにとっては、ひじょうに厳しい季節です。

 ということは「あたし」は、季節ハズレのカブトムシのごとく、弱った状態であると想定できます。

 引用部1行目に「悩んでる身体が熱くて」とあるとおり、「あたし」は悩みを抱えていることが、明らかにされています。

 そして、その内容は「あなた」に思いを伝えられないこと。引用部2行目から、そのように読みとれます。

 「どうした はやく言ってしまえ」は、友人などにかけられた言葉、あるいは自分の心の声なのでしょう。

 3行目に「あなたが死んでしまって」とありますが、実際に死んでしまったわけではなく、はるか未来を想像しているのだと考えられます。

 なぜなら、4行目に「想像つかないくらいよ そう 今が何より大切で」とつづくため。「あたし」は、おそらく未来のことを想像することで、自分の背中を押そうとしているのに、今のことしか考えられないのでしょう。

「あたし」と「あなた」の関係性

 「あたし」は、「あなた」になにかを伝えたい。そして、季節ハズレのカブトムシのように、弱った状態である。ということが、Aメロの歌詞から明らかになりました。

 では、2人はどんな関係で、「あたし」は何を伝えたいのか、整理してみましょう。

 まず「あたし」は、「あなた」に伝えたいことがある。それはなにか。

 おそらくは2人は友達だけど恋人同士になりたい、あるいは恋人同士だけど結婚したいなど、現状の関係を進展させたいのだと考えられます。

 そのため、このまま関係性が変わらず、時間が進んでしまうことを想像し、気持ちを伝えるための勇気を出そうとしているのでしょう。

 でも、いまの関係性がこわれることを恐れている。そんな気持ちが「そう 今が何より大切で」という言葉に、あらわれているのではないかと思います。

 サビに入ると「かぶとむし」という言葉が出てきて、2人の関係性がより詳細に語られます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

少し背の高いあなたの耳に寄せたおでこ
甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし
流れ星ながれる 苦しうれし胸の痛み
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

 2行目で、「あたしはかぶとむし」と出てきました。「あたし」が「かぶとむし」だとすると、「あなた」は「甘い匂い」。

 この例えから、2人の関係性を想像することができます。

 「甘い匂い」を追いかける「かぶとむし」。つまり「あたし」が、「あなた」を追いかける関係にあるということです。

 「あたし」は「あなた」に片想いをしている、あるいは恋人関係にあるとしても、「あたし」の思いの方が、上回っているのでしょう。

なぜ「かぶとむし」を用いたか?

 さて、2人の関係性が確認できたところで、「かぶとむし」がするもの、という視点にたちかえります。

 すなわち、なぜ「かぶとむし」という言葉を用いたのか。「かぶとむし」のイメージを用いることで、どんな効果を生んでいるか。

 2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

鼻先をくすぐる春 リンと立つのは空の青い夏
袖を風が過ぎるは秋中 そう 気が付けば真横を通る冬
強い悲しいこと全部 心に残ってしまうとしたら
それもあなたと過ごしたしるし そう 幸せに思えるだろう

 こちらの引用部には、春夏秋冬それぞれの季節が出てきて、2人が1年をとおして、一緒に過ごしたことが明かされます。

 さきほど確認してとおり、カブトムシは1年しか生きられない昆虫。1年をふり返ることで、カブトムシのように1年で終わってしまう恋になるかもしれない、ということを表しているのかもしれません。

 つづいて、2番サビの歌詞を、以下に引用します。

少し癖のあるあなたの声 耳を傾け
深い安らぎ酔いしれるあたしはかぶとむし
琥珀の弓張り月 息切れすら覚える鼓動
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

 1番のサビと同じく、「あなた」に引き寄せられる「あたし」が、かぶとむしに例えられています。

 内容的にも1番のサビと同じく、「あたし」の思いの強さがあらわれていると言えるでしょう。

 「あなた」と一緒に月を見ることで「息切れすら覚える鼓動」になってしまう。そんな気持ちは「生涯忘れることはないでしょう」と綴られています。

 また「琥珀の弓張り月」とあるとおり、時間設定は夜。ここでも、夜行性のカブトムシのイメージと、実際の状況が繋がっています。

結論・まとめ

 ここまで「かぶとむし」という言葉が生みだす効果に注目しながら、歌詞を考察してきました。

 カブトムシは、1年しか生きられない、夏に成虫となる昆虫。1番Aメロで、歌詞の季節設定が、冬であることが分かりました。

 まず、自分を季節ハズレのカブトムシに例えることで、追いつめられた状況、弱った心情をあらわしています。

 さらに自分を「かぶとむし」、「あなた」を「甘い匂い」に例えることで、2人の関係性を描写。ほとんど説明することなく、「あたし」が「あなた」を追いかける関係であることが分かります。

 そして、2番Aメロに出てくる春夏秋冬。基本的には、1年しか生きられないカブトムシ。恋の刹那性をあらわしているとも、解釈できます。

 「カブトムシ」という、ちょっと変わったタイトルを持ったこの曲。でも、奇をてらっているわけではなく、カブトムシのイメージを利用することで、イマジネーションをかき立てる歌詞になっていますよね。

 少なくとも僕は、この曲をじっくり聴いてみて「やっぱりaikoってすごい!」と思いました。

 人によって、さまざまなリアリティーを持って響くのも、この曲の良いところ。

 ぜひオープンな気持ちで、イマジネーションを全開にして、聴いてみてください。




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米津玄師「ゴーゴー幽霊船」歌詞の意味考察 「セブンティーン」と「アンドロイド」が生き抜く現代社会


目次
イントロダクション
テーマと登場人物
セブンティーン
アンドロイド
「幽霊船」が意味するもの
結論・まとめ

イントロダクション

 「ゴーゴー幽霊船」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。2012年5月16日リリースの1stアルバム『diorama』(ジオラマ)に収録されています。作詞作曲は米津玄師。

 いかにも米津玄師さんらしく、イマジナティヴな言葉が並ぶ歌詞。サウンド面でも、絶妙にタイミングと音程をハズしたギターのチョーキングが、壊れたバネのように響き、ポップさと実験性を併せ持っています。

 「ゴーゴー幽霊船」というタイトルがまず個性的ですけど、言葉にも音にもアヴァンギャルドな部分を持った楽曲と言えます。

 今日、とり上げたいのは、この曲の歌詞について。一聴すると、出てくるワードの多彩さに目が眩むような感覚に陥るんですけど、まったく支離滅裂なことを歌っているかというと、そうではありません。

 イメージを繋いでいくと、あざやかに世界観が浮かび上がってくる、とても想像力をかき立てる歌詞なんです。

 そこで本論では、歌詞の意味を考察し、僕なりの解釈をご紹介したいと思います。

テーマと登場人物

 僕は結論から述べるのが好きなので、まず結論を先に言ってしまいます。

 この曲は現代社会と、そこに生きる人々を描写。具体的には、悩みが尽きない現代社会と、その中で疲弊する人を、イマジナティヴな言葉の数々を使って、描き出しているんだと考えています。

 また、「幽霊船」や「太陽系」といったワードも出てきて、輪廻転生をモチーフにしているのかな、と感じる部分もあります。

 最初に、歌詞に出てくる人物を確認しましょう。

 登場するのは「セブンティーン」と「アンドロイド」。語り手はアンドロイドで、「僕」という一人称代名詞を使っています。

 なぜ一般的な代名詞ではなく、「セブンティーン」と「アンドロイド」という、印象に残るワードを選んだのか。

 まずはそこから考えてみましょう。

セブンティーン

 1番Aメロの歌詞は、4行で1ブロック。合計4ブロックで構成されています。

 そしてブロック毎に、「セブンティーン」と「アンドロイド」が交互に記述されていきます。歌い出しとなる1ブロック目は「セブンティーン」。

 まずは、彼女がどんな人物なのか。なぜ「セブンティーン」という名が与えられたのか、考えてみます。

 1番Aメロの1ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

ちょっと病弱なセブンティーン
枯れたインクとペンで絵を描いて
継いで接いでまたマザーグース
夜は何度も泣いてまた明日

 一見すると、とくに「セブンティーン」の人間性につながる情報は、無いと思われるかもしれません。でも、じっくり検討していくと、多くの情報が含まれています。

 2行目の「インクとペンで絵を描いて」からは、絵を描くのが好きな、感受性に優れた人物であることが分かります。

 3行目も同様。「マザーグース」とは英語の伝承童謡のことで、それを「継いで接いで」ということは、文学への興味がある感受性の豊かさをあらわしているのでしょう。

 1行目の「病弱な」、2行目の「枯れた」、4行目の「何度も泣いて」からは、「セブンティーン」という人物が、精神的に疲れていることを示しています。

 最初の問いに戻り、なぜ「セブンティーン」と名づけられのか、考えてみましょう。

 17才といえば、ちょうど大人と子供のはざまであり、もっとも多感な年齢と言ってもいいでしょう。

 そのような多感さ、傷つきやすさを象徴するため、「セブンティーン」という名前が与えられた。というのが僕の仮説です。

 では、次に「セブンティーン」が出てくる3ブロック目では、どのような展開を見せるのか。

 1番Aメロの3ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

ずっと病欠のセブンティーン
曇らないまま今日を空き缶に
空の雷管とペーパーバッグ
馬鹿みたいに呼吸を詰め入れた

 上記3ブロック目も、「セブンティーン」の人間性を語っていると言えます。

 2行目の「曇らないまま今日を空き缶に」とは、具体的にはハッキリしませんが、心をふさがずに今日をやり過ごす、といった意味ではないかと思います。

 3行目の「雷管」とは、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めたもの。それが「空(くう)」だということは、中身は中空であるということでしょう。

 つまり、「セブンティーン」は爆発するような感情を持っていないということ。しかし、わざわざ「雷管」というワードを使っているので、元から持っていないわけではなく、今は失われた状態であるということです。

 その後に続く「ペーパーバッグ」、「馬鹿みたいに呼吸を詰め入れた」も、同じように「セブンティーン」の空虚さをあらわす表現でしょう。

 「セブンティーン」は多感な人物で、そのために日々の生活で消耗し、「病欠」状態になっている、と僕は考えます。

アンドロイド

 つづいて、もう一人の登場人物「アンドロイド」がどのようなキャラクターか、検討していきましょう。

 「アンドロイド」というのは、人型のロボットのこと。ということは、感受性ゆたかな「セブンティーン」とは、真逆の存在として描かれているのでは、と仮説を立てられます。

 では、その仮説に基づいて、歌詞を考察しましょう。前述のとおり1番Aメロは、ブロックごとに「セブンティーン」と「アンドロイド」が語られていきます。

 1番Aメロの2ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

回る発条のアンドロイド
僕の声と頭はがらんどう
いつも最低な気分さ
君に愛されたいと願っていたい

 「回る発条(ぜんまい)」「声と頭はがらんどう」と記述され、「セブンティーン」とは違い、感受性を失った状態であることが想像できます。

 「いつも最低な気分」ということは、意識的にアンドロイドのように、心を消して生きているのだとも考えられます。

 4行目の「君」とは誰か。他に登場人物はいないので、「セブンティーン」だと解釈するのが自然でしょう。

 意識的に「声と頭はがらんどう」にして日々を生きる「アンドロイド」。でも内心は、「セブンティーン」のように傷つきながらも、感受性を持った人物に憧れているということです。

 つづいて、1番Aメロの4ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

あいも変わらずにアンドロイド
君を本当の嘘で騙すんだ
僕は幽霊だ 本当さ
君の目には見えないだろうけど

 ここでは「アンドロイド」が、「僕は幽霊だ」と言い始めています。これはどういう意味なのか。

 アンドロイドは人工物。それに対して、幽霊は科学的に証明できないもの。すなわち、両者は対極的なものと言えます。

 アンドロイドが、感情を排除し、歯車のように役割を果たす存在だとすると、幽霊はその逆。つまり、感情を持った存在だということ。

 そして、感情のみを強調するために、「幽霊」というワードを選んでのではないかと思います。

 また「幽霊」は亡くなった人の霊を意味しますから、感情ばかりを優先すると、現代社会では生きられない。というメッセージまで内包されているとも考えられます。

 まとめると、傷つきながらも感受性ゆたかな「セブンティーン」。機械のように感情を排した「アンドロイド」。

 しかし、実際は「アンドロイド」も感情を持っており、「セブンティーン」のような感情をともなった生活に憧れ、「僕は幽霊だ」と言っているのです。

「幽霊船」が意味するもの

 つづいて考察したいのは、曲のタイトルにも入っている「幽霊船」という言葉。

 この言葉は歌詞にも出てくるのですが、いったい何を意味しているのか。「アンドロイド」のところで考察したとおり、「幽霊」とは人間の感情をあらわしたワードだと考えられます。

 ということは、「幽霊船」は人間の思いを積んだ船。すなわち地球、あるいは肉体ではなく観念のみが存在するあの世を、あらわしていると仮定できます。

 後者の意味を取るならば、文字どおりの「幽霊船」ということですね。

 実際に歌詞を確認してみましょう。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

そんなこんなで歌っては
行進する幽霊船だ
善いも悪いもいよいよ無い
閑静な街を行く

 上記引用部も抽象的で、一聴しただけでは具体的な意味はわかりません。でも、先ほどの仮説を念頭におくと、イメージがつながっていきます。

 3行目の「善いも悪いもいよいよ無い」からは、現世ではなく、あの世をあらわしているように思われます。なぜなら、あの世では、現代社会にあるルールや常識は無いと考えられるからです。

 次に2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

そんなこんなで歌っては
目を剥く幽霊船だ
前も後ろもいよいよ無い
なら全部忘れて
ワアワアワアワア

 3行目の「前も後ろもいよいよ無い」は、先ほどの「善いも悪いもいよいよ無い」と同様、あの世を示唆する表現だと思います。

 前後が無いということは、時間が消失したということ。つまり、現世ではなく、時間の存在しない別の世界だということです。

 また「幽霊船」というワード以外にも、永遠やあの世を思わせる言葉が、散りばめられています。例えば、2番サビの「太陽系の奥へ進め」、間奏後のサビの「三千年の恨み放て」「修羅に墜ちて」など。

 「ゴーゴー幽霊船」というタイトルが示唆するとおり、永遠や輪廻天生もあつかった曲だと言えるでしょう。

結論・まとめ

 では、結局のところ「ゴーゴー幽霊船」はなにを描き、なにを伝えようとしている曲なのか。

 「セブンティーン」と「アンドロイド」両者のキャラクターが示すとおり、現代社会において、感情のおもむくままに生きることの困難を描いています。

 「セブンティーン」のように感受性をオープンにして傷つくか、「アンドロイド」のように心を消して、機械のように生きるしかないのです。

 もし、自分の感情を全開にするなら「幽霊」になるしかない。「ゴーゴー幽霊船」は、このような社会の生きにくさを描写した曲だと、僕は考えています。

 こんなふうに書くとネガティヴなようですけど、人間の強さとか怒りも同時に描かれているところが、この楽曲の魅力。

 あくまで僕の解釈ですが、難解な歌詞であるのは確かだと思いますので、少しでも参考になれば幸いです。

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あいみょん「生きていたんだよな」歌詞の意味考察 フィクション化する現実


目次
イントロダクション
歌詞のテーマ
エンターテイメント化する自殺
語り手と野次馬たちの違い
語りとメロディー
結論・まとめ

イントロダクション

 「生きていたんだよな」は、兵庫県西宮市出身のシンガーソングライター、あいみょんのメジャーデビューシングル。2016年11月30日にリリース。

 2017年9月13日リリースの1stアルバム『青春のエキサイトメント』にも収録されています。作詞作曲は、あいみょん。

 センセーショナルな歌詞が、注目されることの多いあいみょん。「生きていたんだよな」もその例に漏れず、自殺をテーマにしたショッキングな言葉が並んでいます。

 でも、使う言葉が過激だったり、テーマがグロテスクだったり、という表層だけにとらわれてしまうと、あいみょんの魅力を見失ってしまう。僕はそう考えています。

 彼女の書く詞は、確かにセンセーショナルではあるんですけど、ただ過激なことを書くのが目的化しているわけではなく、レトリックが駆使されていて、歌詞としての完成度がとても高いんです。

 前述したとおり、自殺をテーマにした「生きていたんだよな」。この楽曲も、うわべの言葉やテーマに、注意が向かいがちですけど、表現者としてのクオリティの高さを感じる、優れた歌詞を持っています。

 具体的には、やじうま精神を描くことで、現代社会の異常性を浮き彫りにしているんです。そこで、今日はこの歌詞の巧みな表現について、考察してみます。

歌詞のテーマ

 最初に歌詞のテーマを整理しておきましょう。

 歌詞がテーマとして扱うのは「自殺」。ある女子中高生の自殺と、それをめぐる報道が、語り手をとおして述べられていきます。

 人の死という、あまりにも重い事実。しかし、テレビでの報道やSNSでの拡散をとおして、人の死という現実が、一種のエンターテイメントとなってしまう。

 言い換えれば、死という現実が、ドラマと同じようなフィクションになってしまう。そんな現代社会の異常性を、この曲は暴き出しています。

エンターテイメント化する自殺

 「自殺をエンターテイメントとして楽しむ」なんて言ったら、実に不謹慎。でも、そんな不謹慎なエンターテイメントが、日常的に存在していることを、歌詞は描いていきます。

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。ちなみに便宜的に「Aメロ」と書きましたけど、メロディーをつけて歌うのではなく、語りになっています。

二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた

血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食

「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな

馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった
冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で綺麗で

 「飛び降り自殺」「血まみれセーラー」など、リスナーの注意を引きつける言葉が、散りばめられています。内容的には、解釈に迷うところは、ほとんど無いでしょう。

 内容を整理すると、自殺のニュースがあり、それに群がる野次馬たちが、語り手の冷めた視点で記述されています。

 語り手の立場はハッキリしませんが、口語体で書かれていますし、「二日前このへんで」という一節があるので、近隣住民の1人と想定していいでしょう。

 2連目の「たちまちここらはネットの餌食」からはネットで話題になっていること、3連目「そのセリフが集合の合図なのにな」と4連目「馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった」からは、ネット上だけでなく、現場にも人が群がっていることが分かります。

 ネット上にも、物理的にも、野次馬が群がっているということですね。象徴的なのは「馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった」という一節。

 人が亡くなっているというのに、みな「自殺」というセンセーショナルな話題にひかれ、いわばエンターテイメント化しています。

語り手と野次馬たちの違い

 「自殺」というエンターテイメントに群がる野次馬たち。でも語り手は、彼らとは違った視点を持っています。

 ぶっきらぼうな言葉づかいから示唆されるように、野次馬たちの行動に違和感をおぼえているのでしょう。

 Aメロの最後で、語り手は「冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない 赤さが綺麗で」と述べています。

 野次馬たちが血をセンセーショナルなものと受け取るのに対して、語り手はよりフラットな視点で、色としての美しさ、そして人が流した血としての、意味の重さを受け取ったのではないでしょうか。

 Bメロとサビの歌詞では、そんな語り手の心情があらわになっています。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

泣いてしまったんだ
泣いてしまったんだ
何にも知らないブラウン管の外側で

 「ブラウン管の外側」と書かれていますから、語り手が一連の事件を、テレビで観ていたことが分かります。

 野次馬たちが自殺をエンターテイメントとして消費するのに対して、語り手は見知らぬ誰かの人生を想像し、涙を流しています。

 その後に続くサビでは、語り手の思いがより詳細に記述されます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

 赤い血を見ながら、少女が苦しみながらも精一杯生きたことを、思っているのでしょう。

 何度も繰り返される「生きて」という言葉から、語り手の切迫した思いが伝わります。

 「生きていたんだよな」というタイトルの意味が、凝縮された部分でもあります。

 話題性に群がる野次馬とは、真逆の反応とも言えるでしょう。

語りとメロディー

 先ほど、Aメロはメロディーに乗せて歌われるのではなく、語りだと書きました。その後のBメロとサビは、メロディーを持っています。

 この差異が何を意味するのか、考えてみましょう。

 Aメロは全編にわたって語り。でも、1番の歌詞でいえば、最後の「綺麗で」からメロディーに乗り、そのままBメロへと進行しています。

 歌詞の内容は、Aメロは自殺に群がる野次馬たちの説明。Bメロとサビでは、語り手の感情が記述されています。

 目の前の出来事を、淡々と述べていくAメロでは語り。そして、自分の感情をあらわしていくBメロ以降には、メロディーがあてられているということです。

 つまり、歌詞の内容と対応して、語りとメロディーが使い分けられているということ。

 語り手の感情にそってまとめると、Aメロでは野次馬たちの行動をウンザリと眺め、その様子を記述。

 しかし、赤い血を見ることがスイッチとなり、自殺した少女の存在を意識。Aメロ最後の「綺麗で」から、溢れ出す感情のように、メロディーが躍動をはじめます。

 2番に入っても、同様の構造で曲は進行します。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう
立ち入り禁止の黄色いテープ
「ドラマでしかみたことなーい」
そんな言葉が飛び交う中で
いま彼女はいったい何を思っているんだろう
遠くで 遠くで

 3行目の「何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう」とは、現場が警察によって、手際よく片付けられていく様子を描写しているのでしょう。

 自殺した少女の赤い血は、彼女の人生から切り離され、淡々と作業として拭き取られていく。システマティックな現代を、凝縮した表現と言えます。

 4行目の「立ち入り禁止の黄色いテープ」と、5行目の「ドラマでしかみたことなーい」は、1番Aメロの野次馬の描写を、さらに補強するもの言えるでしょう。

 「ドラマ」というワードが象徴的にあらわすように、野次馬たちにとっては、自殺がフィクション化したエンターテイメントとなっていることが分かります。

 この後に続くBメロとサビでは、1番と同じく、語り手の感情を記述。

 そして、2番サビ後に挿入されるCメロでは、語り手のさらに詳細な思想があらわされます。以下に引用します。

「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲をつかんで風になって 遥遠くへ
希望を抱いて飛んだ

 語り手が、野次馬たちとは違い、自殺をエンターテイメントとして消費していないのは、ここまでの考察で分かりました。

 上記の引用部では「今ある命を精一杯生きなさい」という言葉を、「綺麗事」だと切り捨てています。これは何を意味するのか。

 よくある綺麗事を言うような人々も、野次馬たちと同じく、人の生死と向き合っていない。語り手は、そのように考えているのではないかと思います。

 自殺をエンターテイメントとして楽しめる人は、人の生死をセンセーショナルな出来事として、いわばドラマ化、フィクション化しています。

 それと同様に、綺麗事を言う人もまた、生死と向き合っているのではなく、自殺をありきたりのドラマのように捉えている。語り手はそう考えているんです。

結論・まとめ

 ここまでの考察をまとめましょう。

 曲のテーマとなるのは、人の生死。そして、それにまつわる現代人の異常性です。

 人の死をエンターテイメントとして楽しめる野次馬はもってのほかですが、綺麗事を言う人も、生死に正面から向き合っているわけではなく、むしろ臭い物にフタをしている。

 語り手はそのように考え、異常性を暴き出している。というのが、僕が出した結論です。

 この曲を例にとっても、あいみょんという人は過激なテーマを選んでいるようで、冷静な視点も持ち合わせた人なんだろうな、と思います。

 「生きていたんだよな」を聴く際に、「飛び降り自殺」とか「血まみれセーラー」といったショッキングな言葉にのみ注目し、「この曲すごいこと歌ってて面白いんだよ!」と反応するのは、この曲に出てくる野次馬たちと一緒。

 そんな踏み絵のような、メタ的な構造を持っているところも、面白いところです。

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