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椎名林檎と宮本浩次「獣ゆく細道」歌詞の意味考察 人のなかにある獣


目次
イントロダクション
独白的な構造
この世は無情
タイトルの意味
あたまとからだ
本性は獣
はじめての道
正体は獣
曲のテーマ
結論・まとめ

イントロダクション

 「獣ゆく細道」は、シンガーソングライターの椎名林檎と、エレファントカシマシのボーカリスト宮本浩次による楽曲。2018年10月2日に、デジタル配信限定でリリース。作詞作曲は椎名林檎。

 椎名林檎さんと宮本浩次さん! 非常に個性的で、才能あふれるお二方のコラボレーションです。

 僕はファンクラブに入るぐらい、エレファントカシマシが好きなので、この一報を聞いたときには驚き、喜びました。

 作詞作曲を手がけるのは、椎名林檎さん。なのですが、エレカシの世界観とまったく同じというわけではないけど、宮本さんの音域、ボーカリストとしての表現力に、ぴったりと合った曲です。

 林檎さんも、宮本さんを想定して曲を作ったのだと思いますが、2人の才能の共鳴が感じられる、すばらしい楽曲となっています。

 今日とりあげたいのは、この曲の歌詞について。旧仮名遣いが使われ、「獣ゆく細道」というタイトルからも、クラシカルな雰囲気が漂いますが、歌詞の内容も文学的。

 「文学的」とだけ書くと、あまりにも曖昧ですけど、具体的には人間を「獣」に見立てて、その生き様を描いているんです。

 というわけで、今日は「獣ゆく細道」の歌詞を、考察してみたいと思います。

 歌詞は、ユニバーサルミュージックの特設サイトに掲載されているのですが、Aメロ、Bメロ、サビといったように、分けられるのでなく、流れるように記載されています。

 適宜、部分的に引用しながら、考察をすすめます。

独白的な構造

 ポップ・ミュージックの歌詞には、人間関係やストーリーを描いたものが少なくありません。

 しかし、この曲には「僕」や「私」といった代名詞は出てきません。具体的なストーリーも存在しません。

 その代わりに、語り手によって、独白的に言葉がはじき出されていきます。言うなれば、語り手の思想こそが内容のすべて。

 メッセージ性の強い歌詞とも言えます。前述したとおり、この曲が描き出すのは、人間の姿。

 では、順番に歌詞を確認していきましょう。

この世は無情

 まずはイントロ部分の歌詞を、以下に引用します。

この世は無情 皆んな分つてゐるのさ
誰もが移ろふ さう絶え間ない流れに
ただ右往左往してゐる

 旧仮名遣いに、ちょっとひるんでしまいますが、一言目から結論が書かれ、力強い歌詞です。

 一言目の「この世は無情」。これが、この曲のテーマと仮定して、歌詞を読みすすめていきましょう。

 「無情」というのは、字面のとおり、情けが無い、厳しいということですね。つまり1行目をまとめると、この世界は無情だと、みんながわかっている、ということ。

 2行目以降は、その無情さがどのようなものであるのか、より詳しく記述されています。

 2行目と3行目をまとめると、流れゆく時間のなかで、人はみな右往左往している。つまり、人には止めることのできない、時間の無情さを記述しています。

タイトルの意味

 この曲のタイトルは「獣ゆく細道」。先述したとおり、「獣」はこの世に生きる人間をあらわしているのだと、考えています。

 では「細道」が意味するものはなにか。結論から言うと、人生そのものをあらわしている、というのが僕の仮説です。

 「人生は旅路」といった言い回しもありますが、しばしば人生は道に例えられます。この曲においても、長い人生を道に例えているということ。

 そのため、イントロ部分では、止めることのできない流れゆく時間を、まず「無情」だと宣言したのではないでしょうか。

 「細道」は、読んで字のごとく、幅の狭い道を意味します。なぜ「獣ゆく道」ではなく、「獣ゆく細道」としたのか。

 その理由もまた、人生の無情さを強調するためだと思います。人生は道であるけれども、そこは細く、選択肢も有限である。そのような意味を「細道」という言葉に込めたのではないでしょうか。

 ただ、この曲は人生の無情さを歌うだけでなく、そんな無情な世界を生きる人間の力強さも、描き出しています。人を「獣」に置き換えているのは、道を飼いならされて歩くのではなく、力強く進む姿をあらわしているのでしょう。

 それでは、ここで確認したことを踏まえて、歌詞のつづきを考察していきましょう。

あたまとからだ

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

いつも通り お決まりの道に潜むでゐるあきのよる
着膨れして生き乍ら死んぢやあゐまいかとふと訝る

 1行目に、タイトルにも含まれている「道」というワードが出てきました。しかし、ここでは人生をあらわしているわけでなはく、もっと狭い範囲の意味。いつも通りになんとなく過ごしている様子を「道」と言っているのでしょう。

 2行目の「着膨れして」とは、身分やステータスを重視することを、意味しているのだと考えます。性格や価値観よりも、表層的なステータスを重視する現代社会を、風刺しているのではないでしょうか。

 2行目全体をまとめると「うわべばかり気にして、死んでいるように生きていないかと、ふと疑ってみる」といった意味でしょう。

 つづいて、1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

飼馴らしてゐるやうで飼殺してゐるんぢやあないか
自分自身の才能を あたまとからだ、丸で食ひ違ふ
人間たる前の単に率直な感度を頼つてゐたいと思ふ

 上記Bメロの歌詞は、Aメロの歌詞を、さらに発展させた内容と言えます。Aメロでは価値観について記述され、最後は「ふと訝る」と疑問で終わっていました。

 Bメロでは、その疑問にこたえるように、語り手は自分自身の現状へと、切り込んでいきます。

 1行目から2行目前半は、自分自身の才能を飼いならしているようで、実は飼い殺しているのではないか、と疑問を呈する内容。

 Aメロの内容を考慮にいれると、うわべの評価を気にしすぎるあまり、自分の本当の能力を消してしまっているのではないか、ということでしょう。

 2行目のその後につづく「あたまとからだ、丸で食ひ違ふ」は、社会がもとめる価値観を頭で理解してしても、自分の感情がもとめるものとはまったく食い違う、という意味。

 「あたまとからだ」とは、「理性と感情」と言い換えても良いかもしれません。

 1番AメロとBメロの歌詞では、語り手の価値観および感情と、社会がもとめる価値観との相違が、描写されています。

本性は獣

 サビに入ると、今度は人間の本性について語られます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう本性は獣 丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ
行く先はこと切れる場所 大自然としていざ行かう

 1行目の「さう本性は獣」は、メロディー的にはサビのはじまりと言うより、Bメロの最後に位置しています。

 「さう本性は獣」とは、人間の本性は獣のようなもの。意味を補って訳すと、人間は理性を持っているが、動物的な衝動もまた持っている、ということでしょう。

 その後につづく「丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ」とは、社会的な価値観の基準にとらわれず、自分の思うように突っ走ろう、ということ。

 2行目の「こと切れる」とは、息が絶える、亡くなるという意味。そのため2行目全体では「命が終わるときまで、感情のままに生きよう」といった感じの意味になります。

 ここまで1番の歌詞では、社会にはいろいろな制約もあるが、自分の確固たる価値観を無くさずに生きよう!という、力強いメッセージが綴られています。

はじめての道

 1番の歌詞では、主に社会と自分、自分のあたまとからだの対立が描かれていました。

 2番に入ると、今度はより内省的な視点へと変わります。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

そつと立ち入るはじめての道に震へてふゆを覚える
紛れたくて足並揃へて安心してゐた昨日に恥ぢ入る

 1行目の「はじめての道」は、なにか新しい挑戦をする、新しい状況に身を置く、ぐらいの意味でしょう。

 2行目は、新たな環境のなかで、目立たぬよう周囲に合わせていたが、それを恥じている、という内容。

 「昨日」とありますが、文字どおりの昨日というよりも、もうすこし広い意味で、まわりに合わせていた自分の過去を指しているのでしょう。

 その後につづく、2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

気遣つてゐるやうで気遣わせてゐるんぢやあ 厭だ
自己犠牲の振りして 御為倒しか、とんだかまとゝ
謙遜する前の単に率直な態度を誇つてゐたいと思ふ

 1行目は、Aメロの歌詞を考慮にいれて解釈すると、まわりを気づかっているようで、その態度によって、逆にまわりに気をつかわせている、あるいは向こうも自ずと気遣っている、そんな状況はいやだということでしょう。

 2行目も、1行目と共通する内容。「御為倒し」とは、「表面はいかにも相手のためであるかのようにいつわって、実際は自分の利益をはかること」という意味。

 「かまとゝ」(かまとと)とは、「知っているくせに知らないふりをすること」という意味です。

 以上の言葉の意味を踏まえて、2行目をまとめると、他者のために行動するふりをして、本当は自分の利益を考えている、ということです。

 3行目は、謙遜する態度よりも、もっと感情に基づいた態度を大切にしたい、ということ。

 前述のとおり1番の歌詞では、自分と社会の価値観の対立を描いていました。しかし、2番に入ると、自分の行動を見つめていることが、ここまでの考察でわかると思います。

 打算的な考え方を否定していますし、より人間の深いところに、切れ込んでいるとも言えるでしょう。

正体は獣

 心の深いところを覗き込む2番の歌詞。では、サビではどう展開するのか。

 2番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう正体は獣 悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て
孤独とは言ひ換えりやあ自由 黙つて遠くへ行かう

 1番サビと同じく、まず「さう正体は獣」と、人間にも動物的なところはあるという宣言から始まります。

 「悴む」(かじかむ)とは、手が凍えて動きにくくなること。つまり「悴むだ命」とは、いろいろな困難によって、不自由になった命、あるいは人生という意味でしょう。

 「悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て」を意訳すると、いくら人生が凍えるような困難だったとしても、成し遂げた結果だけが重要、ということです。

 2行目は、この曲の歌詞のなかでは、比較的わかりやすい内容。文字どおりに読んでいくだけで大丈夫です。

 「孤独とは言ひ換えりやあ自由」は、解釈は迷いようがありません。しかし、より深く意味をとるなら、孤独は自由なんだから気にするな、というポジティヴなメッセージも含まれていると、考えられるでしょう。

 その後につづく「黙つて遠くへ行かう」は、孤独を気にせず、あるいは孤独に負けずに、先へ向かおうという意味です。

 1番サビでは、社会に屈せず獣のように生きよう!という力強いメッセージが記述されていました。それに対して2番サビは、おなじ獣というワードを使いながらも、伝わるメッセージは大きく異なります。

 前述のとおり、1番では社会の価値観にときにはあがなう、激しい存在として「獣」が使われていました。しかし2番では、人間のような社会的な存在ではなく、ひとつの独立した存在として「獣」が使われています。

 「人間」というワードは、「人の間」と書くところからも示唆されるとおり、それ自体に社会的な存在という意味合いが含まれています。

 2番サビでは、そのような社会的な生き物としての人ではなく、独立した存在としての人にフォーカスするため、「獣」がキーワードとして象徴的に使われている、というのが僕の仮説です。

 社会で生きる存在ではなく、感情をともなった自由な存在。そのような、人の一面にフォーカスするため、まわりに合わせることや孤独について、2番では歌われてきたのではないでしょうか。

曲のテーマ

 それでは、この曲がもっとも訴えたいことは何なのか。のこりの歌詞を確認しながら、検討していきましょう。

 2番サビ後に挿入されるCメロの歌詞を、以下に引用します。

本物か贋物かなんて無意味 能書きはまう結構です
幸か不幸かさへも勝敗さへも当人だけに意味が有る

 こちらも、この曲の歌詞のなかでは、わかりやすい部分と言えるでしょう。本物かニセモノか、幸か不幸か、そうした基準はすべて自分自身で決めればいい、という内容。

 言い換えれば、他人や社会の基準は気にしなくていい、ということです。

 間奏を挟んだあと、曲のラスト部分となるサビの歌詞を、以下に引用します。

無けなしの命がひとつ だうせなら使ひ果たさうぜ
かなしみが覆ひ被さらうと抱きかゝへて行くまでさ
借りものゝ命がひとつ 厚かましく使ひ込むで返せ
さあ貪れ笑ひ飛ばすのさ誰も通れぬ程狭き道をゆけ

 順番に、ざっと解釈していきましょう。

 1行目は「わずかひとつばかりの命、どうせなら使い果たしましょう」。

 2行目は「もし悲しみが訪れても、抱きかかえて行けばいいのさ」。

 3行目は「借り物の命だけれど、厚かましいほど使い込んで返そう」。

 4行目は「飽くことなく人生を追求し、笑い飛ばそう。誰も通れないような自分の道をいこう」。

 補足が必要なところを、いくつか説明します。

 3行目の「借りものゝ命」は、この曲のテーマとも繋がるキーワード。この一節からは、語り手が「命」は一時的なものだと捉えていることが分かります。

 今、生きている姿は一時的なもので、やがて亡くなると宇宙や永遠に還る、そしてまた生まれ変わる、という仏教的な死生観とも繋がります。

 4行目の「誰も通れぬ程狭き道をゆけ」を、さきほどは「誰も通れないような自分の道をいこう」と訳しました。

 もうすこし説明すると、「道」というのは生き方や、人生そのものをあらわす、広い意味で使われていると考えられます。

 だから「誰も通れぬ程狭き道」とは、ほかの誰とも違う自分だけの生き方という意味。4行目後半をさらにカジュアルに訳すと、誰も真似できないほどオリジナルな、自分だけの行き方を貫こう、ということです。

 以上、これで歌詞のすべてを確認しました。人生の生き方が、この曲のテーマだと、明確になったのではないかと思います。

結論・まとめ

 結論に入りましょう。

 「獣ゆく細道」というタイトルがしめすとおり、この曲では人間を「獣」、人生を「細道」に例え、自分らしく人生を生きることを歌っています。

 そのメッセージは力強く、同時に内省的。「獣」という言葉を使ったのは、獣のように荒々しく、常識にとらわれずに生きること。そして、社会的な存在ではなく、独立した存在としての自分を見つめ直すこと。このふたつの意味を込めるためです。

 あんまり安直にこういう言葉は使いたくないのですが、こういう曲こそ「文学的」であると、声を大にして言いたいです。

 冒頭にも書いたとおり、僕はエレファントカシマシが大好きで、宮本さんのことも定期的に好きで好きでしょうがない時期が訪れるほど大好き!

 そんな宮本さんが、椎名林檎さんと共演するということで、ものすごくハードルを上げて期待していたのですが、想定をはるかに超える完成度の1曲です。これは自信を持って言えます!

 歌詞は旧仮名遣いが多く、ちょっと難解だなと思う方もいらっしゃるかと思います。このページが、すこしでもこの楽曲を楽しむうえで役に立ったなら、これ以上に嬉しいことはありません。

 本当にすばらしい曲ですので、じっくりと世界観にひたりながら、聴いてみてください。

 




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エレファントカシマシ「おはよう こんにちは」は挨拶の言葉を異化している


 「おはよう こんにちは」は、1988年11月2日に発売されたエレファントカシマシ3枚目のシングル。作詞作曲は宮本浩次。

 同年11月21日発売の2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』にも収録されています。

 エレファントカシマシには好きな曲がいっぱいあるんですけど、この曲も大好きな1曲です。「おはよう こんにちは」という日常的な挨拶の言葉がタイトルになったこの曲。この曲の好きなところを一言であらわすなら、とにかくエモーショナルなところ。

 歌詞もタイトルと同じく「おはよう こんにちは」という歌う出しで始まるのですが、そのときの宮本さんの歌唱が、日常的なフレーズとは裏腹に、あり得ないほどエモーショナルなのです。聴いていて、ちょっと怖くなるほど。こんなに激しくエモーションをこめた「おはよう」も「こんにちは」も、この曲以外では聞いたことがありません。

 バンドのアレンジもテンポは抑え目ながら、タメをしっかり作ったグルーヴ感のあるロックで、非常にかっこいい1曲です。「おはよう こんにちは」というタイトルなら、弾き語りのメローな曲を想像する人の方が多いのではないかと思いますが、この曲はラウドでロックな曲なんです。

 歌詞がメロディーに乗って歌われることにより、言葉が持つ意味以上のものが伝わる、伝わってくるように思える、というところがポップ・ミュージックの魅力のひとつだと思いますが、この曲はまさに言葉以上のメッセージとエモーションが伝わってきます。では、これから歌詞の意味とボーカルの歌唱の2点を中心に、この曲の好きな部分をご紹介したいと思います。

ボーカリゼーションの特徴

 かっこつけて「ボーカリゼーション」と書きましたが、「ボーカルの歌い方」程度の意味だとご理解ください。前述したように、この曲はバンドの演奏とサウンドも、ミドル・テンポのロックです。音量もラウドで、イントロからロックバンドかくあるべし!という演奏が展開されます。

 イントロから、ギターとドラムはタメを作って、ゆったりと演奏しています。元々のテンポが遅めなのに加えて、さらに音が遅れて出てくるような、糸を引くようなへヴィーなアンサンブルです。ベースは、ギターとドラムのタメを補強するように、リズムをキープしていきます。

 イントロに続いて、ボーカルが入ってくるわけですが、バンドの演奏から遅れてズレそうなぐらいに、大きくタメを作って、歌っていくんです。「言葉じり合わせ」という部分は、バンドの演奏と交錯するような、時間差で波が打ち寄せるような感覚に陥ります。こういったタイム感は、宮本さんの特徴であり魅力であると思うのですが、この曲ではそのようなタイム感が全面に出てきています。

 絶妙なタイム感と共に、声自体もエモーションを絞り出すような、圧倒的な存在感を持っています。タイム感と唯一無二の声。このふたつが合わさり、「おはよう こんにちは」というなにげない言葉が、とてつもない説得力を持って響きます。この時点では「おはよう こんにちは」と言っているだけで、表層的には特に意味があることを言っているわけではないのに、です。

歌詞の内容

 では、次に歌詞の内容を検討してみましょう。まず、歌い出し部分の歌詞を、下記に引用します。

おはよう こんにちは さようなら
言葉じり合わせ 日がくれた

 先ほども触れたとおり、1行目はタイトルと同じく挨拶の言葉が並びます。しかし、2行目の歌詞の内容によって、それらの挨拶の言葉も全く違って聞こえてくるのではないかと思います。

 2行目の「言葉じり合わせ」というのは、人に合わせて当たり障りのない言葉を使う、というような意味でしょうか。

 そして、それに続く「日がくれた」という言葉は、気を使って当たり障りのない言葉を言っているうちに、1日が終わってしまった、ということを歌っているのではないかと思います。

 ここで重要なのは、2行目の歌詞によって、挨拶の言葉を並べた1行目の歌詞が、全く違った意味を帯びて響くということです。

 日常的な「おはよう」や「こんにちは」といった言葉が異化され、非日常的なまでの感情をともなった言葉のように響く、と言ってもいいでしょう。

 「おはよう」や「こんにちは」という言葉は、ある面では形骸化していて、ほとんど具体的な意味を持っていません。この曲は、そのような形骸化した言葉を日々使わなければいけないことへの、苛立ちのようにも響きます。

 同時に、もっと生き生きとした言葉を使いたい、との情熱も内包いるのではないかとも思います。

 さらに歌詞は以下のように進行します。歌い出しの2行に続く歌詞を引用します。

頭かかえて そこらの芝生に寝ころんで
空 見上げて 何もかもが同じ

 この引用部でも、日常的としか言えない日常に対して、苛立ちとも怒りとも呼べない感情が渦巻いていることを、歌っているのではないでしょうか。

言葉が歌になったときの魅力

 歌詞の内容を見てきましたが、この曲の歌詞はエレファントカシマシの演奏と歌によって増幅され、音楽の一部になることで完成されるものだと思います。歌い出しの「おはよう」から、とても日常的な挨拶の「おはよう」とは思えない熱情が込められています。

 いろいろと書いてきましたが、意味に多様性があり、言葉以上に解釈の余地が大きいところが、音楽の魅力だと思っています。

 僕はこの曲に、鬱屈した感情が爆発するようなパワーを感じ、1日の始まりに聴きたい1曲になっています。エレカシはこの曲で、形骸化した「おはよう」(のような言葉)に異を唱え、ここまで力強くエモーショナルな「おはよう」を歌っているのではないか、というのが僕の考えです。

 少ない言葉で最大限の感情を伝える、エレカシの魅力が凝縮された1曲なので、ぜひ聴いてみてください。

 





エレファントカシマシ「月と歩いた」が描くのは東京の夜の散歩


 「月と歩いた」は、エレファントカシマシの楽曲。作詞作曲は宮本浩次。1989年発売の3rdアルバム『浮世の夢』に収録。

 2009年発売のベストアルバム『エレカシ 自選作品集 EPIC 創世記』にも収録されています。

 「月と歩いた」は、東京の夜の散歩を歌った曲です…と書くと、夜の散歩は歌のテーマとして一般的であるし、何も変わったことなんてないじゃないか、と思われるかもしれません。

 しかし、この曲の特異なところは、「東京の」夜の散歩を歌っているところ。それではなぜ、この曲が特異なのか、これからご説明させていただきます。

楽曲の構造

 この曲の構造は、一般的なヴァースとコーラスが循環する進行、言葉を変えればAメロからBメロを経てクライマックスのサビに至る、といった進行感とは少し異なっています。下記のように、間に挟まるブリッジ以外は、同じメロディーが繰り返されます。

コーラス→ブリッジ→コーラス

 イントロはアコースティック・ギターのみの弾き語りのようなアレンジで、再生時間1:27あたりからのブリッジ部分に入ると、ラウドな音量のフル・バンドでの演奏に切り替わります。同時に、この部分では歌詞の内容も一変し、音量の上でも歌詞の上でも鮮烈なコントラストをなしています。では、どのように1曲のなかで歌詞がコントラストをなしているのか、順番に見てみましょう。

前半部分の歌詞

 まず、歌い出しの2行では、以下のように歌われています。

月と歩いた 月と歩いた
寒い夜ありがたい散歩の道づれに

 月が出た夜道を歩いているときの心情が、アコースティック・ギターをバックに繊細に歌われています。ひとりで散歩する様子を「月と歩いた」というロマンチックとも言える言葉で表している点など、この引用部は夜の散歩を歌った曲らしい一節です。さらに、この後の2行には、夜道の描写が続きます。

道が真ん中 そのまにまに
小さくなって家が建ってる

 こちらの引用部では、道路に沿って両側に家が建っている様子を描写しているのでしょう。「道が真ん中」と道を主語にして、道路を中心にして語っています。この部分からは、語り手の実際の立ち位置と価値観が垣間見えて、優れた表現であると思います。

 おそらく、語り手は道の真ん中を歩いているか、あるいは道を眺めているということ。そして家が小さいというのは、小さく窮屈そうに家が建っている、あるいは道よりも存在感が小さい、ということを歌っているのではないかと思います。このように前半のコーラス部分では、月が出た夜道を散歩する様子が、情緒的に描かれています。

ブリッジ部の歌詞

 では、ブリッジ部分では何が歌われているのでしょうか。前述したように、演奏の面でもブリッジ前まではアコースティック・ギター1本による弾き語りのようなアレンジ、ブリッジ部からはフル・バンドによるロックロール然としたアレンジとなり、音量と雰囲気が一変します。以下はブリッジ部分の歌詞の引用です。

ブーブーブードライブ楽しブーブーブ
なめたようなアスファルトの道を

 引用部では、車が走る様子が歌われています。「ブーブー」と擬音語が使用され、ボーカルの歌い方もそれまでとは一変し、荒々しくパワフルな歌い方へ。直前まで、ひとり静かに夜道を散歩していた語り手。その語り手に車が走り寄り、ひかれそうになるぐらいの距離まで接近する、その一連の様子と車の発する音が、ブリッジ部では表されているのでしょう。

 ブリッジ部分の歌詞の主語は確定しにくいですが、それまでと変わらぬ語り手だとしたら、心をかき乱された描写だと言えるし、あるいは車を擬人化して主語にしているようにも感じられます。

対比的なコーラスとブリッジ

 ブリッジ部が終わると、再び静かなコーラス部が戻ってきます。その歌い出しの歌詞を、下記に引用します。

少し静かにしてくれないか
言うか言わぬか車をよけた

 こちらの引用部から、語り手に車が接近していたことが確認できます。さらに、この曲の最後の行にあたる歌詞で、語り手は「ついてくる月がついてくる」と言葉を結んでいます。

 ここまで見てきたように「月と歩いた」は、静かに夜道を散歩するコーラス→車が接近してきて騒がしいブリッジ→車が走り去りまた静かなコーラス、と展開していきます。静かな夜道を散歩している風景や、そのときの心情を情緒的に歌うだけではなく、車が接近する様子まで描写しているのが、この曲のめずらしい部分です。

 しかも、語り手は車の接近に気を取られつつも、車が去った後は「月がついてくる」と言い、車が接近する前の落ち着いた気持ちを失っていません。

 この曲ではブリッジにおいて、弾き語りからフル・バンドへの移行が、アレンジと音量の面でコントラストとなり、曲のダイナミズムを広げています。しかし、そのコントラストは音楽面だけに留まらず、歌詞の面でも車の接近を挟むことで、東京のような都市において、月に思いをよせる感受性を際立たせているのではないかと思います。

 「東京には空がない」というクリシェがありますが、「月と歩いた」の語り手は車の騒音のなかでも、月と一緒に歩く感受性を失ってはいません。

 最初にこの曲は「東京の夜の散歩を歌った曲」だと書きましたが、重要なのは東京かどうかというより、繊細な感受性を持ち続けられるかどうか、ということです。

 単純に夜道の散歩を情緒的に歌うだけではなく、車の騒音というリアリティを含めることで、「月と歩いた」は人の感受性をより深く描写した1曲と言えるのではないでしょうか。

 





エレファントカシマシ『生活』


エレファントカシマシ 『生活』

アルバムレビュー
発売: 1990年9月1日
レーベル: EPIC/SONY

 『生活』は、エレファントカシマシの1990年発売の4thアルバム。

 荒々しいロックンロールを響かせた1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』から、2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ』、3rdアルバム『浮世の夢』と、サウンド的にはメローな要素を強めていったエレファントカシマシ。4枚目の『生活』は、過去3作で培ってきたハードな面とメローな面が、バランスよく融合した1枚であると言えます。同時に、歌詞には内省的な表現が増しています。

 1曲目「男は行く」から、激しく歪んだギターがラフな感じにリフを弾き始め、ボーカルもそれに応えるように絞り出すような声。さらにベースとドラムのリズム・セクションも、アンサンブルを支えつつも、絡み合うようにグルーヴを生んで生きます。

 直線的に突っ走るのではなく、ボーカルも含めて全ての楽器が対等にアンサンブルに関与し、バンドが生き物のように躍動する曲です。エモーショナルな歌唱に、タイトに絞り込まれたバンドのアンサンブル。これまで3作を経たバンドの進化が実感できる、非常に完成度の高い1曲からアルバムが始まります。

 2曲目の「凡人 -散歩き-」では、ギターがカウントをとるようなフレーズから、縦のぴったり揃ったイントロ。その後すぐに、各楽器がほどけていくようにグルーヴする、メリハリの効いた1曲。この曲は1曲を通して、タイトに合わせる部分とラフにグルーヴする部分が共存し、バンドのアンサンブルの精度が向上していることが自ずと伝わってきます。ギターの金属的な響きも、バンド・サウンドを引き締めています。

 3曲目「too fine life」は、ほどよく歪んだ音のギターの流れるようなイントロから、ペース・メーカーのようにリズムを刻むベースとドラム。言葉と共に流れるような自然なボーカルのメロディー・ラインと併せて、ロックな要素とメローな要素が溶け合った1曲。

 4曲目「偶成」は、アコースティック・ギターを中心にした、ゆったりしたテンポの1曲。ボーカルと歌詞が前景化し、耳と心に染み渡ります。ラブソングなど人との関係性を歌う曲が圧倒的に多い日本の音楽シーンにおいて、この曲のように自分自身と向かい合い、内省的な名曲をいくつも生み出していることも、エレカシの特異なところ。激しく歪んだディストーション・ギターは最後まで出てこないものの、リズムのメリハリとボーカリゼーションによってクライマックスを演出していて、バンドとしての成熟と進化を感じさせます。

 5曲目「遁生」は、12分にも及ぶ大曲です。4曲目と同じくアコースティック・ギターの弾き語りのような始まりから、極力音量の変化に頼らずにダイナミズムを表現しています。

 6曲目は「月の夜」。アコースティック・ギターを使用した曲が続きます。ロックバンドとしての多彩なアンサンブルを聴かせる1曲目から3曲目までと、テンポを抑えながらエモーションを表現する4曲目から6曲目。アルバムの流れとしても、良いバランスだと思います。美しいファルセットと、エモーションを絞り出すような歌唱が混じり合う、宮本さんのボーカルが聴きどころ。

 アルバムラストの7曲目は「晩秋の一夜」。5曲目「遁生」に続いて、こちらも10分を超える大曲。アコースティック・ギターを中心にしながら、歪んだギターのサウンドも効果的に導入し、1曲のなかでコントラストの感じられるアンサンブル。再生時間0:41あたりから聞こえるピアノのような音、1:43あたりから聞こえるギターの音など、音数を絞り込みながら丁寧に組み上げた様子がうかがえます。無駄な音と言葉が、一切ありません。

 アルバム作品にしては少ない7曲の収録ながら、収録時間は50分。前述したように10分を超える曲を2曲含み、1曲が持つコントラストとダイナミズムの幅の広がりを感じる1枚です。

 音楽を語るときに「なにかに似ている」と言うのは単純化が過ぎるのは承知していますが、このアルバムの前半は、アレンジメントとサウンド・プロダクションにレッド・ツェッペリンに近いものを感じます。もちろん、ただの借り物ではなく、エレカシらしく日本的なオリジナリティを獲得した上で、ということです。

 





エレファントカシマシ『浮世の夢』


エレファントカシマシ 『浮世の夢』

アルバムレビュー
発売: 1989年8月21日
レーベル: EPIC/SONY

 『浮世の夢』は、エレファントカシマシの1989年発売の3rdアルバム。

 初期衝動をそのまま音楽に変換したかのような、エモーションが爆発するガンガンのロックンロールが続く『THE ELEPHANT KASHIMASHI』。メローな歌唱やミドル・テンポの曲の増加、変拍子の導入など、音楽性と表現力を広げた『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』。そんな2作に続く、3枚目のアルバムが今作『浮世の夢』。

 2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』は、1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』のアグレッシヴな要素は引き継ぎつつ、バンドもボーカルも表現力を深めた1作でした。では、3作目の『浮世の夢』では、どのような進化を遂げたのか。メローな部分をさらにおし進め、表現の幅を広げた1枚と言えます。

 過去2作が激しく歪んだギターを中心にした、洋楽オールド・ロックに近いアレンジとサウンドだったのに比べて、今作はギターの歪みは控えめに、曲によってはフォーク・ロックのような音作りになっています。また、メロディーも日本的で、歌詞には東京の風景を切り取るような描写が多く、音楽的にも歌詞の面でも叙情性が増しています。

 しかし、ただおとなしくなったわけではなく、例えば1曲目「「序曲」夢のちまた」は、ゆったりと季節と風景を描くような1曲ながら、曲のラストにはエモーションが爆発するところがあり、今までの良さを活かしつつ、音楽性を広げようという意図が感じられます。音数の少ないバンドのアンサンブルと共に、優しく語りかけるように、タメをたっぷりととって歌うイントロから、シャウトと言ってもいいぐらいに絞り出すように声を響かせるラストまで、音量と表現の振り幅が非常に広い1曲です。

 前述したように、このアルバムには季節や風景を切り取ったような情緒的な表現が多数出てきます。1曲目「「序曲」夢のちまた」には「不忍池」、曲のタイトルにもなっている3曲目「上野の山」と、具体的な地名も登場。この2曲の歌詞から、僕はこのアルバムを聴くと上野の風景を思い浮かべてしまいます。

 5曲目「珍奇男」は、現在でもライブの定番曲。アコースティック・ギターのみの弾き語りの序盤から、徐々に楽器が増え、ボーカルのテンションも上がっていく、ダイナミズムの広い1曲。皮肉なのかユーモアなのか、とにかく「言いたいことがある」という思いが伝わる歌詞とも相まって、曲の世界観に引き込まれ、7分を超える大曲ですが一気に聴けます。不適切な表現かもしれませんが、エレカシ流のプログレのような1曲。

 月夜の散歩を歌った8曲目「月と歩いた」も名曲。1人で月が出ている夜道を散歩している様子を歌った曲なのですが、歌詞には「寒い夜ありがたい散歩の道づれに」と出てきます。この一節に端的にあらわれているのですが、月に対して「ありがたい」と思う感受性をはじめとして、感情と風景が目の前に広がるような情緒的でイマジナティヴな1曲です。

 アコースティック・ギターとボーカルのみのイントロから、1stアルバムに戻ったかのようなロックなブリッジ部を挟んで、また静かなパートに戻る構成にも意外性があります。ブリッジ部分の歌詞は、車が走る音を「ブーブーブー」とあらわしていますから、走り去る車の騒音を、バンドのサウンドでも表現したのだろうと思います。このあたりの歌詞とサウンドの一体感も秀逸。

 宮本さんのボーカルは、過去2作はライブでテンションが突き抜けていくような、その場でエモーションのほとばしるライブを体験しているかのようなリアリティがありましたが、今作ではその場で弾き語りを聴いているような、宮本さんが耳元で囁いているかのようなリアリティがあります。

 全体のサウンド・プロダクションと歌い方の質を変えながらも、ライブ感があるところは変わっていません。ボーカルと共に、バンドのアンサンブルにも新たな方向性が聞き取れます。『浮世の夢』は、ボーカルもバンドのアンサンブルも、表現力をさらに深めた1枚と言えるのではないかと思います。

 僕自身も東京出身で、田舎に帰省するという経験がないのですが、『浮世の夢』を聴くと、子供のころに見た東京の風景が蘇るような、東京出身でよかったと思える、郷愁を感じます。前述したように、僕の中でこのアルバムは上野のイメージです。不忍池や五重塔、上野公園を散歩しながら、このアルバムを聴くのもおすすめです。