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椎名林檎と宮本浩次「獣ゆく細道」歌詞の意味考察 人のなかにある獣


目次
イントロダクション
独白的な構造
この世は無情
タイトルの意味
あたまとからだ
本性は獣
はじめての道
正体は獣
曲のテーマ
結論・まとめ

イントロダクション

 「獣ゆく細道」は、シンガーソングライターの椎名林檎と、エレファントカシマシのボーカリスト宮本浩次による楽曲。2018年10月2日に、デジタル配信限定でリリース。作詞作曲は椎名林檎。

 椎名林檎さんと宮本浩次さん! 非常に個性的で、才能あふれるお二方のコラボレーションです。

 僕はファンクラブに入るぐらい、エレファントカシマシが好きなので、この一報を聞いたときには驚き、喜びました。

 作詞作曲を手がけるのは、椎名林檎さん。なのですが、エレカシの世界観とまったく同じというわけではないけど、宮本さんの音域、ボーカリストとしての表現力に、ぴったりと合った曲です。

 林檎さんも、宮本さんを想定して曲を作ったのだと思いますが、2人の才能の共鳴が感じられる、すばらしい楽曲となっています。

 今日とりあげたいのは、この曲の歌詞について。旧仮名遣いが使われ、「獣ゆく細道」というタイトルからも、クラシカルな雰囲気が漂いますが、歌詞の内容も文学的。

 「文学的」とだけ書くと、あまりにも曖昧ですけど、具体的には人間を「獣」に見立てて、その生き様を描いているんです。

 というわけで、今日は「獣ゆく細道」の歌詞を、考察してみたいと思います。

 歌詞は、ユニバーサルミュージックの特設サイトに掲載されているのですが、Aメロ、Bメロ、サビといったように、分けられるのでなく、流れるように記載されています。

 適宜、部分的に引用しながら、考察をすすめます。

独白的な構造

 ポップ・ミュージックの歌詞には、人間関係やストーリーを描いたものが少なくありません。

 しかし、この曲には「僕」や「私」といった代名詞は出てきません。具体的なストーリーも存在しません。

 その代わりに、語り手によって、独白的に言葉がはじき出されていきます。言うなれば、語り手の思想こそが内容のすべて。

 メッセージ性の強い歌詞とも言えます。前述したとおり、この曲が描き出すのは、人間の姿。

 では、順番に歌詞を確認していきましょう。

この世は無情

 まずはイントロ部分の歌詞を、以下に引用します。

この世は無情 皆んな分つてゐるのさ
誰もが移ろふ さう絶え間ない流れに
ただ右往左往してゐる

 旧仮名遣いに、ちょっとひるんでしまいますが、一言目から結論が書かれ、力強い歌詞です。

 一言目の「この世は無情」。これが、この曲のテーマと仮定して、歌詞を読みすすめていきましょう。

 「無情」というのは、字面のとおり、情けが無い、厳しいということですね。つまり1行目をまとめると、この世界は無情だと、みんながわかっている、ということ。

 2行目以降は、その無情さがどのようなものであるのか、より詳しく記述されています。

 2行目と3行目をまとめると、流れゆく時間のなかで、人はみな右往左往している。つまり、人には止めることのできない、時間の無情さを記述しています。

タイトルの意味

 この曲のタイトルは「獣ゆく細道」。先述したとおり、「獣」はこの世に生きる人間をあらわしているのだと、考えています。

 では「細道」が意味するものはなにか。結論から言うと、人生そのものをあらわしている、というのが僕の仮説です。

 「人生は旅路」といった言い回しもありますが、しばしば人生は道に例えられます。この曲においても、長い人生を道に例えているということ。

 そのため、イントロ部分では、止めることのできない流れゆく時間を、まず「無情」だと宣言したのではないでしょうか。

 「細道」は、読んで字のごとく、幅の狭い道を意味します。なぜ「獣ゆく道」ではなく、「獣ゆく細道」としたのか。

 その理由もまた、人生の無情さを強調するためだと思います。人生は道であるけれども、そこは細く、選択肢も有限である。そのような意味を「細道」という言葉に込めたのではないでしょうか。

 ただ、この曲は人生の無情さを歌うだけでなく、そんな無情な世界を生きる人間の力強さも、描き出しています。人を「獣」に置き換えているのは、道を飼いならされて歩くのではなく、力強く進む姿をあらわしているのでしょう。

 それでは、ここで確認したことを踏まえて、歌詞のつづきを考察していきましょう。

あたまとからだ

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

いつも通り お決まりの道に潜むでゐるあきのよる
着膨れして生き乍ら死んぢやあゐまいかとふと訝る

 1行目に、タイトルにも含まれている「道」というワードが出てきました。しかし、ここでは人生をあらわしているわけでなはく、もっと狭い範囲の意味。いつも通りになんとなく過ごしている様子を「道」と言っているのでしょう。

 2行目の「着膨れして」とは、身分やステータスを重視することを、意味しているのだと考えます。性格や価値観よりも、表層的なステータスを重視する現代社会を、風刺しているのではないでしょうか。

 2行目全体をまとめると「うわべばかり気にして、死んでいるように生きていないかと、ふと疑ってみる」といった意味でしょう。

 つづいて、1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

飼馴らしてゐるやうで飼殺してゐるんぢやあないか
自分自身の才能を あたまとからだ、丸で食ひ違ふ
人間たる前の単に率直な感度を頼つてゐたいと思ふ

 上記Bメロの歌詞は、Aメロの歌詞を、さらに発展させた内容と言えます。Aメロでは価値観について記述され、最後は「ふと訝る」と疑問で終わっていました。

 Bメロでは、その疑問にこたえるように、語り手は自分自身の現状へと、切り込んでいきます。

 1行目から2行目前半は、自分自身の才能を飼いならしているようで、実は飼い殺しているのではないか、と疑問を呈する内容。

 Aメロの内容を考慮にいれると、うわべの評価を気にしすぎるあまり、自分の本当の能力を消してしまっているのではないか、ということでしょう。

 2行目のその後につづく「あたまとからだ、丸で食ひ違ふ」は、社会がもとめる価値観を頭で理解してしても、自分の感情がもとめるものとはまったく食い違う、という意味。

 「あたまとからだ」とは、「理性と感情」と言い換えても良いかもしれません。

 1番AメロとBメロの歌詞では、語り手の価値観および感情と、社会がもとめる価値観との相違が、描写されています。

本性は獣

 サビに入ると、今度は人間の本性について語られます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう本性は獣 丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ
行く先はこと切れる場所 大自然としていざ行かう

 1行目の「さう本性は獣」は、メロディー的にはサビのはじまりと言うより、Bメロの最後に位置しています。

 「さう本性は獣」とは、人間の本性は獣のようなもの。意味を補って訳すと、人間は理性を持っているが、動物的な衝動もまた持っている、ということでしょう。

 その後につづく「丸腰の命をいま野放しに突走らうぜ」とは、社会的な価値観の基準にとらわれず、自分の思うように突っ走ろう、ということ。

 2行目の「こと切れる」とは、息が絶える、亡くなるという意味。そのため2行目全体では「命が終わるときまで、感情のままに生きよう」といった感じの意味になります。

 ここまで1番の歌詞では、社会にはいろいろな制約もあるが、自分の確固たる価値観を無くさずに生きよう!という、力強いメッセージが綴られています。

はじめての道

 1番の歌詞では、主に社会と自分、自分のあたまとからだの対立が描かれていました。

 2番に入ると、今度はより内省的な視点へと変わります。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

そつと立ち入るはじめての道に震へてふゆを覚える
紛れたくて足並揃へて安心してゐた昨日に恥ぢ入る

 1行目の「はじめての道」は、なにか新しい挑戦をする、新しい状況に身を置く、ぐらいの意味でしょう。

 2行目は、新たな環境のなかで、目立たぬよう周囲に合わせていたが、それを恥じている、という内容。

 「昨日」とありますが、文字どおりの昨日というよりも、もうすこし広い意味で、まわりに合わせていた自分の過去を指しているのでしょう。

 その後につづく、2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

気遣つてゐるやうで気遣わせてゐるんぢやあ 厭だ
自己犠牲の振りして 御為倒しか、とんだかまとゝ
謙遜する前の単に率直な態度を誇つてゐたいと思ふ

 1行目は、Aメロの歌詞を考慮にいれて解釈すると、まわりを気づかっているようで、その態度によって、逆にまわりに気をつかわせている、あるいは向こうも自ずと気遣っている、そんな状況はいやだということでしょう。

 2行目も、1行目と共通する内容。「御為倒し」とは、「表面はいかにも相手のためであるかのようにいつわって、実際は自分の利益をはかること」という意味。

 「かまとゝ」(かまとと)とは、「知っているくせに知らないふりをすること」という意味です。

 以上の言葉の意味を踏まえて、2行目をまとめると、他者のために行動するふりをして、本当は自分の利益を考えている、ということです。

 3行目は、謙遜する態度よりも、もっと感情に基づいた態度を大切にしたい、ということ。

 前述のとおり1番の歌詞では、自分と社会の価値観の対立を描いていました。しかし、2番に入ると、自分の行動を見つめていることが、ここまでの考察でわかると思います。

 打算的な考え方を否定していますし、より人間の深いところに、切れ込んでいるとも言えるでしょう。

正体は獣

 心の深いところを覗き込む2番の歌詞。では、サビではどう展開するのか。

 2番サビの歌詞を、以下に引用します。

さう正体は獣 悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て
孤独とは言ひ換えりやあ自由 黙つて遠くへ行かう

 1番サビと同じく、まず「さう正体は獣」と、人間にも動物的なところはあるという宣言から始まります。

 「悴む」(かじかむ)とは、手が凍えて動きにくくなること。つまり「悴むだ命」とは、いろいろな困難によって、不自由になった命、あるいは人生という意味でしょう。

 「悴むだ命でこそ成遂げた結果が全て」を意訳すると、いくら人生が凍えるような困難だったとしても、成し遂げた結果だけが重要、ということです。

 2行目は、この曲の歌詞のなかでは、比較的わかりやすい内容。文字どおりに読んでいくだけで大丈夫です。

 「孤独とは言ひ換えりやあ自由」は、解釈は迷いようがありません。しかし、より深く意味をとるなら、孤独は自由なんだから気にするな、というポジティヴなメッセージも含まれていると、考えられるでしょう。

 その後につづく「黙つて遠くへ行かう」は、孤独を気にせず、あるいは孤独に負けずに、先へ向かおうという意味です。

 1番サビでは、社会に屈せず獣のように生きよう!という力強いメッセージが記述されていました。それに対して2番サビは、おなじ獣というワードを使いながらも、伝わるメッセージは大きく異なります。

 前述のとおり、1番では社会の価値観にときにはあがなう、激しい存在として「獣」が使われていました。しかし2番では、人間のような社会的な存在ではなく、ひとつの独立した存在として「獣」が使われています。

 「人間」というワードは、「人の間」と書くところからも示唆されるとおり、それ自体に社会的な存在という意味合いが含まれています。

 2番サビでは、そのような社会的な生き物としての人ではなく、独立した存在としての人にフォーカスするため、「獣」がキーワードとして象徴的に使われている、というのが僕の仮説です。

 社会で生きる存在ではなく、感情をともなった自由な存在。そのような、人の一面にフォーカスするため、まわりに合わせることや孤独について、2番では歌われてきたのではないでしょうか。

曲のテーマ

 それでは、この曲がもっとも訴えたいことは何なのか。のこりの歌詞を確認しながら、検討していきましょう。

 2番サビ後に挿入されるCメロの歌詞を、以下に引用します。

本物か贋物かなんて無意味 能書きはまう結構です
幸か不幸かさへも勝敗さへも当人だけに意味が有る

 こちらも、この曲の歌詞のなかでは、わかりやすい部分と言えるでしょう。本物かニセモノか、幸か不幸か、そうした基準はすべて自分自身で決めればいい、という内容。

 言い換えれば、他人や社会の基準は気にしなくていい、ということです。

 間奏を挟んだあと、曲のラスト部分となるサビの歌詞を、以下に引用します。

無けなしの命がひとつ だうせなら使ひ果たさうぜ
かなしみが覆ひ被さらうと抱きかゝへて行くまでさ
借りものゝ命がひとつ 厚かましく使ひ込むで返せ
さあ貪れ笑ひ飛ばすのさ誰も通れぬ程狭き道をゆけ

 順番に、ざっと解釈していきましょう。

 1行目は「わずかひとつばかりの命、どうせなら使い果たしましょう」。

 2行目は「もし悲しみが訪れても、抱きかかえて行けばいいのさ」。

 3行目は「借り物の命だけれど、厚かましいほど使い込んで返そう」。

 4行目は「飽くことなく人生を追求し、笑い飛ばそう。誰も通れないような自分の道をいこう」。

 補足が必要なところを、いくつか説明します。

 3行目の「借りものゝ命」は、この曲のテーマとも繋がるキーワード。この一節からは、語り手が「命」は一時的なものだと捉えていることが分かります。

 今、生きている姿は一時的なもので、やがて亡くなると宇宙や永遠に還る、そしてまた生まれ変わる、という仏教的な死生観とも繋がります。

 4行目の「誰も通れぬ程狭き道をゆけ」を、さきほどは「誰も通れないような自分の道をいこう」と訳しました。

 もうすこし説明すると、「道」というのは生き方や、人生そのものをあらわす、広い意味で使われていると考えられます。

 だから「誰も通れぬ程狭き道」とは、ほかの誰とも違う自分だけの生き方という意味。4行目後半をさらにカジュアルに訳すと、誰も真似できないほどオリジナルな、自分だけの行き方を貫こう、ということです。

 以上、これで歌詞のすべてを確認しました。人生の生き方が、この曲のテーマだと、明確になったのではないかと思います。

結論・まとめ

 結論に入りましょう。

 「獣ゆく細道」というタイトルがしめすとおり、この曲では人間を「獣」、人生を「細道」に例え、自分らしく人生を生きることを歌っています。

 そのメッセージは力強く、同時に内省的。「獣」という言葉を使ったのは、獣のように荒々しく、常識にとらわれずに生きること。そして、社会的な存在ではなく、独立した存在としての自分を見つめ直すこと。このふたつの意味を込めるためです。

 あんまり安直にこういう言葉は使いたくないのですが、こういう曲こそ「文学的」であると、声を大にして言いたいです。

 冒頭にも書いたとおり、僕はエレファントカシマシが大好きで、宮本さんのことも定期的に好きで好きでしょうがない時期が訪れるほど大好き!

 そんな宮本さんが、椎名林檎さんと共演するということで、ものすごくハードルを上げて期待していたのですが、想定をはるかに超える完成度の1曲です。これは自信を持って言えます!

 歌詞は旧仮名遣いが多く、ちょっと難解だなと思う方もいらっしゃるかと思います。このページが、すこしでもこの楽曲を楽しむうえで役に立ったなら、これ以上に嬉しいことはありません。

 本当にすばらしい曲ですので、じっくりと世界観にひたりながら、聴いてみてください。

 




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椎名林檎「自由へ道連れ」の歌詞考察と、私立恵比寿中学が歌う意味について


目次
イントロダクション
「自由へ道連れ」というタイトル
歌詞のテーマと登場人物
「世界のまん中」の意味
対になる言葉の使用
「自由」の意味
エビ中がこの曲を歌う意味

イントロダクション

 2018年5月23日に、椎名林檎さんのトリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』がリリースされました。

 このアルバムには、エビ中こと私立恵比寿中学がカバーする「自由へ道連れ」も収録されています。作詞作曲を手がけるのは、もちろん椎名林檎さん。

 僕はエビ中目当てで、このアルバムを手に取ったクチですが、エビ中を知らない方からも「自由へ道連れ」の評判が良いようで、嬉しい。本当に自分のことのように嬉しい!

 皆さんの熱いご意見、ご感想を拝見していたら、自分もなにか書きたい! この楽曲の良さを伝えたい…!という気持ちになってしまったので、この曲の歌詞の考察と、「永遠に中学生」をコンセプトに活動する私立恵比寿中学というアイドル・グループが、この曲を歌う意味について、書いてみたいと思います。

 最初にお断りしておきますが、僕はエビ中のファン(通称:エビ中ファミリー)であり、椎名林檎さんについてはシングル曲を中心に代表曲は知っている、という程度の知識しか持ち合わせていない人間です。

 ですので、椎名林檎さんのファンの方からしたら、的はずれな部分もあるかもしれませんが、ご容赦いただけますと幸いです。

 前フリが長くなりましたが、では順番に歌詞を読みといていきましょう。

「自由へ道連れ」というタイトル

 椎名林檎さんの書く歌詞には、リスナーの耳をつかむ、ハッとするような言葉が使われることが珍しくありませんが、「自由へ道連れ」というこの曲のタイトルにも、良い意味での違和感を覚えました。

 「道連れ」という言葉は、文字どおりには「連れ立って行くこと」「連れ立って行く同行者」程度の意味です。しかし、少なからず無理やりに連れて行く、というニュアンスもあり、『大辞林 第三版』には「むりに一緒の行動をとらせること」という意味も記載されています。

 また、道連れと言うからには、目的地は場所であるはずです。例えば、イギリスのロック・バンド、クイーンの『Another One Bites The Dust』という曲には、『地獄へ道づれ』という邦題がついていました。(「bite the dust」あるいは「kiss the dust」には、「倒れる、戦死する、敗北する」といった意味があるため)

 さて、そんなわけで「自由へ道連れ」というこの曲のタイトル。本来は場所が入るべきところに「自由」という言葉が入り、「自由」という一般的には良い意味で用いられるはずの言葉が、むりやりに連れて行かれるというネガティヴな印象を帯びた「道連れ」という言葉と共に使用されています。

 2段階で、ちょっとずつ言葉の使い方にズレがあり、そのズレがリスナーの想像力を掻き立てる構造になっている、少なくとも僕はタイトルを見た時点で、この楽曲のイマジナティヴな世界観を感じました。

 この曲のなかで「自由」とは何を意味するのか。誰が誰を「道連れ」にするのか。誰もが自由になりたいはずなのに、無理やりに連れて行くニュアンスを持つ「道連れ」という、ちょっとクセのある言葉をなぜわざわざ使ったのか…。

 また、「道連れ」という言葉を使うことで、歌詞に出てくるのが道連れにする人とされる人、少なくとも2人であることが示唆されます。

歌詞のテーマと登場人物

 では、ここから具体的に、歌詞の内容を検討していきましょう。

 まず歌詞に出てくる人物ですが、歌詞を読んでいくと、語り手と「君」の2人であることが分かります。語り手の視点から、語り手自身と「君」について語られていきます。

 次に、この歌詞は何をテーマに歌っているのか。まず歌い出しの部分では以下のように歌われます。

超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル
逸る命
この現し身は驀地(まっしぐら)

 1行目から、リスナーの注意を引く言葉、および仮名遣いが多用されています。「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」と「逸(はや)る命」は、おそらく同じことの言い換えであり、あっという間に過ぎ去ってしまう人生のスピード感を、それぞれ表しているんじゃないかと思います。

 つまり、自分の命および人生を「ミサイル」に例え、さらに「逸る命」、3行目の「驀地(まっしぐら)」と、強調を重ねています。

 また、3行目には「現し身(うつしみ)」という言葉が出てきますが、この語は「現世に生をうけている姿」という意味があります。「現し身」という言葉を使うことで、現在の姿は一時的なものであり、やがて宇宙や永遠に返っていくという、仏教的な死生観を連想させます。

 この歌い出し部分の歌詞から、この曲は命の短さや真理、もっと具体的には生と死について歌っているのではないか、とひとまず仮定できるのではないでしょうか。

 この仮定に基づいて、2連目の歌詞の前半3行を見てみましょう。

最高級(トップバリュー)のドライブ
君の命
そのDNAは驀地(まっしぐら)

 こちらの引用部も、歌い出しの歌詞と同じく、命の短さやスピードについて、歌っていると解釈できます。先ほどの引用部と違うところは、さっきは語り手が自分自身の命を語っていたのに対して、今回は語り手が「君」の命について、語っている点です。

「世界のまん中」の意味

 歌詞のテーマが「命」あるいは「生と死」であると仮定して、さらに歌詞の内容に深く、踏み込んでいきたいと思います。

 歌詞には「世界のまん中」という表現が、合計4回出てきます。この「世界のまん中」という言葉は、なにを意味しているのでしょうか。

 「世界のまん中」という言葉が最初に使われるのは、先ほど引用した歌い出し部分に続く部分。冒頭から4行目です。

世界のまん中が視(み)たい

 この引用部の前の3行では、前述したとおり命のスピード感について歌われています。自らの命を「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」に例え、生まれてから「世界のまん中」を目指して疾走していく。そう解釈すると「世界のまん中」とは、命の終わりを指しているようにも思えます。

 しかし、この引用部の前では「現し身」という言葉が使われていることから、文字通りの生と死を歌っているのではなく、精神的・概念的なことを歌っているのではないかと思います。

 少しスピリチュアルな話になってしまいますが、「人生の意味」や「世界の真理」のような人生を通して追い求めるべきものを「世界のまん中」と表現し、それに向かっていく人生の疾走感を表したのではないか、というのが僕の考えです。

対になる言葉の使用

 もうひとつ歌詞の中で、目につくのは一対の組み合わせになる言葉の多用です。

 「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」「破壊と建設」「子供にも大人にも」「気分と合理」などなど、対義となる言葉の組み合わせが、随所に散りばめられています。

 この中で、1連目の歌詞に出てくる「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」は、次のような文脈で出てきます。

世界のまん中が視(み)たい
Take me there, won’t you?
混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ

 先ほど引用した「世界のまん中が視(み)たい」に続く部分です。

 「Take me there, won’t you?」は、「そこに連れて行って、くれるよね?」という意味で、語り手が「君」に話しかけている内容ということでしょう。

 さらに「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ」と続きます。この「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間」というのも、今生きている人生を表しているのではないかと思います。

 全ての秩序は混沌に向かい、また全ての混沌は秩序に向かっている、ということは多くの理論で主張されます。僕は哲学や物理学の専門家ではありませんので、特定の理論について語ることはできませんが、秩序だった物事はやがて崩壊に向かい、カオスと思われる物事からも、やがて秩序が生まれていく、その混沌と秩序の間でしか、生命は存在できないということです。

 その後も「破壊と建設」「気分と合理」といった対となる言葉が出てきますが、これらも「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」の例と同じく、二元論では割り切れない人生を、象徴的に表わしているのではないでしょうか。

「自由」の意味

 ここで「自由へ道連れ」という、この曲のタイトルに立ち返って、歌詞における「自由」の意味について検討したいと思います。

 1回目のサビの終わり、そして曲の最後のサビの終わりに、それぞれ「自由」という言葉が出てきます。まず、1回目のサビ部分を引用します。

待ち切れない
今ならば子供にも大人にもなれる
試されたい
近付いている
確かめてほら
自由へ秒読み

 この引用部の「子供にも大人にもなれる」という言葉は、先ほど言及した「混沌と秩序」に対応した関係になっているんじゃないかと思います。

 すなわち、子供らしく感情に任せた態度と、大人らしく論理や常識を重視する態度。そのふたつのどちらにも囚われず、自分の価値観を獲得することを「自由」と読んでいる、ということです。

 続いて、この曲の最後のサビ部分を引用します。

生きている証は執着そのものだろうけど
放たれたい
相反する二つを結べ
自由はここさ
本当の世界のまん中

 引用部の1行目に「生きている証は執着そのもの」とあります。これは、命への執着とも読み取れます。しかし、その後に続く歌詞から、常識や思いこみなどに執着してしまう態度とも、読み取れます。

 引用部3行目には「相反する二つを結べ」とありますが、これは先ほど検討した「混沌と秩序」「子供と大人」「気分と合理」といった対になる言葉を、対立するものと単純に受け取らず、両方とも自分なりに取り込め、ということではないでしょうか。

 そして、曲のラストは「自由はここさ 本当の世界のまん中」と締められます。これは、執着から放たれ、相反する二つを結ぶことで、「自由」と「世界のまん中」に達したということを表わしているのではないかと思います。(同時に、相反する二つを結ぶことは現実には不可能であり、命の終わりを意味している、という解釈も可能かと思います。)

 もちろん、言葉で説明できるほど単純なことを歌っているとは思いませんが、多層性のあるイマジナティヴな世界観を、疾走感あふれる言葉と楽曲で描き出す、素晴らしい楽曲であることは確かです。

エビ中がこの曲を歌う意味

 最後に、この「自由へ道連れ」を、エビ中が歌う意味について、個人的に思うことを書かせていただきます。

 前述したとおり、エビ中こと私立恵比寿中学は「永遠に中学生」をコンセプトに活動する、アイドル・グループです。しかし、すでにメンバーには実際の中学生はいません。

 年齢的には中学生を越えているメンバーたちが、「中学生」というコンセプトを実行する二重性。また、今回エビ中を知らない方からの「アイドルなのに歌唱力がすごい!」という感想を拝見しますが、アイドルであるのに、歌唱力で勝負できるレベルの歌唱力を備えているところ。

 このように「大人」と「中学生」の間、「アイドル」と「歌手」の間を、楽しそうに越境するエビ中が「自由へ道連れ」を歌うことで、椎名林檎さんが歌うオリジナルとは異質の、アイドルならではの二重性が生まれているのではないかと思います。

 その最も象徴的なパートは、再生時間でいうと2:43あたりの「道連れしちゃうぞ」というセリフでしょう。アイドルらしからぬ歌唱力と表現力を発揮しながら、間奏後のキメとなる部分に、アイドル然としたアレンジをさらっと入れるバランスが、本当に秀逸。

 また、一般的には持続するのが難しい、女性アイドルという存在の刹那感が、原曲が持つ命と人生の疾走感とマッチしつつ、違った魅力を与えていると思います。アイドルならではの疾走感と言ったらいいでしょうか。

 サウンド・プロダクションの面でも、エッジの立ったソリッドなオリジナル版に対して、アコースティック・ギターを用いて全体のサウンドを若干ソフトに仕上げたところも、疾走感を失わず、キャラクターの違う6人の声の魅力を、際立たせていますね。

 エビ中のオフィシャルYouTubeチャンネルに、「自由へ道連れ」をライブでカバーした映像がアップされています。こちらも素晴らしいので、ぜひご覧になってみてください。

 ここからは、エビ中のファンとして、こちらのライブ映像に沿って、メンバーを簡単にご紹介します。

 歌い出しのパートを担当する、安定感のある歌声を披露しているショートカットの子は、トマト大好きリコピン少女、安本彩花さん。

 安本さんからバトンを受けて「世界のまん中が視たい」からのパートを担当する、ファルセットを自在に操るポニーテールの子は、エビ中のハイテンションガール、真山りかさん。

 「最高級(トップバリュー)のドライブ」からのパートを担当する、柔らかな優しい声を持っているのは、歌う稲穂、ダンシングライス、小林歌穂さん。

 「世界のまん中に触れて」からのパートを担当する、顔をくしゃくしゃにしてエモーショナルに歌うのは、さそり座の中学生、中山莉子さん。

 「待ち切れない」からのサビの前半を担当している、アメリカのポップスターのような華やかな雰囲気を持っているのは、エビ中の今どき革命ガール、星名美怜さん。

 「試されたい」からのサビの後半を担当し、圧倒的な歌唱力を披露しているのは、エビ中のいつも笑顔なおもちゃ箱、柏木ひなたさん。

 これを書きながら、ちょっと泣けてくるぐらいエビ中が好きなんですけど、このカバーがきっかけになって、もっと多くの人にエビ中が届くといいなぁ。

 本当に、地道に努力を重ねて、現在の歌唱力とパフォーマンス力を手にしたメンバーたちなので。

 




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