椎名林檎「自由へ道連れ」の歌詞考察と、私立恵比寿中学が歌う意味について


目次
イントロダクション
「自由へ道連れ」というタイトル
歌詞のテーマと登場人物
「世界のまん中」の意味
対になる言葉の使用
「自由」の意味
エビ中がこの曲を歌う意味

イントロダクション

 2018年5月23日に、椎名林檎さんのトリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』がリリースされました。

 このアルバムには、エビ中こと私立恵比寿中学がカバーする「自由へ道連れ」も収録されています。作詞作曲を手がけるのは、もちろん椎名林檎さん。

 僕はエビ中目当てで、このアルバムを手に取ったクチですが、エビ中を知らない方からも「自由へ道連れ」の評判が良いようで、嬉しい。本当に自分のことのように嬉しい!

 皆さんの熱いご意見、ご感想を拝見していたら、自分もなにか書きたい! この楽曲の良さを伝えたい…!という気持ちになってしまったので、この曲の歌詞の考察と、「永遠に中学生」をコンセプトに活動する私立恵比寿中学というアイドル・グループが、この曲を歌う意味について、書いてみたいと思います。

 最初にお断りしておきますが、僕はエビ中のファン(通称:エビ中ファミリー)であり、椎名林檎さんについてはシングル曲を中心に代表曲は知っている、という程度の知識しか持ち合わせていない人間です。

 ですので、椎名林檎さんのファンの方からしたら、的はずれな部分もあるかもしれませんが、ご容赦いただけますと幸いです。

 前フリが長くなりましたが、では順番に歌詞を読みといていきましょう。

「自由へ道連れ」というタイトル

 椎名林檎さんの書く歌詞には、リスナーの耳をつかむ、ハッとするような言葉が使われることが珍しくありませんが、「自由へ道連れ」というこの曲のタイトルにも、良い意味での違和感を覚えました。

 「道連れ」という言葉は、文字どおりには「連れ立って行くこと」「連れ立って行く同行者」程度の意味です。しかし、少なからず無理やりに連れて行く、というニュアンスもあり、『大辞林 第三版』には「むりに一緒の行動をとらせること」という意味も記載されています。

 また、道連れと言うからには、目的地は場所であるはずです。例えば、イギリスのロック・バンド、クイーンの『Another One Bites The Dust』という曲には、『地獄へ道づれ』という邦題がついていました。(「bite the dust」あるいは「kiss the dust」には、「倒れる、戦死する、敗北する」といった意味があるため)

 さて、そんなわけで「自由へ道連れ」というこの曲のタイトル。本来は場所が入るべきところに「自由」という言葉が入り、「自由」という一般的には良い意味で用いられるはずの言葉が、むりやりに連れて行かれるというネガティヴな印象を帯びた「道連れ」という言葉と共に使用されています。

 2段階で、ちょっとずつ言葉の使い方にズレがあり、そのズレがリスナーの想像力を掻き立てる構造になっている、少なくとも僕はタイトルを見た時点で、この楽曲のイマジナティヴな世界観を感じました。

 この曲のなかで「自由」とは何を意味するのか。誰が誰を「道連れ」にするのか。誰もが自由になりたいはずなのに、無理やりに連れて行くニュアンスを持つ「道連れ」という、ちょっとクセのある言葉をなぜわざわざ使ったのか…。

 また、「道連れ」という言葉を使うことで、歌詞に出てくるのが道連れにする人とされる人、少なくとも2人であることが示唆されます。

歌詞のテーマと登場人物

 では、ここから具体的に、歌詞の内容を検討していきましょう。

 まず歌詞に出てくる人物ですが、歌詞を読んでいくと、語り手と「君」の2人であることが分かります。語り手の視点から、語り手自身と「君」について語られていきます。

 次に、この歌詞は何をテーマに歌っているのか。まず歌い出しの部分では以下のように歌われます。

超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル
逸る命
この現し身は驀地(まっしぐら)

 1行目から、リスナーの注意を引く言葉、および仮名遣いが多用されています。「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」と「逸(はや)る命」は、おそらく同じことの言い換えであり、あっという間に過ぎ去ってしまう人生のスピード感を、それぞれ表しているんじゃないかと思います。

 つまり、自分の命および人生を「ミサイル」に例え、さらに「逸る命」、3行目の「驀地(まっしぐら)」と、強調を重ねています。

 また、3行目には「現し身(うつしみ)」という言葉が出てきますが、この語は「現世に生をうけている姿」という意味があります。「現し身」という言葉を使うことで、現在の姿は一時的なものであり、やがて宇宙や永遠に返っていくという、仏教的な死生観を連想させます。

 この歌い出し部分の歌詞から、この曲は命の短さや真理、もっと具体的には生と死について歌っているのではないか、とひとまず仮定できるのではないでしょうか。

 この仮定に基づいて、2連目の歌詞の前半3行を見てみましょう。

最高級(トップバリュー)のドライブ
君の命
そのDNAは驀地(まっしぐら)

 こちらの引用部も、歌い出しの歌詞と同じく、命の短さやスピードについて、歌っていると解釈できます。先ほどの引用部と違うところは、さっきは語り手が自分自身の命を語っていたのに対して、今回は語り手が「君」の命について、語っている点です。

「世界のまん中」の意味

 歌詞のテーマが「命」あるいは「生と死」であると仮定して、さらに歌詞の内容に深く、踏み込んでいきたいと思います。

 歌詞には「世界のまん中」という表現が、合計4回出てきます。この「世界のまん中」という言葉は、なにを意味しているのでしょうか。

 「世界のまん中」という言葉が最初に使われるのは、先ほど引用した歌い出し部分に続く部分。冒頭から4行目です。

世界のまん中が視(み)たい

 この引用部の前の3行では、前述したとおり命のスピード感について歌われています。自らの命を「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」に例え、生まれてから「世界のまん中」を目指して疾走していく。そう解釈すると「世界のまん中」とは、命の終わりを指しているようにも思えます。

 しかし、この引用部の前では「現し身」という言葉が使われていることから、文字通りの生と死を歌っているのではなく、精神的・概念的なことを歌っているのではないかと思います。

 少しスピリチュアルな話になってしまいますが、「人生の意味」や「世界の真理」のような人生を通して追い求めるべきものを「世界のまん中」と表現し、それに向かっていく人生の疾走感を表したのではないか、というのが僕の考えです。

対になる言葉の使用

 もうひとつ歌詞の中で、目につくのは一対の組み合わせになる言葉の多用です。

 「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」「破壊と建設」「子供にも大人にも」「気分と合理」などなど、対義となる言葉の組み合わせが、随所に散りばめられています。

 この中で、1連目の歌詞に出てくる「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」は、次のような文脈で出てきます。

世界のまん中が視(み)たい
Take me there, won’t you?
混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ

 先ほど引用した「世界のまん中が視(み)たい」に続く部分です。

 「Take me there, won’t you?」は、「そこに連れて行って、くれるよね?」という意味で、語り手が「君」に話しかけている内容ということでしょう。

 さらに「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ」と続きます。この「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間」というのも、今生きている人生を表しているのではないかと思います。

 全ての秩序は混沌に向かい、また全ての混沌は秩序に向かっている、ということは多くの理論で主張されます。僕は哲学や物理学の専門家ではありませんので、特定の理論について語ることはできませんが、秩序だった物事はやがて崩壊に向かい、カオスと思われる物事からも、やがて秩序が生まれていく、その混沌と秩序の間でしか、生命は存在できないということです。

 その後も「破壊と建設」「気分と合理」といった対となる言葉が出てきますが、これらも「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」の例と同じく、二元論では割り切れない人生を、象徴的に表わしているのではないでしょうか。

「自由」の意味

 ここで「自由へ道連れ」という、この曲のタイトルに立ち返って、歌詞における「自由」の意味について検討したいと思います。

 1回目のサビの終わり、そして曲の最後のサビの終わりに、それぞれ「自由」という言葉が出てきます。まず、1回目のサビ部分を引用します。

待ち切れない
今ならば子供にも大人にもなれる
試されたい
近付いている
確かめてほら
自由へ秒読み

 この引用部の「子供にも大人にもなれる」という言葉は、先ほど言及した「混沌と秩序」に対応した関係になっているんじゃないかと思います。

 すなわち、子供らしく感情に任せた態度と、大人らしく論理や常識を重視する態度。そのふたつのどちらにも囚われず、自分の価値観を獲得することを「自由」と読んでいる、ということです。

 続いて、この曲の最後のサビ部分を引用します。

生きている証は執着そのものだろうけど
放たれたい
相反する二つを結べ
自由はここさ
本当の世界のまん中

 引用部の1行目に「生きている証は執着そのもの」とあります。これは、命への執着とも読み取れます。しかし、その後に続く歌詞から、常識や思いこみなどに執着してしまう態度とも、読み取れます。

 引用部3行目には「相反する二つを結べ」とありますが、これは先ほど検討した「混沌と秩序」「子供と大人」「気分と合理」といった対になる言葉を、対立するものと単純に受け取らず、両方とも自分なりに取り込め、ということではないでしょうか。

 そして、曲のラストは「自由はここさ 本当の世界のまん中」と締められます。これは、執着から放たれ、相反する二つを結ぶことで、「自由」と「世界のまん中」に達したということを表わしているのではないかと思います。(同時に、相反する二つを結ぶことは現実には不可能であり、命の終わりを意味している、という解釈も可能かと思います。)

 もちろん、言葉で説明できるほど単純なことを歌っているとは思いませんが、多層性のあるイマジナティヴな世界観を、疾走感あふれる言葉と楽曲で描き出す、素晴らしい楽曲であることは確かです。

エビ中がこの曲を歌う意味

 最後に、この「自由へ道連れ」を、エビ中が歌う意味について、個人的に思うことを書かせていただきます。

 前述したとおり、エビ中こと私立恵比寿中学は「永遠に中学生」をコンセプトに活動する、アイドル・グループです。しかし、すでにメンバーには実際の中学生はいません。

 年齢的には中学生を越えているメンバーたちが、「中学生」というコンセプトを実行する二重性。また、今回エビ中を知らない方からの「アイドルなのに歌唱力がすごい!」という感想を拝見しますが、アイドルであるのに、歌唱力で勝負できるレベルの歌唱力を備えているところ。

 このように「大人」と「中学生」の間、「アイドル」と「歌手」の間を、楽しそうに越境するエビ中が「自由へ道連れ」を歌うことで、椎名林檎さんが歌うオリジナルとは異質の、アイドルならではの二重性が生まれているのではないかと思います。

 その最も象徴的なパートは、再生時間でいうと2:43あたりの「道連れしちゃうぞ」というセリフでしょう。アイドルらしからぬ歌唱力と表現力を発揮しながら、間奏後のキメとなる部分に、アイドル然としたアレンジをさらっと入れるバランスが、本当に秀逸。

 また、一般的には持続するのが難しい、女性アイドルという存在の刹那感が、原曲が持つ命と人生の疾走感とマッチしつつ、違った魅力を与えていると思います。アイドルならではの疾走感と言ったらいいでしょうか。

 サウンド・プロダクションの面でも、エッジの立ったソリッドなオリジナル版に対して、アコースティック・ギターを用いて全体のサウンドを若干ソフトに仕上げたところも、疾走感を失わず、キャラクターの違う6人の声の魅力を、際立たせていますね。

 エビ中のオフィシャルYouTubeチャンネルに、「自由へ道連れ」をライブでカバーした映像がアップされています。こちらも素晴らしいので、ぜひご覧になってみてください。

 ここからは、エビ中のファンとして、こちらのライブ映像に沿って、メンバーを簡単にご紹介します。

 歌い出しのパートを担当する、安定感のある歌声を披露しているショートカットの子は、トマト大好きリコピン少女、安本彩花さん。

 安本さんからバトンを受けて「世界のまん中が視たい」からのパートを担当する、ファルセットを自在に操るポニーテールの子は、エビ中のハイテンションガール、真山りかさん。

 「最高級(トップバリュー)のドライブ」からのパートを担当する、柔らかな優しい声を持っているのは、歌う稲穂、ダンシングライス、小林歌穂さん。

 「世界のまん中に触れて」からのパートを担当する、顔をくしゃくしゃにしてエモーショナルに歌うのは、さそり座の中学生、中山莉子さん。

 「待ち切れない」からのサビの前半を担当している、アメリカのポップスターのような華やかな雰囲気を持っているのは、エビ中の今どき革命ガール、星名美怜さん。

 「試されたい」からのサビの後半を担当し、圧倒的な歌唱力を披露しているのは、エビ中のいつも笑顔なおもちゃ箱、柏木ひなたさん。

 これを書きながら、ちょっと泣けてくるぐらいエビ中が好きなんですけど、このカバーがきっかけになって、もっと多くの人にエビ中が届くといいなぁ。

 本当に、地道に努力を重ねて、現在の歌唱力とパフォーマンス力を手にしたメンバーたちなので。

 




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