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DAOKO×米津玄師「打上花火」歌詞の意味考察 語り手の視線がつなぐ過去と現在


目次
イントロダクション
設定確認
語り手の視線
視線の向きはなにを示すか?
結論・まとめ

イントロダクション

 「打上花火」は、東京都出身のシンガーソングライター、DAOKOの2017年8月16日リリースの3rdシングル。

 作詞作曲は米津玄師。楽曲のプロュースとデュエットも米津玄師がつとめ、クレジットは「DAOKO×米津玄師」名義になっています。

 アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』主題歌。

 一言では言語化できない感情。そういう繊細な気持ちをあらわせるところが、音楽の魅力のひとつだと思うんですが、この「打上花火」もまさにそういった曲。

 淡い恋心が、刹那的な打上花火に照らし合わせ、語られています。

 言葉の使い方だけでなく、この曲の歌詞で巧妙なのは、視線の描き方。打上花火は基本的には上を見上げてみるものですけど、対比的に足元に視線を落とす描写も出てくるんです。

 というわけで、視線の行き先に注目しながら、この曲の歌詞を考察してみたいと思います。

設定確認

 まずは、登場人物や場所などの設定を確認しましょう。

 出てくるのは、語り手と「君」の2人。語り手が、過去に「君」といっしょに海で花火を見ていたときのことを、思い出しているのが歌詞の内容です。

 語り手は「僕」や「私」といった、代名詞を使いません。

 前述したとおり、この曲はDAOKOと米津玄師によるデュエット。そのため、途中で語り手が切り替わっているとも解釈できそうなのですが、ここでは語り手は固定のものとして、話をすすめます。

 語り手と「君」が、恋人関係なのか、あるいは片思いなのかはハッキリしませんが、「君」への思いが綴られていきます。

語り手の視線

 語り手がつづる「君」への思いが、歌詞の内容。

 淡い恋心らしきものが描写され、それ自体は歌のテーマとして、めずらしいものではありません。この曲で注目すべきか、語り手の視線。

 上を見るのか、下を見るのか、視線の動きがわかるように記述されているんです。

 例えば、歌い出しとなる1番のAメロ。ここでも早速、視線の向きをしめす言葉が綴られています。

 以下に引用します。

あの日見渡した渚を 今も思い出すんだ
砂の上に刻んだ言葉 君の後ろ姿

 1行目では「見渡した渚」とあるので、海全体を見渡したのでしょう。レンジの広い視線と言えます。

 それに対して2行目では、より焦点が絞られています。

 「砂の上に刻んだ言葉」というのは、2人で砂浜になにか言葉を書きこんだのでしょう。視線は下を向いています。

 その後につづく「君の後ろ姿」。「君」の位置がわからないので確定はできませんが、砂浜を見るよりは、視線が上にあると考えられます。

 あるいは、言葉を刻んだ砂浜のそのさきに、「君」が立っているのかもしれません。

 いずれにしても、視線の動きが情報として盛り込まれています。

 そのあとのBメロでも、視線の動きを示唆する内容がつづきます。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

寄り返す波が 足元をよぎり何かを攫う
夕凪の中 日暮れだけが通り過ぎて行く

 上記の引用部では、視線が足元に向かっているのかは分かりません。しかし、注意が足元の波に向かっているのは確かです。

 2行目に「夕凪の中 日暮れだけが通り過ぎて行く」とあるので、視線自体はぼんやりと目の前を見つめているのかもしれません。

 少なくとも、特定のなにかを凝視しているわけではないと考えられます。

 1番AメロとBメロの内容をまとめると、語り手は「君」といっしょに海にいたことを思い出しています。

 その際に、視線は渚、君の後ろ姿、日暮れへと移動。足元あるいは、その場全体を見渡していることが、分かりました。

 サビに入ると、タイトルにも入っている「花火」というワードが登場。

 1番サビの歌詞を、以下に引用します。

パッと光って咲いた 花火を見ていた
きっとまだ 終わらない夏が
曖昧な心を 解かして繋いだ
この夜が 続いて欲しかった

 語り手が見ているのは、打上花火。ということは、はっきりとは名言されませんが、視線は上を向いていると考えられます。

 あるいは海辺で花火を見ている状況なので、わざわざ意識的に視線を上に向けなくとも、自然に目に入るのかもしれません。

視線の向きはなにを示すか?

 さて、ここまで視線に注目しながら、歌詞を確認してきました。

 では、視線を描写することで、なにを意味しているのか。歌詞のなかで、、どう機能しているのか。検討してみましょう。

 「足元」や「花火」といった、視線の方向性を感じさせる言葉が、散りばめられていたのは事実。しかし、いずれの表現も、はっきりと焦点を合わせているのかは不明です。

 唯一、語り手が意識的に見ていると思われるのが「君の後ろ姿」。そもそも語り手は「君」のことを思い出しているわけで、これは当然とも言えるでしょう。

 この曲では、語り手が過去をふり返っています。そして、その過去の中心にいるのは「君」。

 過去をふり返ることを、写実的にあらわすため、視線の先にある情報が、断片的に示されている、というのが僕の考えです。

 あくまで、語り手が思い出しているのは「君」。そして、「君」といっしょにいた海、いっしょに見た花火を、順番にそのときの視点にそって、ふり返っているんです。

 「あの日見渡した渚」「砂の上に刻んだ言葉」など、視線の向きをあらわす描写が続くのはそのため。

 そのときに見た風景を、映像的に言葉にあらわしているのではないかと思います。

 2番に入ると、焦点はハッキリと「君」へと向けられます。2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

「あと何度君と同じ花火を見られるかな」って
笑う顔に何ができるだろうか
傷つくこと 喜ぶこと 繰り返す波と情動
焦燥 最終列車の音

 上記の引用部では、風景ではなく、「君」の言葉と、語り手の心情が語られています。

 1番では過去の風景を映像的にあらわし、2番に入ると本題である「君」への描写にうつる。歌詞は、そのような流れで構成されています。

 語り手の視線が、過去に「君」に抱いていた感情と、今でも「君」を思っている感情を、つないでいるとも言えます。

 感情を呼び起こすためのトリガーとして、当時の視線をとおして、過去の風景を写実的に語っているのだと、僕は解釈します。

結論・まとめ

 「目は口ほどに物を言う」という言葉がありますけど、この曲の歌詞では、語り手の視線の動きが、過去と感情をつなぐキーになっている、というのが僕の出した結論。

 歌詞の内容としては、語り手が「君」にまつわる感情を語っているのですが、写実的に描くことで、格段にリアリティを獲得しているのではないでしょうか。

 また、タイトルにもなっている「打上花火」。歌詞のなかで、2人はいっしょに花火を見ているわけですけど、夏の空に消えていく花火の刹那感が、過去の恋の切なさともリンクしていて、ますます表現が立体的になっています。

 具体的な風景を描きながら、抽象的な感情も、同時に描きだしている。この曲の歌詞の面白さは、そこにあると思います。

 ぜひ、映画を見るような気分で、イマジネーションを全開にしながら、この曲を聴いてみてください。

 




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米津玄師「ゴーゴー幽霊船」歌詞の意味考察 「セブンティーン」と「アンドロイド」が生き抜く現代社会


目次
イントロダクション
テーマと登場人物
セブンティーン
アンドロイド
「幽霊船」が意味するもの
結論・まとめ

イントロダクション

 「ゴーゴー幽霊船」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。2012年5月16日リリースの1stアルバム『diorama』(ジオラマ)に収録されています。作詞作曲は米津玄師。

 いかにも米津玄師さんらしく、イマジナティヴな言葉が並ぶ歌詞。サウンド面でも、絶妙にタイミングと音程をハズしたギターのチョーキングが、壊れたバネのように響き、ポップさと実験性を併せ持っています。

 「ゴーゴー幽霊船」というタイトルがまず個性的ですけど、言葉にも音にもアヴァンギャルドな部分を持った楽曲と言えます。

 今日、とり上げたいのは、この曲の歌詞について。一聴すると、出てくるワードの多彩さに目が眩むような感覚に陥るんですけど、まったく支離滅裂なことを歌っているかというと、そうではありません。

 イメージを繋いでいくと、あざやかに世界観が浮かび上がってくる、とても想像力をかき立てる歌詞なんです。

 そこで本論では、歌詞の意味を考察し、僕なりの解釈をご紹介したいと思います。

テーマと登場人物

 僕は結論から述べるのが好きなので、まず結論を先に言ってしまいます。

 この曲は現代社会と、そこに生きる人々を描写。具体的には、悩みが尽きない現代社会と、その中で疲弊する人を、イマジナティヴな言葉の数々を使って、描き出しているんだと考えています。

 また、「幽霊船」や「太陽系」といったワードも出てきて、輪廻転生をモチーフにしているのかな、と感じる部分もあります。

 最初に、歌詞に出てくる人物を確認しましょう。

 登場するのは「セブンティーン」と「アンドロイド」。語り手はアンドロイドで、「僕」という一人称代名詞を使っています。

 なぜ一般的な代名詞ではなく、「セブンティーン」と「アンドロイド」という、印象に残るワードを選んだのか。

 まずはそこから考えてみましょう。

セブンティーン

 1番Aメロの歌詞は、4行で1ブロック。合計4ブロックで構成されています。

 そしてブロック毎に、「セブンティーン」と「アンドロイド」が交互に記述されていきます。歌い出しとなる1ブロック目は「セブンティーン」。

 まずは、彼女がどんな人物なのか。なぜ「セブンティーン」という名が与えられたのか、考えてみます。

 1番Aメロの1ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

ちょっと病弱なセブンティーン
枯れたインクとペンで絵を描いて
継いで接いでまたマザーグース
夜は何度も泣いてまた明日

 一見すると、とくに「セブンティーン」の人間性につながる情報は、無いと思われるかもしれません。でも、じっくり検討していくと、多くの情報が含まれています。

 2行目の「インクとペンで絵を描いて」からは、絵を描くのが好きな、感受性に優れた人物であることが分かります。

 3行目も同様。「マザーグース」とは英語の伝承童謡のことで、それを「継いで接いで」ということは、文学への興味がある感受性の豊かさをあらわしているのでしょう。

 1行目の「病弱な」、2行目の「枯れた」、4行目の「何度も泣いて」からは、「セブンティーン」という人物が、精神的に疲れていることを示しています。

 最初の問いに戻り、なぜ「セブンティーン」と名づけられのか、考えてみましょう。

 17才といえば、ちょうど大人と子供のはざまであり、もっとも多感な年齢と言ってもいいでしょう。

 そのような多感さ、傷つきやすさを象徴するため、「セブンティーン」という名前が与えられた。というのが僕の仮説です。

 では、次に「セブンティーン」が出てくる3ブロック目では、どのような展開を見せるのか。

 1番Aメロの3ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

ずっと病欠のセブンティーン
曇らないまま今日を空き缶に
空の雷管とペーパーバッグ
馬鹿みたいに呼吸を詰め入れた

 上記3ブロック目も、「セブンティーン」の人間性を語っていると言えます。

 2行目の「曇らないまま今日を空き缶に」とは、具体的にはハッキリしませんが、心をふさがずに今日をやり過ごす、といった意味ではないかと思います。

 3行目の「雷管」とは、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めたもの。それが「空(くう)」だということは、中身は中空であるということでしょう。

 つまり、「セブンティーン」は爆発するような感情を持っていないということ。しかし、わざわざ「雷管」というワードを使っているので、元から持っていないわけではなく、今は失われた状態であるということです。

 その後に続く「ペーパーバッグ」、「馬鹿みたいに呼吸を詰め入れた」も、同じように「セブンティーン」の空虚さをあらわす表現でしょう。

 「セブンティーン」は多感な人物で、そのために日々の生活で消耗し、「病欠」状態になっている、と僕は考えます。

アンドロイド

 つづいて、もう一人の登場人物「アンドロイド」がどのようなキャラクターか、検討していきましょう。

 「アンドロイド」というのは、人型のロボットのこと。ということは、感受性ゆたかな「セブンティーン」とは、真逆の存在として描かれているのでは、と仮説を立てられます。

 では、その仮説に基づいて、歌詞を考察しましょう。前述のとおり1番Aメロは、ブロックごとに「セブンティーン」と「アンドロイド」が語られていきます。

 1番Aメロの2ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

回る発条のアンドロイド
僕の声と頭はがらんどう
いつも最低な気分さ
君に愛されたいと願っていたい

 「回る発条(ぜんまい)」「声と頭はがらんどう」と記述され、「セブンティーン」とは違い、感受性を失った状態であることが想像できます。

 「いつも最低な気分」ということは、意識的にアンドロイドのように、心を消して生きているのだとも考えられます。

 4行目の「君」とは誰か。他に登場人物はいないので、「セブンティーン」だと解釈するのが自然でしょう。

 意識的に「声と頭はがらんどう」にして日々を生きる「アンドロイド」。でも内心は、「セブンティーン」のように傷つきながらも、感受性を持った人物に憧れているということです。

 つづいて、1番Aメロの4ブロック目の歌詞を、以下に引用します。

あいも変わらずにアンドロイド
君を本当の嘘で騙すんだ
僕は幽霊だ 本当さ
君の目には見えないだろうけど

 ここでは「アンドロイド」が、「僕は幽霊だ」と言い始めています。これはどういう意味なのか。

 アンドロイドは人工物。それに対して、幽霊は科学的に証明できないもの。すなわち、両者は対極的なものと言えます。

 アンドロイドが、感情を排除し、歯車のように役割を果たす存在だとすると、幽霊はその逆。つまり、感情を持った存在だということ。

 そして、感情のみを強調するために、「幽霊」というワードを選んでのではないかと思います。

 また「幽霊」は亡くなった人の霊を意味しますから、感情ばかりを優先すると、現代社会では生きられない。というメッセージまで内包されているとも考えられます。

 まとめると、傷つきながらも感受性ゆたかな「セブンティーン」。機械のように感情を排した「アンドロイド」。

 しかし、実際は「アンドロイド」も感情を持っており、「セブンティーン」のような感情をともなった生活に憧れ、「僕は幽霊だ」と言っているのです。

「幽霊船」が意味するもの

 つづいて考察したいのは、曲のタイトルにも入っている「幽霊船」という言葉。

 この言葉は歌詞にも出てくるのですが、いったい何を意味しているのか。「アンドロイド」のところで考察したとおり、「幽霊」とは人間の感情をあらわしたワードだと考えられます。

 ということは、「幽霊船」は人間の思いを積んだ船。すなわち地球、あるいは肉体ではなく観念のみが存在するあの世を、あらわしていると仮定できます。

 後者の意味を取るならば、文字どおりの「幽霊船」ということですね。

 実際に歌詞を確認してみましょう。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

そんなこんなで歌っては
行進する幽霊船だ
善いも悪いもいよいよ無い
閑静な街を行く

 上記引用部も抽象的で、一聴しただけでは具体的な意味はわかりません。でも、先ほどの仮説を念頭におくと、イメージがつながっていきます。

 3行目の「善いも悪いもいよいよ無い」からは、現世ではなく、あの世をあらわしているように思われます。なぜなら、あの世では、現代社会にあるルールや常識は無いと考えられるからです。

 次に2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

そんなこんなで歌っては
目を剥く幽霊船だ
前も後ろもいよいよ無い
なら全部忘れて
ワアワアワアワア

 3行目の「前も後ろもいよいよ無い」は、先ほどの「善いも悪いもいよいよ無い」と同様、あの世を示唆する表現だと思います。

 前後が無いということは、時間が消失したということ。つまり、現世ではなく、時間の存在しない別の世界だということです。

 また「幽霊船」というワード以外にも、永遠やあの世を思わせる言葉が、散りばめられています。例えば、2番サビの「太陽系の奥へ進め」、間奏後のサビの「三千年の恨み放て」「修羅に墜ちて」など。

 「ゴーゴー幽霊船」というタイトルが示唆するとおり、永遠や輪廻天生もあつかった曲だと言えるでしょう。

結論・まとめ

 では、結局のところ「ゴーゴー幽霊船」はなにを描き、なにを伝えようとしている曲なのか。

 「セブンティーン」と「アンドロイド」両者のキャラクターが示すとおり、現代社会において、感情のおもむくままに生きることの困難を描いています。

 「セブンティーン」のように感受性をオープンにして傷つくか、「アンドロイド」のように心を消して、機械のように生きるしかないのです。

 もし、自分の感情を全開にするなら「幽霊」になるしかない。「ゴーゴー幽霊船」は、このような社会の生きにくさを描写した曲だと、僕は考えています。

 こんなふうに書くとネガティヴなようですけど、人間の強さとか怒りも同時に描かれているところが、この楽曲の魅力。

 あくまで僕の解釈ですが、難解な歌詞であるのは確かだと思いますので、少しでも参考になれば幸いです。

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米津玄師「TEENAGE RIOT」歌詞の意味考察 10代の暴動的エモーション


目次
イントロダクション
10代らしい描写
語りの視点
自分へのメッセージ
過去をふり返る理由
言えなかった三文字
結論・まとめ

イントロダクション

 「TEENAGE RIOT」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。2018年10月31日に、両A面シングル『Flamingo/TEENAGE RIOT』としてリリース。作詞作曲は米津玄師。

 タイトルの「TEENAGE RIOT」とは、直訳すれば「10代の暴動」。(「teenage」は13歳から19歳までなので、厳密には10代ではありませんが…)

 タイトルが示唆するとおり、歌詞にもリズムにも、10代を連想させる疾走感のある楽曲です。

 僕はこのタイトルを見て、まっ先にソニック・ユース(Sonic Youth)の同名曲「Teen Age Riot」が頭に浮かんだんですけど、この曲のタイトルを踏襲し、楽曲名ありきで制作された曲とのこと。

 いずれにしても「10代の暴動」というタイトルにふさわしく、10代の若者が抱く苛立ちや焦燥感が、閉じこめられた楽曲だと思います。

 僕がこの曲の歌詞で、興味深いなと思った点は、語りの視点。あくまで僕の解釈ですが、現在の視点から、少し昔をふりかえっているような構造になっているんです。

 年齢などは具体的には出てきませんけど、例えば20歳になった現在から、15歳の頃を思い出して語っているような。

 なぜそう思うのかというと、たびたび語尾が過去形になっているため。そして、サビに出てくる「バースデイソング」というワードです。

 本論では、語りの視点に注目しながら、「TEENAGE RIOT」の歌詞を読みといてみたいと思います。

10代らしい描写

 この曲には「僕」や「私」といった、一人称の代名詞は出てきません。出てくる代名詞は「君」と「あなた」の二つ。これについては後述します。

 一人称の代名詞は使わず、ひたすら語り手がマシンガンのように言葉を弾き出していきます。メロディーとアンサンブルも、小気味よく疾走感があるのですが、そこに乗る歌詞も同じく、疾走感をともなった言葉が並びます。

 1番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

潮溜まりで野垂れ死ぬんだ 勇ましい背伸びの果てのメンソール
ワゴンで二足半額のコンバース トワイライト匂い出すメロディー

 一聴すると勢いに押されて、細かい意味は取れませんが、じっくり見ていくと、それぞれの言葉のイメージを利用しながら、多くの情報が盛り込まれています。

 まず、歌い出しの「潮溜まり」。海になじみがある人以外には、あまり聞きなれない言葉かもしれません。

 これは海岸で潮が引いたときに、岩のくぼみなどに、海水が取り残された状態のこと。タイドプール(tide pool)とも呼ばれます。

 大きな海ではなく、一時的な水たまり。つまり、海が大人の世界だとすると、まだ成熟していない10代を指しているのでしょう。

 「潮溜まりで野垂れ死ぬんだ」とは、無茶なことをやりがちな、10代の思考をあらわしているんだと思います。

 その後に続くのは、若さをシンボリックに描いた表現。人生の「潮溜まり」期がどのようなものか、後ろから説明しているということです。

 「勇ましい背伸びの果てのメンソール」とは、若者がタバコに憧れるけど、強いタバコは吸えず、メンソールを吸うこと。

 「ワゴンで二足半額のコンバース」とは、半額セールでコンバースのスニーカーを買い、結果としてみんな同じ靴を履いている状況。

 そして「トワイライト」とは、夕暮れ時のこと。中高生にとっての放課後の空気を、「メロディー」という言葉であらわしたのでしょう。

 こうして見ると、すべて若さを連想させる表現と言えます。

語りの視点

 Bメロの入っても、引き続き若さの描写が続きます。

 ただ、前述したように、このあたりから語りの視点が、単純ではなくなってくるんです。1番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

今サイコロ振るように日々を生きて ニタニタ笑う意味はあるか
誰も興味がないそのGコードを 君はひどく愛していたんだ

 サイコロは、ゲームやギャンブルなどで使われる、乱数を発生させる道具。つまり「サイコロ振るように日々を生き」るとは、なにも決めずに、行き当たりばったりで毎日を過ごすという意味でしょう。

 「ニタニタ笑う意味はあるか」とは、おそらく反語的表現。そんな「笑う意味はあるか?」という問いかけではありますが、その奥には「笑う意味はない」という思いが隠れています。

 また、笑うかどうかが重要というよりも、その前に出てきた「サイコロ振るよう」な日々を、よしとするのか否かが重要なのでしょう。

 つまり引用部1行目をまとめると、行き当たりばったりで毎日を過ごすことに、意味はないということ。

 2行目は、特に解釈に迷うところはありません。しかし、気になるのは、突如として出てきた「君」。これが誰を指すのか、という点です。

 ここまでは、語り手が自分の感情を、勢いよく吐き出すような歌詞でした。でも、ここで「君」が出てきたことによって、語りの視点がどうなっているのか、設定が揺らぎ始めます。

自分へのメッセージ

 先ほども述べましたが、語り手が過去の自分にたいして「君」と語りかけている、というのが僕の仮説。

 その考えに至るヒントが、サビに出てきます。1番サビの歌詞を、以下に引用します。

煩わしい心すら いつかは全て灰になるのなら
その花びらを瓶に詰め込んで火を放て 今ここで
誰より強く願えば そのまま遠く雷鳴に飛び込んで
歌えるさ カスみたいな だけど確かな バースデイソング

 1行目の「煩わしい心」というのは、これまでに記述されてきたような、10代特有の感情ということでしょう。

 それが「いつかは全て灰になる」ということは、10代の頃のめんどくさい感情も、年を重ねればいずれ消える、という意味。

 2行目から3行目は、そんな感情は今すぐに捨ててしまえ、ということ。

 そして、4行目。「バースデイソング」とは、誕生日に歌う曲というわけではなく、大人に近づくことを意味しているのでしょう。

 つまり、上記引用部をまとめると、10代特有のめんどくさい感情なんて、いずれ消えるもの。だったら、そんなものは今すぐに捨てれば、大人に近づけるよ、ということです。

 ただ、面白いのは「カスみたいな」という一言が挟まれ、大人になることがいい事だよ、とは必ずしも言っていない点。

 上記引用部には、4行目に「歌えるさ」と語りかけるような語尾があり、誰かへのメッセージのように聞こえます。

 Bメロの最後には「君はひどく愛していたんだ」と、過去形の語尾が出てきていました。つまり、語り手は「君」の過去を知っているということ。

 その後に上記のサビが繋がり、今度は語りかけるような口調へと変わります。

 以上の2点から、「君」は過去の語り手であり、自分自身に問いかけている、と仮定しました。

過去をふり返る理由

 では、なぜ過去をふり返るのか、考えてみましょう。

 だいたい人が特定の過去をふり返るのは、なにかをやり直したい時。映画や漫画などでタイムリープするときも、過去を変えるためだと相場が決まっています。

 語り手も、過去のある時点をやり直したいと考えている。そう仮定して、2番の歌詞を検討していきます。まずは2番Aメロの歌詞を、以下に引用します。

しみったれたツラが似合うダークホース 不貞腐れて開けた壁の穴
あの時言えなかった三文字 ブラスバンド鳴らし出すメロディー

 「ダークホース」とは、競馬で番狂わせを起こす馬のこと。言い換えれば、人気がある馬ではないとも言えます。

 「しみったれたツラが似合うダークホース」とは、クラスで中心的なキャラクターではなかった自分自身のことを、指しているのでしょう。

 「不貞腐れて開けた壁の穴」というのは、壁を殴って穴を開けたということ。

 2行目の「あの時言えなかった三文字」という一節が、この先の歌詞を読みとくキーになりそうです。具体的には分かりませんが、言いたかったのに、言えなかった言葉がある。語り手の後悔が伝わる一節です。

 「言えなかった」と過去形になっていることからも、上記引用部は昔をふり返っているのだと解釈すべきでしょう。

 つづいて、2番Bメロの歌詞を、以下に引用します。

真面目でもないのに賢しい顔で ニヒリスト気取ってグルーミー
誰 も聴いちゃいないそのDコードを それでもただ信じていたんだ

 こちらも「信じていたんだ」と過去形で閉じられていることから、過去の回想。

 1行目は、なんとなく難しい顔をして、憂鬱な気分でいるのがかっこいいと思っていた、ということでしょう。いかにも10代の若者らしく、厨二病的とも、太宰治的とも言える行動です。

 2行目の「誰も聴いちゃいない」も、1行目の内容から繋がり、誰とも交わらずニヒルな態度でいたことを、強調しているのだと考えます。

言えなかった三文字

 2番Aメロに「あの時言えなかった三文字」と出てきて、過去の後悔を示唆するものの、その後は具体的な記述はなされていません。

 しかし、2番サビ後に挿入されるCメロの歌詞に、「三文字」のヒントになるのでは、と思われる言葉が出てきます。

 まずは、その前の2番サビの歌詞を引用します。

よーいどんで鳴る銃の音を いつの間にか聞き逃していた
地獄の奥底にタッチして走り出せ 今すぐに
誰より独りでいるなら 誰より誰かに届く歌を
歌えるさ 間の抜けた だけど確かな バースデイソング

 1行目の「よーいどんで鳴る銃の音」というのは、運動会などでスタートの合図を鳴らすイメージでしょう。

 2行目の「地獄の奥底」というのも抽象的ですが、ここまでの歌詞は一貫して、語り手が過去の自分を、客観的に見つめている内容です。

 そのため「地獄の奥底にタッチして走り出せ」とは、若さ特有のニヒリスティックな態度を今すぐ捨てろ、みたいな意味なんじゃないかと思います。

 3行目以降も、2行目と同じく、1人でニヒリストを気取った態度を指摘。「誰より独りでいるなら 誰より誰かに届く歌を
歌えるさ」と、エールを送っています。

 上記2番サビで注目すべきは、「独り」でいることが強調されている点。それを踏まえて、そのあとに続くCメロのサビを、確認してみましょう。

持て余して放り出した叫び声は 取るに足らない言葉ばかりが並ぶ蚤の市にまた並んで行く
茶化されて汚されて恥辱の果て辿り着いた場所はどこだ
何度だって歌ってしまうよ どこにも行けないんだと だからこそあなたに会いたいんだと

 冒頭の「持て余して放り出した叫び声」とは、若さに任せた叫びといったところでしょうか。

 その後には「取るに足らない言葉ばかりが並ぶ蚤の市にまた並んで行く」と続きます。そういう叫びも、若気の至りみたいなもので、特に珍しいものではない、ということでしょう。

 「何度だって歌ってしまうよ どこにも行けないんだと」とは、叫んだところで何も変わらないということ。やはりここでも、10代特有のエモーションを、冷静な目で見つめています。

 そして、引用部の後半に出てくる「あなた」。ここが重要だと思うポイントです。

 これまでは「君」という代名詞が使われていて、これは語り手自身をあらわしているというのが、僕の仮説。

 しかしここでは、同じ二人称代名詞ではありますが「あなた」に変わっています。これは誰を指すのか。

 具体的に誰を指すのかは不明ですが、「君」とは別の人を指すと僕は考えています。すなわち「あなた」は語り手自身ではなく、他者だということ。

 ここからは僕の想像ですが、「あなた」とは片思いの相手を指すのではないかと思います。

 「10代の暴動」というタイトルを持ったこの曲。その曲名どおり、10代らしい感情や態度が、綴られています。

 10代特有の感情といえば、この曲であつかわれるように、斜に構えた態度や、意味のない反抗心。そして、もうひとつ。不器用な恋愛も挙げられるのではないかと思います。

 この曲の語り手は、過去のある時期をふり返っていると、仮説を立てました。

 語り手は過去の自分を思い出し、若さにまかせて叫んでも「どこにも行けないんだ」と、今では悟っています。

 さらに「だからこそあなたに会いたいんだ」と「何度だって歌ってしまう」とも綴られています。「あなた」とは、思いを伝えられなかった相手。

 2番Aメロに出てきた「あの時言えなかった三文字」とは、「あなた」あるいはそれに準ずる言葉なのではないかと思います。

 「好きだ」だったら意味がわかるけど、「あなた」だけだったら意味が分かりません。でも、思いをあらわす象徴として「あなた」あるいは相手の名前をあらわす3文字が、「あの時言えなかった三文字」である、と僕は思います。

結論・まとめ

 以上「TEENAGE RIOT」の歌詞を、読みといてきました。

 「10代の暴動」というタイトルにふさわしく、10代特有のエモーションが閉じ込められたこの曲。

 ここまで考察してきたとおり、反抗心やニヒリズム、そして不器用な恋心などが、密封された楽曲です。

 この曲の良いところは、若さを礼賛するでもなく、全否定するでもないところ。

 希望と絶望、愛情と憎しみの両方が感じられるというか、なんとも情報量の多い曲だと思います。

 あと、これは僕の想像の域を脱しませんが、語り手が過去の自分へのエールを「バースデイソング」であらわしているところも秀逸。

 歌のなかに他の歌があり、現在の語り手のなかに過去の語り手がありと、構造が幾重にもなって、ますます曲をイマジナティヴなものにしていますよね。

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米津玄師「Flamingo」歌詞の意味考察 フラミンゴは何を象徴するか?


目次
イントロダクション
「フラミンゴ」が意味するもの
1番Aメロ
1番Bメロ
1番サビ
2番Aメロ
2番Bメロ
2番サビ
Cメロ
結論・まとめ

イントロダクション

 「Flamingo」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。両A面シングル『Flamingo / TEENAGE RIOT』として、2018年10月31日にリリース。作詞作曲は米津玄師。

 「難解」と言うと語弊があるかもしれませんが、歌詞にも音楽にも、ねじれた魅力があるのが米津玄師さんの楽曲の特徴。

 メジャー9枚目のシングルとしてリリースされた「Flamingo」も、実験性と大衆性が同居した、アヴァンギャルド・ポップとでも呼びたい質を備えています。

 歌詞も、一聴しただけでは、なかなか本質を掴めません。小説でも音楽でも映画でも、一筋縄ではいかないものが、個人的に大好き。

 なおかつ、作品に関してあれこれ考えるのも大好きなので、この曲の歌詞の意味を、考察してみたいと思います。

「フラミンゴ」が意味するもの

 まずは「Flamingo」というタイトル。歌詞にも「フラミンゴ」と出てきますが、まずはこの言葉がなにを意味するのか考えてみましょう。

 「フラミンゴ」とは鳥の一種で、鳥綱フラミンゴ目フラミンゴ科の総称。日本ではベニヅルとも呼ばれ、オレンジ色やピンク色をした姿が特徴です。また、水辺にいる時は、水に体温を奪われにくくするため、片足で立つという特徴もあります。

 以上をまとめると、フラミンゴは見た目は華やかだが、やや不安定な存在、ということになるでしょう。

 次に、歌詞の登場人物を確認します。まず、確実に出てくるのは「あなた」。そして、「あたし」という一人称代名詞を使う、語り手。ただ、「あたし」という言葉は、Cメロに1回出てくるだけです。語り手が、主に「あなた」のことを語っていくのが、歌詞の大まかな内容です。

 歌詞の中では「あなた」のことを、「フラミンゴ」だと表現しています。また、歌詞カードなどには記載されていませんが、実際には「フラフラフラフラミンゴ」と歌われています。

 繰り返される「フラフラ」は、不安定な状態を強調しているとも取れます。「あなた」は華やかだが、不安定な要素を持った存在として描かれている。ひとまず、そう仮定しましょう。

 登場人物は、語り手と「あなた」。「あなた」はフラミンゴに例えられ、華やかで不安定な存在。以上を念頭に置きながら、歌詞を読み解いていきます。

1番Aメロ

 この曲の歌詞は、なかなかに難解なので、順を追って確認していきたいと思います。まず1番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

宵闇に 爪弾き 悲しみに雨曝し 花曇り
枯れた街 にべもなし 佗びしげに鼻垂らし へらへらり

 主語が示されていませんが、語り手が主語であると仮定して、読み進めます。

 上記引用部には、漢字が多く、古語を思わせる言葉が並びます。一聴すると掴みにくい歌詞ですが、言葉をひとつずつ確認すると、多くの情報が提示されていることが分かります。

 まず「宵闇に」という言葉から、時間は夜であることが判明。「爪弾き」は「嫌われる」「非難される」といった意味ですから、前の言葉と合わせると、夜に嫌われたような状態であるということ。

 「悲しみに雨曝し」からは、天気が雨であること、語り手が悲しみに暮れていることが分かります。

 「花曇り」とは「桜が咲くころの曇天」を意味しますから、季節が春であることも判明。

 引用部1行目で得られた情報をまとめると、時間は夜、天気は雨、季節は春。語り手の悲しみにくれた状態が、「爪弾き」「雨曝し」という言葉で表されています。

 続いて2行目。「枯れた街」は、寂れた街の様子を描写、あるいは感受性を無くすぐらい打ちひしがれた、語り手の状態を表しているのでしょう。

 「にべもなし」とは、「愛想がない」「そっけない」という意味。「枯れた街」の様子を、語り手はそっけないと表現しています。

 その後の「佗びしげに鼻垂らし へらへらり」からは、悲しみに暮れた語り手のボロボロな様子が伝わります。

 上記Aメロの歌詞では、場面設定が明らかにされ、語り手の状態が描写されています。

1番Bメロ

 続いて、1番のBメロの歌詞を、以下に引用します。

笑えないこのチンケな泥仕合 唐紅の髪飾り あらましき恋敵
触りたいベルベットのまなじりに 薄ら寒い笑みに

 Aメロとは変わって、現代の口語に近い言葉使いとなっています。

 前述したとおり、歌詞に出てくるのは語り手と「あなた」の2人。1行目の「泥仕合」とは、語り手と「あなた」の間に起こった、いざこざの事でしょう。

 「髪飾り」からは、「あなた」が女性であること、「恋敵」という言葉からは、「泥仕合」が男女関係のもつれである事が示唆されます。

 2行目の「ベルベット」とは、日本では「ビロード」とも呼ばれる、柔らかく上品な光沢を持つ布地のこと。「まなじり」とは、目じりのことです。

 ビロードのような目じりに触りたい、ということは、やはり語り手と「あなた」は、男女関係にあると想定できるでしょう。

1番サビ

 Aメロでは設定と語り手の状態が提示され、Bメロでは語り手と「あなた」の関係性が示唆されました。

 サビに入ると、より具体的に2人の関係が記述されます。1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

あなたフラミンゴ 鮮やかなフラミンゴ 踊るまま
ふらふら笑ってもう帰らない
寂しさと嫉妬ばっか残して
毎度あり 次はもっと大事にして

 1行目の「あなたフラミンゴ」とは、「あなた」はフラミンゴのような存在である、ということでしょう。フラミンゴが、華やかで不安定な存在を表す、と先ほど仮定しました。

 1行目の「鮮やかなフラミンゴ」、2行目の「ふらふら」という表現からは、この仮説の妥当性が確認できます。上記1〜2行目は、「あなた」が華やかで魅力的な女性であるが、ふらふらと自由で自分だけのものにする事はできない、ということを示しているのでしょう。

 では、2人が具体的にどのような関係にあるのか。3行目と4行目に、示唆的なかたちで記されます。

 3行目の「寂しさと嫉妬ばっか残して」は、語り手以外の男性の存在を感じさせる表現です。この一節のみだと、「あなた」と語り手は恋愛関係にあるが、「あなた」には浮気相手がいる、あるいは不倫関係にあると想定できます。

 しかし、4行目に続くのは「毎度あり」という言葉。商売を連想させるこの言い回しからは、「あなた」が遊女であり、語り手は客である、という関係性が示唆されます。

 もちろん示唆的に語られるだけで、確定した情報は提示されないのですが、語り手が雨に打たれながら、夜の街を彷徨うイメージから始まり、なんとも怪しく独創的な世界観が描かれています。

2番Aメロ

 語り手が客、「あなた」が遊女という関係を、ひとつの仮説として頭に置きながら、2番の歌詞を読み解いていきましょう。2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

御目通り 有難し 闇雲に舞い上がり 上滑り
虚仮威し 口遊み 狼狽に軽はずみ 阿呆晒し

 1番と同じく、Aメロは古語を思わせる言葉が羅列されます。

 1行目の「御目通り」とは、目上の人に会うこと。「上滑り」とは、深みがなく軽々しいことを言います。引用部1行目をまとめると、「あなた」に会えたことが嬉しくて舞い上がり、軽い言葉しか交わすことができなかったということ。

 「虚仮威し」(こけおどし)から始まる2行目は、1行目の内容を強調し、繰り返し語っているのでしょう。

2番Bメロ

 続いて、2番のBメロを下記に引用します。

愛おしいその声だけ聴いていたい 半端に稼いだ泡銭 タカリ出す昼鳶
下らないこのステージで光るのは あなただけでもいい

 引用部1行目の「愛おしいその声だけ聴いていたい」は、語り手の「あなた」に対する気持ちということでしょう。

 しかし、その後に続く言葉は、解釈に迷います。「半端に稼いだ泡銭」は、そのままでも意味は分かります。「昼鳶」は「こそどろ」や「スリ」を意味するので、「タカリ出す昼鳶」は「盗みを働き始めるこそどろ」程度の意味でしょう。

 意味としては上記のとおり。迷うのは、主語が誰か、という点です。主語を語り手とするなら、自分が稼いだお金を、こそどろに盗まれてしまう、という意味になります。

 あるいは特定の主語を想定しているのではなく、世間一般のことを言っている、とも取れます。この場合の意味は、適当に稼いだお金を、こそどろに盗まれるこの世界、といった感じでしょうか。

 主語は語り手か、世間一般か。いずれであったとしても、その後に続く2行目の言葉とは、スムーズに繋がるように思います。

 「下らないこのステージ」とは、世間一般のこと。そのように解釈すると、引用部2行目は、あぶく銭も奪われるような下らない世界で、価値があるのは「あなた」だけでいい、という意味になります。

 具体的には語られていませんが、「あなた」が遊女だと仮定すると、世間一般ではなく遊郭のシステムを指している、とも取れるでしょう。

 どちらの解釈を取るにしても、語り手が「あなた」を愛おしく思う気持ちが、上記引用部では語られています。

2番サビ

 1番のサビでは、「あなた」を鮮やかで不安定なフラミンゴに例えていました。2番のサビでも、共通してフラミンゴを用いているのですが、表現内容が1番とは異なります。2番のサビを、以下に引用します。

それはフラミンゴ 恐ろしやフラミンゴ はにかんだ
ふわふわ浮かんでもうさいなら
そりゃないね もっとちゃんと話そうぜ
畜生め 吐いた唾も飲まないで

 1番では「鮮やかなフラミンゴ」と、その鮮やかさにフォーカスしていました。しかし、2番では「恐ろしやフラミンゴ」という言葉に代わっています。

 ここで「フラミンゴ」が何を意味するのか、思い出しましょう。先ほど、フラミンゴは色が鮮やかで片足で立つことから、「華やかで不安定な存在」を表していると仮定しました。

 上記2番のサビを、1番のサビと比較してみましょう。1番は、鮮やかさにフォーカスした表現。2番は、不安定さにフォーカスした表現ではないかと思います。

 言い換えると、1番は不安定な存在であると分かっていながら、鮮やかさに負けて「あなた」に夢中になってしまう心情。2番では、「あなた」は不安定な存在であるために、決して自分のものにはならず、入れ込むと傷つくという状況が、記述されているということ。

 どんなに語り手が「あなた」に想いを寄せても、「あなた」はふわふわと去ってしまう。そのような状況が、上記2番のサビでは語られています。

Cメロ

 2番のサビの後には、歌詞の内容としてクライマックスと言うべき、Cメロが挿入されます。以下に引用します。

氷雨に打たれて鼻垂らし あたしは右手にねこじゃらし
今日日この程度じゃ騙せない 間で彷徨う常しえに
地獄の閻魔に申し入り あの子を見受けておくんなまし
酔いどれ張り子の物語 やったれ死ぬまで猿芝居

 引用部1行目の「氷雨に打たれて鼻垂らし」は、1番のAメロの歌詞と同じく、精神的にボロボロになった語り手の様子を描いているのでしょう。

 その後の「あたしは右手にねこじゃらし」は、語り手が「あなた」の気を引こうと、策を考え、行動することを「ねこじゃらし」に例えています。

 2行目は「ねこじゃらし」のイメージから繋がり、ねこじゃらしのような子供騙しの策では、「あなた」を振り向かせることはできない、という内容。

 3行目の「あの子」は、「あなた」を指すのでしょう。3行目全体では、「あなた」と結ばれることのない語り手が、閻魔様に「あなた」のことを考慮してください、と頼んでいます。

 ここで「地獄の閻魔」様が出てきた理由は、現実では語り手と「あなた」が結ばれることはあり得ない。しかし、どうしようもないほど、語り手が「あなた」に夢中になっている状態を、表すためだと考えます。

 4行目の「張り子」とは、「はりぼて」とも言われる、中が空洞になった造形技法のこと。1行目の「ねこじゃらし」と同じく、語り手の無力な状態を表しています。引用部最後の「猿芝居」も、「ねこじゃらし」と「張り子」のイメージを、繰り返し強調。

 上記Cメロの歌詞をまとめると、語り手は「あなた」を思い続け、実際に行動もするが、どれもハリボテのような内容ばかりで、実を結ぶことはない。しかし、語り手はそれを一生続けようと思うぐらい、「あなた」に夢中である、という内容です。

結論・まとめ

 以上、タイトルにもなっている「フラミンゴ」(Flamingo)が何を意味するのか、という点を手がかりにしながら、歌詞を読み解いてきました。

 内容としては、語り手がフラミンゴのように鮮やかで不安定な存在の「あなた」に恋をするが、成就することはない状況を、語り手の視点から綴っています。

 しかし、この曲の歌詞において重要なのは、その内容よりも語りの手法。クラシカルな言葉を用いながら、前の言葉のイメージが、後ろの言葉へと、数珠のように連なっていきます。

 イメージの大群がサウンドと共に押し寄せ、圧倒されるのが、この曲の魅力だと思います。ミュージック・ビデオも秀逸。

 ぜひミュージック・ビデオを観ながら、音楽から溢れ出るイメージに、圧倒される体験をしてください。

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米津玄師「Lemon」歌詞の意味考察 味覚と感情をつなぐレモン


目次
イントロダクション
語りの構造
歌詞のテーマ
レモンの意味
「わたし」と「あなた」の関係性
「あなた」とは誰か?
結論・まとめ

イントロダクション

 「Lemon」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。2018年3月14日に、メジャー8枚目のシングルとしてリリース。作詞作曲は米津玄師。

 また、TBS系列テレビドラマ『アンナチュラル』の主題歌にもなっています。同作は不自然死(アンナチュラル・デス)を扱ったドラマで、主題歌となった「Lemon」も、死生観をテーマとした楽曲になっています。

 しかし、そのような予備情報が無かったとしても、感情を呼び起こす力を持っているのが、この楽曲。一聴すると、つかみどころが無く、抽象的な歌詞のようにも聞こえますが、人との別れをテーマにした、深い意味が刻まれています。

 僕は「音楽はそれ自体で成立する」という考えを持っているので、「Lemon」の歌詞を、そこに書かれた情報に沿って、読み解いてみたいと思います。

語りの構造

 内容に入る前に、まずは語りの構造を確認しましょう。誰の視点から語られるのか、歌詞の中には誰が出てくるのか。

 歌詞をざっと見渡すと、語り手が「わたし」であることに、すぐ気がつきます。さらに「わたし」以外の登場人物を探すと、「あなた」が出てくることも分かります。

 また、「あなた」という言葉は何度も繰り返し使われ、話題の中心であるように思われます。

 登場人物は「わたし」と「あなた」の2人。そして、この曲は「わたし」の視点から、「あなた」について語っている、という前提で、内容を読み解いていきます。

歌詞のテーマ

 最初に、この曲のテーマについて検討しましょう。一体この曲は、何を語ろうとしているのでしょうか。

 最初に僕の考えを明かしてしまうと、この曲は人と人との別れ、および別れに伴う苦しい感情について歌っています。歌詞に出てくる人物は2人。つまり、「わたし」と「あなた」の別れについて、歌っているということです。

 では、具体的にどのように別れが描写され、別れによってもたらされる、どのような感情が描かれているのか、歌詞に沿って確認してみましょう。1番のAメロ1連目の歌詞を引用します。

夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う

 上記の引用部には「夢」という言葉が、2回出てきます。1行目の「夢ならばよかった」という表現から、「あなた」は既に会えない存在であることが示唆されます。

 2行目の「あなたのことを夢にみる」という一節は、さらに「あなた」の不在を強調する表現です。すなわち「あなた」は夢の中でしか会えない存在であることを意味しています。

 夢でしか会えない、ということは、「あなた」が亡くなってしまったことをも示唆しますが、ここの表現のみでは確定的なことは分かりません。

 3行目と4行目は、「わたし」が「あなた」のことを思い出し、感傷的な気分になっていることが表されているのでしょう。「古びた思い出」という言葉からは、「わたし」と「あなた」が長い付き合いであったことが示唆されます。

 歌詞の中では具体的に記述されていませんが、近しい家族あるいは長年連れ添った恋人のことを、歌っているのではないかと想像できます。

 Aメロの2連目では、さらに「あなた」の不在を強調する言葉が続きます。以下に引用します。

戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
言えずに隠してた昏い過去も
あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

 上記引用部の1行目と2行目は、やはり「あなた」が会えない存在になってしまったことを意味しているのでしょう。

 この2行からは「わたし」と「あなた」の関係性、そして「わたし」の豊かな感受性が垣間見えます。

 まず、ひとつめの2人の関係性。「戻らない幸せ」と言っているところから、「わたし」にとって「あなた」と共に過ごした時間が、幸せであったことが分かります。つまり、「あなた」は親しく大切な存在であったということ。

 続いて、ふたつめの豊かな感受性について。「わたし」は「あなた」と会えなくなったことを、引用部2行目の「最後にあなたが教えてくれた」という表現で表しています。不在を悲しいと言うのではなく、幸せを教えてくれたと表現する「わたし」は、優れた感受性の持ち主であると言えるでしょう。

 引用部の3行目と4行目では、「あなた」にはもう会えないということが、繰り返し強調されています。

 また、4行目では「あなたがいなきゃ永遠に昏いまま」と綴られています。言い換えれば、「あなた」に話すことができれば、昏い過去も明るくなり得たということ。この一節からも、「わたし」の「あなた」に対する信頼と愛情が感じられます。

レモンの意味

 Bメロを経て、曲は1回目のサビに入ります。サビには曲名にもなっている「レモン」(Lemon)という言葉が出てきます。

 人との別れ、特に親しい人の死すら連想させる楽曲のタイトルとして、「レモン」というのは一見すると違和感があります。

 では、なぜ「レモン」がタイトルに採用され、なにを意味しているのか、サビの歌詞を読み解きながら、考察したいと思います。

 1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光

 引用部1行目と2行目は、「わたし」にとって「あなた」が大きな存在であったことが記述されています。2行目は、悲しみや苦しみさえも、「あなた」と一緒だったら愛おしいものだった、という意味でしょう。

 そして、3行目で遂に「レモン」が登場。「苦いレモンの匂い」と出てくるところから、直前の歌詞の悲しみや苦しみに、繋がっているのだと解釈できます。

 苦しみや悲しみでさえ、「あなた」との思い出は愛おしいと感じる「わたし」。レモンの苦味は、その象徴として機能しているのでしょう。

 レモンは言うまでもなく、酸味が非常に強い食べ物。そして、「嬉しい」や「悲しい」といった感情は、目には目えない、実体のないもの。つまり、レモンが苦いという味覚を用いることで、「あなた」のいない悲しみを、現実感を伴って描いているということです。

 また、誰もが想像できるレモンの味を用いることで、抽象的な表現で伝える以上に、リスナーに対しても生々しく「わたし」の苦しみを、伝える効果を生んでいます。

 夢か現実か確かめるために、自分のほっぺたをつねる、というクリシェがあります。この曲におけるレモンも、現実感をもたらす装置として機能している、というのが僕の仮説です。

「わたし」と「あなた」の関係性

 1番の歌詞で、この曲の語らんとするメッセージが、だいぶ鮮明になってきました。続いて2番に入ると、「わたし」と「あなた」の関係性が、もう少し詳しく記述されます。ただ、やはり「あなた」が家族であるのか、恋人であるのか、といった確定的な情報は提供されません。

 では、2番では歌詞がどのように展開するのか、確認していきましょう。2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
受け止めきれないものと出会うたび
溢れてやまないのは涙だけ

 背をなぞることで、誰であるかを認識できるということは、「あなた」は「わたし」の恋人だったと示唆されます。

 3行目の「受け止めきれないもの」は、圧倒的な悲しみや苦しみを表しているのでしょう。4行目の溢れる涙へと繋がります。

 続いて、2番のBメロの歌詞を引用します。

何をしていたの 何を見ていたの
わたしの知らない横顔で

 上記の引用部も、「あなた」が家族や友人ではなく、恋人だったのではと思わせる表現です。「知らない横顔」というのは、人には誰しも多面性があり、「わたし」の知らない「あなた」の一面があったということ。

 もちろん、家族同士でも知らない一面を持ち得ますが、一般的には他人同士の方が、知らない一面をお互いに持っているもの。

 さらに、上記1行目の「何をしていたの」という問いかけと解釈できる言葉が、2人が親密な関係であったこと、そして知らない一面があることに対して、感情が動いていることを思わせます。

 まとめると、親しい間柄でありながら、知らない一面があり、なおかつ知らない一面があることに、多かれ少なかれ「わたし」が、ショックを受けているということ。このように考えると、2人は恋人同士であったと想定することが可能でしょう。

 その関係性を裏付けるように、2番のサビでは以下の歌詞が続きます。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください
そんなことを心から願うほどに
今でもあなたはわたしの光

 1番の歌詞は、「夢」や「永遠」といった言葉を使い、「あなた」が既に亡くなったことすら連想させる内容になっていました。しかし、上記の引用部では、1番と比較すると具体性が増し、2人の関係性がより鮮明に浮かび上がってきます。

 1行目に「どこか」という言葉が出てきますが、上記の引用部に書かれている内容から想像すると、「あなた」は亡くなったわけではなく、会えない状態にあるようです。

 ただ、天国も含めて「どこか」と表現し、亡くなった相手に対しての強い喪失感をあらわした表現である、という可能性も残ります。

 その根拠となるのが、引用部の4行目と5行目。この2行は、「わたし」にとって「あなた」の存在があまりにも大きいため、どこかで自分と同じようにあることを願ってしまう、言い換えれば「あなた」は亡くなっているが、今もどこかで生きていると想像する、とも解釈できます。特に「願う」という言葉が使われている点が、この仮説を想起させました。

 2番のサビの後に挿入されるCメロでは、「あなた」が恋人であったことを思わせる言葉が並びます。以下に引用します。

自分が思うより
恋をしていたあなたに
あれから思うように
息ができない
あんなに側にいたのに
まるで嘘みたい
とても忘れられない
それだけが確か

 2行目に「恋をしていた」という言葉が出てくるため、2人が恋愛関係にあったのは決定的なように思われます。上記の引用部では、そのほかの部分も、2人の親密性を感じさせる言葉が続いています。

「あなた」とは誰か?

 では、結局「あなた」とは誰なのか。家族なのか恋人なのか。そして、生きているのか、亡くなっているのか。

 結論から言うと、歌詞の中には確定的な情報はありません。しかし、僕は「あなた」は恋人であったと考えています。理由はふたつ。

 まず一つ目は、「私」という漢字ではなく、一貫して「わたし」とひらがなで表記されている点です。「わたし」と「あなた」。両者をひらがな3文字に揃えることで、2人が対等な関係性であることを表している、というのが僕の考えです。

 もちろん、家族同士でも対等な関係性であることはあり得ますし、あくまで一つの仮説。しかし、親や兄弟が対象だと、年齢差や家族の中での立場の違いが自ずと生じますし、恋人同士の方が、より対等であると言えるのではないでしょうか。

 二つ目の理由は、歌詞のラストから2行目に出てくる「切り分けた果実の片方の様に」という表現。一つ目の理由とほぼ重なるのですが、この上記の表現もやはり2人の対等性を表しているのではないかと思います。

 果実を切り分けるということで、血肉を分けた家族とも考えられそうですが、仮に親を想定しているとして、真っ二つに対等な関係で分けられる、というのは少し違和感があります。どうしても両者には年齢差があり、親の後に子が生まれるという不可逆性もあります。

 以上、ふたつの理由で、個人的には2人は恋人同士であったと考えるのが、最も自然ではないかという結論に至りました。しかし、前述したように、これはあくまで僕の仮説。

 家族や友人であると想定してもいいですし、そのような解釈も十分可能かと思います。また、いささかトリッキーではありますが、例えば、1番の歌詞の「あなた」は祖父、2番の歌詞の「あなた」は元恋人というように、1番と2番でそれぞれ「あなた」が違う、という解釈も可能でしょう。

結論・まとめ

 「あなた」は誰か、という議論をしばらく続けてきましたが、ここで全体の結論に入ります。

 「Lemon」は「別れの悲しみをテーマにした曲である」というのが、僕の結論です。なんだか、サッパリしていて、肩透かしを食らったような気分でしょうか?

 何を言いたいのかご説明します。先ほど、この曲に出てくる「あなた」は、恋人なのか家族なのか確定できない、と書きました。

 作者が意図的なのかどうかは分かりませんが、それは人間関係のストーリーではなく、別れの悲しみにフォーカスするため、あえて具体的な情報を避けている、というのが僕の考えです。

 つまり、大好きだった祖父の思い出を詳しく記述したり、恋愛関係にある2人を描いたり、といった具体性を帯びると、少なからずリスナーはそのストーリーに共感してしまいます。そうした個別のストーリーではなく、大切な人との別れによってもたらされる悲しみ自体に、この曲はフォーカスしているということ。

 そのため、「あなた」とは誰か、亡くなっているのか生きているのか、といった情報は、あえて曖昧性を伴ったままにされています。

 僕がこの結論に至った最大の理由は、タイトルが「Lemon」であること。先述したとおり、レモンとは非常に酸味の強い果物であり、そのままかじったら記憶に残るほど、苦く酸っぱいもの。

 そんな「レモン」を曲名に据えることで、強い痛みや悲しみをテーマにした曲であることを、あらわしているのだと思います。

 「レモン」が持つ強い苦味が、大切な人を失った痛みと結びつき、現実感を伴って響くのがこの曲です。

 本来は聴覚で楽しむ音楽に、誰もが想像できるレモンの味覚を持ち込み、さらにそのレモンの苦味を感情の苦しみに結びつける。

 米津玄師さんの「Leomon」は、聴覚と味覚と感情をつなぐ、巧みな構造を持った楽曲だと言えるでしょう。

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