欅坂46「サイレントマジョリティー」歌詞の意味考察 アイドルとロックの交錯


目次
イントロダクション
曲のテーマ
アイドルらしさとは何か?
ロック的とは何か?
なぜ「僕」ではなく「僕ら」なのか?
交差点の描写
「僕ら」と「君」は誰か?
1番と2番の歌詞の差異
結論・まとめ

イントロダクション

 「サイレントマジョリティー」は、2016年4月6日にリリースされた、欅坂46のデビューシングル。作詞は秋元康。

 リリース当初から歌詞のメッセージ性が話題となり、良くも悪くも欅坂46のパブリック・イメージを決定づけた1曲と言っていいでしょう。

 すでに多くの考察や解釈がなされています。そして、その多くで指摘されるのが「アイドルらしくない」「ロック的だ」という点。

 では、そもそもアイドルらしさとは何か、ロックとは何か、という視点を意識しながら、この曲の歌詞を僕なりに読み解いてみたいと思います。

曲のテーマ

 前述のとおり、この曲を批評する際に、たびたび「アイドル的ではない」「ロック的だ」という主張がなされます。

 それでは、アイドル的ではなくロック的であると言うならば、どのようなことが歌われているのか、まずはこの曲のテーマを確認しましょう。

 タイトルになっている「サイレントマジョリティー」とは、英語で綴ると「silent majority」。「物言わぬ多数派」を意味する言葉です。

 アメリカ合衆国の第37代大統領、リチャード・ニクソンが、1969年に演説で使ったことで一般的になりました。

 「物言わぬ多数派」とは、多大な発言力を持った権力者ではなく、発言をしない、あるいはできない立場の大多数の人々のこと。

 この曲では、語り手がサイレントマジョリティーでいることを否定し、自分らしく生きようと訴えます。権力者や社会の空気に流されるのではなく、自分の思い通りに生きることを推奨する、端的に言えば反抗の歌です。

アイドルらしさとは何か?

 それでは、続いて「アイドルらしい」「アイドル的である」とは何を意味するのか、検討しましょう。

 前述のとおり「サイレントマジョリティー」は、反抗をテーマにした歌。そのような歌が「アイドル的でない」とするならば、そこから示唆されるのは、アイドルは従順でなければならない、という思想です。

 アイドルは従順でなければならない、反抗的であってはならない。このようなイメージが、なぜ広く共有されることになったのでしょうか。考えてみると、いくつかの理由が浮かび上がります。ここでは二つの理由を挙げておきましょう。

 まず一つ目は、多くのアイドルは自作自演ではないこと。全体を統括するプロデューサーがおり、曲を作る作家陣がおり、振り付けを考えるコレオグラファー、衣装を作るデザイナー、といった具合に、徹底した分業制が敷かれていることがほとんどです。

 その分業の中のパフォーマーとして、アイドルが存在しています。いわば、歯車の一枚であり、求められた仕事をこなす存在である、というイメージを自ずと包括しているということ。言うまでもなく、そこには反抗心は必要なく、システムに対して従順であることが求められます。

 そして二つ目の理由は、歌や演技のクオリティよりも、ルックスや疑似恋愛対象としての魅力が、求められていること。

 アイドル戦国時代と言われて久しい現代。多くのアイドル・グループが存在し、「ももクロの全力ライヴはロックだ」「エビ中の歌唱力はアイドルを超えている」「白石麻衣さんはルックスだけでなく演技も良い」というような言説を耳にする機会もたびたびあります。

 上記三つの例は、いずれも「アイドルとはこういうものだ」という共通のイメージがあり、その範疇を超えたときになされる発言です。

 「エビ中の歌唱力はアイドルを超えている」を例に取ると、その裏には「アイドルは歌手やバンドに比べて、歌唱力が劣るものだ」という思想が見え隠れしています。つまり、そもそもアイドルには、パフォーマーとしてのクオリティは期待されていないということ。

 では、何が求められているのかと言えば、先述したとおりルックスや恋愛対象としての魅力。アイドルがライヴと並んで、場合によってはライヴ以上に、握手会や2ショット撮影会を熱心におこなうのは、こうした期待に応えるためと言えます。

 以上の2点が、アイドルが従順であるべき、というイメージが流通することになった、主な理由だと考えています。

 「従順であるべき」というのは、いささか強すぎる表現なので言い換えると、アイドルは自己主張をするための手段ではない、ということ。

 「アイドルは笑顔を届ける存在」という言説は、上記の思想と表裏一体とも言えるでしょう。

ロック的とは何か?

 では続いて、ロック的とは何を意味するのか、検討していきましょう。

 ここまで検討してきた「アイドル的」と対立する概念だと仮定すれば、分かりやすいのではないかと思います。

 先ほどまでの議論で、確認できた事柄を振り返りましょう。アイドルが分業制の一部であり、主張の手段ではなく、歌や演技以上にキャラクターが重視される存在である。

 これらを逆にしていくと、「ロック的」という概念に、当たらずといえども遠からず、ではないでしょうか。すなわち、ロック・バンドは自作自演で自らのメッセージを発し、自己主張の手段であり、なによりも音楽のクオリティを重視する。

 ロック・バンドの音楽ではなく、ルックスを好きになるファンのことを「顔ファン」と、やや嘲笑的なニュアンスを含んで呼ぶことがあります。ここには、ロックの良し悪しはルックスや人間性ではなく、音楽のみで判断すべき、というアイドルとは真逆のイメージが隠れています。

 つまり、ルックスや性格が判断材料になるアイドルに対して、ロックでは音楽が価値判断の材料になるということ。

 そして、ロックは音楽に含まれるメッセージ性も、重要な判断材料となります。これは、1960年代から70年代にかけて、カウンターカルチャーとして影響力を持っていた、歴史的事実も関係しているのでしょう。

 まとめると、アイドルはパフォーマーとしての質よりもキャラクターで評価され、従順な存在であることを期待される。対して、ロック・バンドは音楽のみで評価され、(時に反抗的な)メッセージの発信を期待されている、ということです。

 しかし、もちろん例外もあり、ある程度は単純化した議論である点はご留意ください。

なぜ「僕」ではなく「僕ら」なのか?

 さて、ロックとアイドルそれぞれのイメージと差異が確認できたところで、実際の歌詞を見ていきましょう。

 まず、語りの視点を確認すると、一人称代名詞として「僕」ではなく、「僕ら」と複数形が用いられています。これは、どういった目的で、どのような効果を生んでいるでしょうか。

 結論から言うと、リスナーの共感を得るため。「僕」ではなく「僕ら」とすることで、聞き手を歌詞の世界に引きずりこみ、共犯関係を結んでいる、というのが僕の考えです。

 歌詞には「君」という二人称代名詞も用いられ、問いかけのように綴られる部分があります。この「君」は、特定の誰かを指しているというよりも、歌詞世界の中ではサイレントマジョリティーであり続ける不特定の人を指し、同時にこの曲を聴いているリスナーへの問いかけにもなっています。

 この曲には「僕ら」「君」「君たち」と、数種類の人称代名詞が出てきます。しかし、歌詞の内容は「僕」と「君」の関係を扱うものではなく、より抽象的にメッセージが発せられるもの。いわば、メッセージが前景化された歌詞と言えます。

交差点の描写

 では、人間関係のストーリーではなく、メッセージが前景化しているのだとして、具体的に何が歌われているのか、確認していきましょう。1番のAメロ1連目の歌詞を、以下に引用します。

人が溢れた交差点を
どこへ行く?(押し流され)
似たような服を着て
似たような表情で…

 渋谷のスクランブル交差点のような、多くの人が行き交う交差点を想定しているようです。上記の引用部では、社会のルールを無自覚に受け入れ、システムに組み込まれた人々が、交差点のイメージをとおして描写されています。

 スーツを着た人々は言うに及ばず、私服を着た人々でさえ、メディアが作り出す流行に沿った、似たような格好をしている様子を、描いているのでしょう。

 目に見える服装だけでなく、思想や行動様式の一致も、4行目の「似たような表情で」は表しています。具体的には、決められたルールをなんとなく守ることだけでなく、流行の飲食店に飛びつくような価値判断も、含まれているのではないかと思います。

 続いて、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

群れの中に紛れるように
歩いてる(疑わずに)
誰かと違うことに
何をためらうのだろう

 上記の引用部では、語り手の心情が語られています。そして、その内容は、直前の歌詞の説明になっています。

 つまり、1連目では交差点のイメージを提示し、2連目でそのイメージがどのような意味であったか説明する、応答の関係になっているということ。

 1連目では、多くの人が似たような服を着て、交差点を行き交う様子を描写。見たままの事実が綴られるだけで、語り手の価値判断は含まれていません。

 それに対して2連目では、交差点の人々への、語り手の疑問が綴られています。その内容は、引用部の3行目と4行目。なぜ人々は、誰かと違うことをためらうのか、というのが語り手の意見です。

 続くBメロでは、さらに内容が補足されます。

先行く人が振り返り
列を乱すなと
ルールを説くけど
その目は死んでいる

 Aメロ1連目では交差点の描写、2連目では語り手の心情が記述され、上記のBメロで再び交差点へ戻ってきました。

 1連目では、その場の様子を描写するだけでしたが、Bメロでは語り手が「先行く人」に話しかけられています。その内容は、引用部2行目のとおり。

 「ルールを説くけど その目は死んでいる」という表現は、無自覚に社会のルールに従う態度を、Aメロ以上に強調しています。

 まとめると、1番のAメロとBメロの歌詞は、交差点を歩く人々を、ルールに無自覚であることの象徴として、描写しています。

「僕ら」と「君」は誰か?

 サビに入ると、それまでの交差点の描写から一転し、語り手のメッセージが次々と発せられます。1番のサビを、以下に引用します。

君は君らしく生きて行く自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めから そうあきらめてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか?
サイレントマジョリティー

 引用部のラストに、曲名にも採用されている「サイレントマジョリティー」という言葉が出てきました。前述したとおり、サイレントマジョリティーとは物言わぬ多数派のこと。

 AメロとBメロでは、交差点をモチーフにルールに従順な人々が描かれていましたが、彼らをサイレントマジョリティーの例として描いていることは明らかです。

 ここまでの歌詞の構造をまとめると、まずサイレントマジョリティーの具体例を提示し、サビでは彼らになるべきではない、という語り手の主張がなされます。つまり、AメロとBメロで問題点を提起し、サビで回答する、という構造。

 では、語り手はどのような答えを出しているのか。その内容が、上記の引用部にあたります。

 2行目に出てくる「大人たち」は、Bメロに出てきた「ルール」を象徴する言葉でしょう。ルールに疑問を持たず、従う存在のことを「大人」と呼んでいるのだと考えられます。

 上記のサビの歌詞をまとめると、ルールに従い、声を発しないサイレントマジョリティーになるな!ということ。反抗の歌の色が、鮮明になってきました。

 それでは、この曲がサイレントマジョリティーからの脱却を推奨する歌だとして、「僕ら」と「君」はそれぞれ誰を表しているのでしょうか。

 先ほど、特定の誰かを指しているわけではない、と指摘しました。ここで話題にしているのは、特定の個人ではないとして、どのような存在を表しているのか、ということです。

 まず「僕ら」について。語り手も含む「僕ら」という表現は、人間一般を指しているように思われます。その根拠は、引用部4行目の「僕らは何のために生まれたのか?」という一節。

 語り手は、自分の意思を持たないサイレントマジョリティーを疑問視しています。上記の引用部は、その理由が記述された一節です。

 ルールに従って生きていたら、生まれてきた意味などない。言い換えれば、サイレントマジョリティーになることは非人間的であり、人は自分の意思に沿って道を決定し、生きるべきである。そのような語り手の思想が詰まっています。

 このように前後の文脈を考えると、ここで使われている「僕ら」とは、人間一般を指しているように思われるのです。試しに、引用部の「僕ら」に「人」を代入してみましょう。

 「人は何のために生まれたのか?」。こう言い換えても、矛盾なく意味が通じます。

 では、次に「君」について。結論から言うと、現在サイレントマジョリティー状態にある人、もしくはなりつつある人を想定しています。

 なぜなら、この曲では一貫して「君」を、鼓舞する言葉が並んでいます。「君らしく生きて行く自由があるんだ」「君らしくやりたいことをやるだけさ」「未来は君たちのためにある」などなど。

 もし「君」が、すでにサイレントマジョリティー状態を脱し、自ら声を上げられる存在であったなら、このように煽動的な言葉を並べる必要はありません。

 また、サビ最後の「サイレントマジョリティー」という歌詞を、サイレントマジョリティー状態にある「君」への呼びかけと解釈することも可能。

 まとめると、「僕ら」は人間一般を指し、「君」はサイレントマジョリティー状態にある人を指す、ということが確認できました。

1番と2番の歌詞の差異

 それでは2番の歌詞では、どのような展開を見せるのか、確認していきましょう。

 ここまでの議論で、歌詞が訴えるメッセージの趣旨は、ほとんど明らかになっていますので、1番と2番の歌詞の違いに注目しながら、読み解いていきます。2番のAメロの歌詞を、下記に引用します。

どこかの国の大統領が
言っていた(曲解して)
声を上げない者たちは
賛成していると…

 リチャード・ニクソンを連想させる「どこかの国の大統領」という言葉が使われ、サイレントマジョリティーの問題点が、再び強調されています。

 続いて、2番のBメロの歌詞を引用します。

選べることが大事なんだ
人に任せるな
行動しなければ
Noと伝わらない

 1番の歌詞では交差点のイメージが用いられ、まわりに流されていく人々が、サイレントマジョリティーの象徴として描かれていました。

 2番に入ると、今度は選択をしないこと、自らの主張をしないことが、問題点として指摘されています。1番では、ルールに無条件に従うことの問題点、そして2番では、自ら選択することの重要性が指摘されている、とも言えるでしょう。

 サビに入っても、1番と2番では、あきらかな差異があります。2番のサビの歌詞を、以下に引用します。

君は君らしくやりたいことをやるだけさ
One of themに成り下がるな
ここにいる人の数だけ道はある
自分の夢の方に歩けばいい
見栄やプライドの鎖に繋がれたような
つまらない大人は置いて行け
さあ未来は君たちのためにある
No!と言いなよ!
サイレントマジョリティー

 1番のサビと、上記2番のサビを比較してみると、両者の違いが鮮明にわかります。

 例えば、1番の1行目では「君らしく生きて行く自由があるんだ」となっていたのが、2番では「君らしくやりたいことをやるだけさ」という言葉に置き換わっています。

 1番と2番で、決められた道を歩く「君」に対して、扇動的な言葉をかけるという点では共通しています。では、両者の差異は何か。端的にあらわすなら、1番は他の道があることを教える内容、2番は行動を促す内容、ということになるでしょう。

 最も象徴的な言葉として、それぞれ8行目に出てくる「Yesでいいのか?」と「No!と言いなよ!」が挙げれらます。

 1番は、サイレントマジョリティーであり続けていいのか、と問いかける内容。2番は、サイレントマジョリティーからさっさと脱却しよう!、とけしかける内容とも言えます。

結論・まとめ

 ここまでの議論をまとめましょう。「サイレントマジョリティー」は、アイドルの楽曲でありながら、非アイドル的かつロック的なメッセージを有しています。その内容は、サイレントマジョリティー的に生きるのではなく、自分らしく生きることを推奨するもの。

 それでは最後に、この曲の魅力は何か、なぜセンセーショナルに受け入れられたのか。検討してみたいと思います。

 アイドルが、アイドルらしかぬテーマの曲を歌っているから、意外性があって面白い。というのも、もちろんそうなのですが、僕はアイドルとロックの要素が、混在しているから受け入れられ、成立した楽曲であると考えています。

 反抗的な歌詞は、実にロック的。しかし、ただ単にロック的な楽曲を、アイドルが歌っただけかと言うと、そうではありません。「サイレントマジョリティー」には、アイドル楽曲的な要素が含まれています。

 現代のアイドル楽曲のひとつの雛形として、応援ソングがあります。読んで字の如く、アイドルが聞き手を応援する歌詞を持った楽曲のこと。アイドルとヲタクの関係性を喚起させるという点で、握手会とも共通する、リアリティを伴ったスタイルの曲とも言えます。

 この曲では抽象的な「君」という代名詞が用いられ、リスナーへの呼びかけとも取れる構造を持っています。いわば、応援ソングとしての機能も獲得しているとは言えないでしょうか。

 また、先述のとおり一人称代名詞として、複数形の「僕ら」が使われています。これはリスナーを歌詞の世界観に引き込み、感情移入しやすい効果を生むのと同時に、語り手であるアイドルと、リスナーであるヲタクを繋ぐ役割を果たしています。

 まとめると、「サイレントマジョリティー」はロック的なメッセージと、アイドル的な応援ソングとしての機能が融合した、ハイブリッドな楽曲である。というのが僕の結論です。

 僕は欅坂の専任ヲタでも、熱心なファンというわけでもないのですが、話題になっていることから、この曲を聴いてみたところ、なるほど話題になるのにはそれなりの理由があるなと思い、このような考察を書いてみました。

 この曲をより深く楽しむきっかけをご提供できたら、幸いです。

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