「悲しみの果て」は、1996年4月19日に発売されたエレファントカシマシ10枚目のシングル。
同年11月1日には、カップリング曲を替えて12枚目のシングルとして再リリースされています。8thアルバム『ココロに花を』にも収録。作詞作曲は宮本浩次。
エレファントカシマシの代表曲と言っていい「悲しみの果て」。エレファントカシマシの歌詞は文学的だと言われることがありますが、「悲しみの果て」の歌詞も文学的で優れたものだと思います。
しかし「文学的」の一言で片づけてしまっては、この楽曲の魅力を適切に言語化しているとは言えません。そこで、この論では「悲しみの果て」の歌詞のどこが優れているのかを、考察していきます。
また、歌詞を持つポップ・ミュージックにおいては、歌詞と音楽を完全に分離して考えるのも不自然なので、歌詞を際立たせる楽曲の構造についても述べたいと思います。
そして、最終的にはこの曲の分析を通して、エレファントカシマシというバンドの魅力を少しでもお伝えすることを目指します。
楽曲の構造
再生ボタンを押すと、まず聴こえてくるのは、ギター、ベース、ドラム、すべての縦がそろったバンド・サウンド。シンプルながらスタッカートのかかった歯切れ良いサウンドとリズムが、印象的なイントロです。
そして、バンドの音にレスポンスするように入ってくる宮本さんの声。歌い出しはタイトルにもなっている「悲しみの果て」というフレーズで、この曲はサビから始まります。
サビから始まる、というよりも、ほとんどサビしかない独特の楽曲構造をしていることが、曲が進むにつれて明らかになります。
サビとAメロを、それぞれコーラスとヴァースという言葉に置き換えると、この曲の構造は、コーラス→コーラス→ヴァース→コーラス→コーラス半分。曲の中間「部屋を飾ろう…」からの部分がヴァースで、ここだけメロディーが異なり、他は冒頭のメロディーと共通しています。
このように説明すると、曲としては単調であるという印象を与えるかもしれません。しかし、シンプルな構造がリスナーにもたらすのは単調だという印象ではなく、言葉とメロディーの強さ。言い換えれば、シンプルな楽曲構造で、何度も同じメロディーを繰り返すことにより、メロディーとそれに乗る歌詞が前景化され、リスナーに言葉がダイレクトに届く効果を生んでいるのではないかと思います。
悲しみの果てに何があるか?という問い
それでは、歌詞の内容を見ていきましょう。再生ボタンを押すと、縦のそろった印象的なバンド・サウンドを、唯一無比の宮本さんの声が追いかけるように曲が始まります。歌い出しはタイトルにもなっている「悲しみの果て」というフレーズ。以下、冒頭部分の歌詞の引用です。
悲しみの果てに
何があるかなんて
俺は知らない
見たこともない
ただ あなたの顔が
浮かんで消えるだろう
いきなり「悲しみの果てに 何があるかなんて 俺は知らない」と言い切る語り手。しかし、悲しみに打ちひしがれているかというと、そんな印象は全くありません。むしろ、この曲が伝えてくるのは、悲しみのなかでも希望を失わない強さです。
では、なぜそのような印象を受けるのか。悲しみの果てには喜びや希望がある、という歌詞が続きそうなものですが、この曲は違います。上記の歌詞に続くのは「見たこともない」という言葉。
文字通りに受け取ると、悲しみの果てなど「知らない」「見たこともない」という意味ですが、悲しみの果てに達するほど悲しくなったことはない、悲しみに負けたことなどない、という意味にも取れます。無責任に「悲しみの果てには希望があるよ」と歌わないところが、エレカシの誠実なところです。
さらにその後に続くのは「ただ あなたの顔が 浮かんで消えるだろう」という言葉。「あなた」が誰であるかは明言されていませんが、悲しいときに支えになるのは大切な人の存在、というような意味でしょう。悲しみの果てに何があるのかはわからないが、どんな時でも人とのつながりを大切にする。人への愛情と信頼に溢れた表現であると思います。
次のコーラス部分の歌詞を引用します。
涙のあとには
笑いがあるはずさ
誰かが言ってた
本当なんだろう
いつもの俺を
笑っちまうんだろう
ここでも、1回目のコーラス部と同じような表現が繰り返されています。すなわち、語り手は「涙のあとには 笑いがあるはずさ」と言うものの「誰かが言ってた 本当なんだろう」という言葉を続け、涙のあとには笑いがある、と断定しません。
さらに、その後に続くのは「いつもの俺を 笑っちまうんだろう」という言葉。ここは語り手の「俺」を、1回目のコーラス部に出てきた「あなた」が笑うという意味で、やはり他者が心の支えになるということを歌っているのではないかと思います。
では最後に、この曲で唯一のヴァース部分の歌詞を引用します。
部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に
この引用部の「部屋を飾ろう」「花を飾ってくれよ」というところ。ここに「悲しみの果て」という曲の魅力が、端的にあらわれていると思います。
悲しいときや辛いときには、芸術などを楽しむ感受性をなくしてしまいがちですが、引用部ではおそらく「あなた」に対して「花を飾ってくれよ」と語りかけています。どんなに悲しみに打ちひしがれても、人を思う心と、美しいものを感じる感受性は失わない。そんな強い気持ちが、この曲には詰まっています。
この歌が勇気を与えるのは「希望」や「喜び」という言葉を使っていないのに、悲しみのなかにある希望を、確かに歌っているからです。説明的にならずに、こういう感情を表現できるところが、エレカシが「文学的」だと言われる所以でしょう。
最後に余談をひとつ。僕はチャットモンチーというバンドが大好きなのですが、2009年9月19日におこなわれたエレカシ主催の「太陽と月の下の往来」という対バンイベントで、チャットモンチーが「悲しみの果て」をカバーしたこともあります。