スピッツ「楓」歌詞の意味考察 新しい世界で再会する2人


目次
イントロダクション
「君」は過去の人?
強調される過去
「タマシイ」はなにを意味するか?
2人は新しい世界へと旅立つ?
結論・まとめ

イントロダクション

 「楓」は、日本のロックバンド、スピッツの楽曲。作詞作曲は草野正宗。1998年7月7日に、両A面シングル『楓/スピカ』としてリリース。

 1998年3月25日リリースの8thアルバム『フェイクファー』、2006年リリースのシングル集『CYCLE HIT 1997-2005 Spitz Complete Single Collection』などにも収録されています。

 スピッツを語るときに、毎回のように書いてしまうのですが、彼らの魅力はその二面性にあると思うんですよね。日常性と普遍性。大衆性と実験性。そうした、一般的には相反すると思われる要素を、歌詞においても、音楽においても共存しているのが、彼らの魅力です。

 「楓」という曲も、一聴すると「僕」が「君」のことを語る、微笑ましいラブソングのように響きます。でも、聴き込んでいくうちに、言葉の意味が広がっていき、次々と自分の中で解釈とイメージが生まれるんです。

 本論では、「楓」の歌詞の意味を読み解きながら、少しでもこの楽曲の魅力をお伝えすることを目指します。

「君」は過去の人?

 この曲に出てくるのは、語り手である「僕」と「君」の2人。前述したとおり、「僕」が「君」について語る内容が、歌詞になっています。

 では、「僕」と「君」はどのような関係にあり、何が語られているのか。2人の関係性はひとまず置いておき、歌詞をざっと確認してみると、過去のことを語っていることが分かります。

 2人がどのような関係性であったにせよ、今は会うことができない状態であるようです。1番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

忘れはしないよ 時が流れても
いたずらなやりとりや
心のトゲさえも 君が笑えばもう
小さく丸くなっていたこと

 歌詞は「忘れはしないよ」という一節から始まります。わざわざ「忘れはしない」と誓っているのは、裏を返せば「君」を忘れてしまう可能性があるということ。

 つまり、冒頭からいきなり「君」はもう会えない存在だと示唆されます。2行目以降に記述されるのは、何を忘れないのか、という内容。

 3行目と4行目では、「君」の笑顔のおかげで「僕」の心が和んだ、という趣旨のことが歌われます。このように親密な関係性の2人。恋人同士だった、と仮定していいでしょう。

 Aメロでは、2人が恋人同士と思われる親密な関係にあったが、今は会うことができない、との情報が提示されています。

 その後に続くBメロの歌詞を、以下に引用します。

かわるがわるのぞいた穴から
何を見てたかなぁ?
一人きりじゃ叶えられない
夢もあったけれど

 1行目の「のぞいた穴」が、具体的になにを指すのか明らかにされていませんが、望遠鏡やドアスコープなど、穴を覗きこむのは目的があってのこと。

 望遠鏡だったら遠くの目標物、ドアスコープだったら扉の向こうがわの様子、というように目的がハッキリしています。しかし、どこにフォーカスするかは人それぞれ。

 上記の引用部では、4行目に「夢」という未来を連想させる言葉が出てきます。そのため、穴をのぞくことが、未来になにを望むか、なにを重要視するか、といった2人の価値観を象徴しているのでしょう。

 先述したとおり、ここまでの歌詞では、一貫して過去の記述がなされています。そのうえで気になるのは、「君」と「僕」の関係が、現在はどういう状態なのかという点。

 Aメロの「忘れはしないよ」という歌詞から、会えない状態であることは分かります。さらに、永遠に会うことが叶わないことすら、サビの歌詞では示唆されます。

 1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

 「さよなら」という言葉で始まることからも分かるとおり、引用部では「君」にもう会えないことが、明らかにされています。

 1行目の「君の声を 抱いて歩いていく」とは、これからは君との思い出を支えに生きていく、程度の意味でしょう。

 2行目の「僕のままで どこまで届くだろう」という一節が、個人的にもっとも気になる部分です。なぜなら、この一節は「君」の不在をより際立たせる、もっと具体的に言ってしまうと「君」が亡くなっていることすら匂わせるため。

 「僕のままで」とは、どういう意味でしょうか。「今の僕であるまま」と解釈して、「僕が生きている間」という意味であると考えます。つまり、2行目全体では「僕が生きている間にどこまで行けるだろう」あるいは「僕はあとどれぐらい生きられるだろう」という意味になります。

 1行目の内容と合わせると、「君」は永遠に会えない存在、すなわちすでに亡くなっていることが示唆されるのです。もちろん、歌詞の中にはそこまでハッキリと書かれていませんし、あくまでひとつの解釈。

 恋人同士だった「僕」と「君」が別れ、「僕」が今の価値観のまま、どこまで行けるだろう、と歌っているとも取れます。しかし、恋人同士の別れを歌っているにしても、深い別れの悲しみが伝わる表現です。

 「届く」というシンプルかつ、人を主語にすることの少ない動詞を用いることで、このような意味の多層性がもたらされているのではないでしょうか。

強調される過去

 歌詞は2番に入っても、引き続き「君」の不在を強調していきます。2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

探していたのさ 君と会う日まで
今じゃ懐かしい言葉
ガラスの向こうには 水玉の雲が
散らかっていた あの日まで

 引用部1行目で、「僕」が「君」と会うまで探していたもの。それが2行目の「懐かしい言葉」です。

 言い換えると、「僕」は「君」と出会うまで探していた言葉がある。そして、その言葉を「君」と出会うことで見つけた。しかし、その言葉も「君」がいなくなった今となっては懐かしい、ということ。

 「懐かしい言葉」が具体的になにを指すのか明らかにされませんが、「僕」が持つ考え方を「言葉」というワードに込め、「君」と出会うことで生じた価値観の変化を、あらわしたのでしょう。

 なぜなら、人が発する言葉には、その人の価値観が色濃く反映されるからです。「言葉」とは具体的なワードを指すのではなく、「君」との会話すべて、そしてそれによって起こった価値観の変化を、代表しているということです。

 3行目以降の歌詞は、どういう意味でしょうか。引用部の最後に「あの日まで」とあることから、こちらも過去を振り返っている内容だと推測できます。

 1行目の「君と会う日まで」と、4行目の「あの日まで」は、おそらく同じこと。いずれも「君」と一緒に過ごした日々を、思い返しているのでしょう。

 では、それを踏まえたうえで「ガラスの向こうには 水玉の雲が 散らかっていた」とはどういうことか、考えてみましょう。

 身近にあるガラスといえば、窓ガラスが連想されます。深読みせず、もっともベーシックに解釈するならば、家か車の窓ガラス越しに外を見ている、ということでしょう。

 「水玉の雲」という表現も、具体的な意味はハッキリしません。しかし、雲が水玉のようにキレイに見えるということは、当時の思い出が美しいこと、また過去としてパッケージされていることを、意味するのではないかと想像します。

「タマシイ」はなにを意味するか?

 2番のBメロには、以下の歌詞が続きます。

風が吹いて飛ばされそうな
軽いタマシイで
他人と同じような幸せを
信じていたのに

 上記の引用部で引っかかるのは、2行目の「タマシイ」。この単語がなにを意味するのか。なぜ、カタカナで表記したのか。

 魂と言うと、命を意味しそうなものですが、前後の文脈を考えると、上記引用部では「価値観」や「考え方」ぐらいの意味で、使われているのではないか推測します。

 「風が吹いて飛ばされそうな」のは、それだけ価値観が不安定であるということ。3行目の「他人と同じような幸せ」というのは、世間一般に認められた常識的な幸せという意味です。

 つまり、引用部をまとめると、「僕」は風が吹けば変わるぐらい軽い感覚で、常識的な幸せを信じていたということ。最後が「信じていたのに」となってるのは、しかしそれは自分が求める幸せではなかった、ということです。

 このように、幸せに対する不安定な価値観をあらわすため、「タマシイ」とカタカナで綴ったのではないでしょうか。同時に、命の儚さを強調するため、とも考えられます。

 そしてサビでは、なぜそのように感じるようになったのか、その理由とも思える歌詞が続きます。2番のサビの歌詞を、以下に引用します。

これから 傷ついたり 誰か 傷つけても
ああ 僕のままで どこまで届くだろう

 1行目の内容から、「僕」が人間関係において傷つき、同時に誰かを傷つけながら、多くのことを学んだのではないか、と推測できます。

 その誰かとは、言うまでもなく「君」。つまり「僕」は「君」と出会い、傷つき傷つけるなかで、多くのことを学び、価値観を変えていったということです。

 引用部2行目は、1番のサビと共通。1番と同じく、意味の広がりをともなって響く一節です。

 すなわち、「僕」が今のままでどこまで変わらずに行けるか、あるいは「僕」はあとどれだけ生きられるだろうか、というように複数の解釈を許容します。

2人は新しい世界へと旅立つ?

 ここまでの歌詞を考察しながら、この曲は「君」の不在、とくに亡くなっていることを示唆すると主張してきました。

 2番のサビ後に挿入されるCメロでは、上記の主張を補強するともとれる、イマジナティヴな言葉が綴られます。以下に引用します。

瞬きするほど長い季節が来て
呼び合う名前がこだまし始める
聞こえる?

 1行目の「瞬きするほど長い季節」という一節から、早速イマジネーションをかきたてる表現です。

 なぜなら「瞬き」は一瞬であるはずなのに、それを「長い季節」だと言っているから。文字どおりに解釈すると、矛盾しています。

 ここも、実にいくつもの解釈が可能。人生は一瞬で過ぎ去ってしまう、という意味にもとれますし、死後の世界を「時間の概念がなくなった季節」とあらわしているようにも思えます。

 また、その後に続く「呼び合う名前がこだまし始める」という言葉も示唆的。「僕」と「君」が名前を呼び合っている、つまり本論の主張に合わせるのならば、2人が死後の世界で再会したことを意味するのではないかと思います。

 繰り返しになりますが、これはあくまで僕がたてた仮説のひとつ。しかし、いくつもの解釈を可能にする、イマジナティヴな歌詞であることは確かでしょう。

結論・まとめ

 考察してきた内容と、僕の主張をまとめましょう。

 この曲は「僕」が過去を振り返るかたちで、「君」のことを語っています。他者とのコミュニケーションの難しさと愛おしさ、別れによる深い悲しみが記述され、とくに「君」との永遠の別れを感じさせる内容。

 シンプルな言葉を使うことによって、いくつもの解釈が可能になり、リスナーそれぞれの想像力をかきたてる歌詞になっています。

 タイトルの「楓」(カエデ)とは、モミジとも呼ばれます。モミジはご存知のとおり、秋になると紅葉し、冬になると葉を落とし、春になると新しい葉をつける落葉樹。

 1年のなかで季節によって姿を変えるカエデは、輪廻転生をあらわしているのではないか、とも思います。

 最初に買いたとおり、僕が思うスピッツの魅力のひとつは、二面性を持っているところ。

 「楓」も日常的な言葉を使いながら、さらっと人間の深いところまで達し、日常性と普遍性を併せ持っています。

 まさにスピッツらしさを多分に含んだ楽曲です。

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