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ねごと「アシンメトリ」歌詞の意味考察 二元論ではないアシンメトリーな感情


目次
イントロダクション
語りの構造
語り手の感情
語り手と「きみ」の関係
結論・まとめ

イントロダクション

 「アシンメトリ」は、千葉県出身のロックバンド、ねごとの楽曲。2016年11月9日リリースのEP『アシンメトリ e.p.』と、2017年2月1日リリースの4thアルバム『ETERNALBEAT』に収録されています。

 作詞は蒼山幸子。作曲は沙田瑞紀と蒼山幸子。

 曲名の「アシンメトリ」とは、英語の「asymmetry」。左右非対称という意味の言葉です。曲名のとおり、歌詞が描くのはアシンメトリーな心情。

 例えば「好き」と「嫌い」であったり、「頭」と「気持ち」であったり、この曲では対になる二つの言葉を登場させ、バランスを崩し、ぐらついている感情を描き出していきます。

 言い換えれば、ただ「好き」か「嫌い」かの一直線の感情を描くのではなく、二元論では割り切れない、繊細な感情を描いているということです。

 では、この曲の語り手は、どのようにアシンメトリーな状態であるのか。歌詞の意味を考察してみたいと思います。

語りの構造

 まず、語り手が誰か、どのような視点が用いられているのか、歌詞の構造を確認しましょう。

 「私」や「僕」といった、一人称の代名詞は出てこないものの、語り手が自らの感情を言葉にしている、と想定されます。強いて言えば、英語の一人称代名詞である「I」(アイ)が出てきます。

 語り手以外の登場人物としては「きみ」という言葉も出てきます。この曲に出てくるのは、語り手と「きみ」の2人だけ、ということで良さそうです。

 では、具体的にどのような場面設定がなされているでしょうか。歌詞をざっと見渡しても、具体的な場所や時間を示すワードは見当たりません。

 また、前述の「きみ」についても、語り手とどのような関係にある人物なのか、具体的な情報は提示されず、むしろ特定の誰かを指してはいないようにすら感じられます。

 この曲は具体的な風景ではなく、語り手の心情にフォーカスした曲である、と仮定して順番に歌詞を読み解いていきましょう。

語り手の感情

 先にも書いたとおり、この曲は語り手のアシンメトリーな感情を描いたものである、というのが僕の仮説です。それでは、アシンメトリーな感情がどのような表現で表されていくのか、いくつか歌詞を引用しながら、考察していきます。

 まず、1番のAメロ1連目。単純に言えば、歌い出し3行の歌詞を引用します。

ちょっとだけね ぐらついてるみたい
平衡感覚わからなくなるの
一体何が欲しくてここまできたんだろう

 導入部となる1行目から、早速ぐらついています。そして、2行目には「平衡感覚」という、アシンメトリーに繋がる言葉が使われています。

 上記の引用部では、語り手は自分自身の感情が、ぐらついていることを表明しています。3行目にあるとおり、具体的には自分が何を欲してきたのか、目標や目的にブレが生じているようです。

 続いて、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

半分の好き 半分の嫌い
平行線の終わらないパズル
いっそこのまま溶けてしまいたいの
もう何も隠せない

 上記の引用部では、「好き」と「嫌い」の相反する感情が、「平行線の終わらないパズル」に例えられています。一見すると、好きと嫌いが半分ずつで、バランスが取れている。すなわちアシンメトリーではなく、シンメトリーなようにも思えます。

 しかし、「終わらないパズル」とあるので、好きと嫌いのどちらかに振り切れることはなく、同時に完全にバランスが保たれた状態で安定することもない、どっちつかずの揺れる感情を表しているのでしょう。

 その後に続く、「溶けてしまいたい」という言葉は、バランスが保てないことを強調し、「何も隠せない」という言葉は、自分の感情をごまかして、好きか嫌いかどちらかに決めることはできない、と解釈できます。

 この後に続く、1番のAメロの歌詞を引用します。

半分だってI そうはいかない?
どんどん遠くなる心
アシンメトリー アシンメトリー
そっと繋ぎとめて

 上記1行目の「半分だってI」は、前の歌詞を受けているのでしょう。つまり、「好き」と「嫌い」のどちらかの感情を、切り捨てることはできないということ。

 2行目の「遠くなる心」は、バランスを崩し、自分自身でもコントロールできなくなっていく心を、表しているのだと思います。

 この曲では、具体的な人物描写や情景描写はなされないのですが、仮に恋愛感情を歌っているのだとすれば、「嫌い」が「好き」を上回りバランスを崩す心を、なんとか「好き」で、繋ぎとめたいということなのではないでしょうか。

語り手と「きみ」の関係

 ここまで、語り手の感情が綴られてきました。しかし、それがどういう場面で抱かれた感情であるのか、具体的には語られていません。

 1回目のサビの後に続く歌詞では、遂に他者の面影が登場します。サビの後に続く、Bメロの前半3行の歌詞を引用します。

考えてる頭より
感じている気持ちがいい
堂々巡りの僕らのストーリー

 上記3行目に「僕ら」という表現が出てきました。この言葉から、この曲で扱われている感情は、語り手と他者との関係性に起因するものだと示唆されます。

 「好き」だとか「嫌い」だとか言っていたのは、語り手の「きみ」に対する感情だということです。語り手が「きみ」に抱く感情を、恋愛感情だと想定することも可能ですし、その方が議論の見通しも良くなるでしょう。

 しかし本論では、あくまで具体的な関係性よりも、語り手の感情にフォーカスした歌詞である、という前提に基づいて読み解いていくので、2人の関係性については深入りしないことにします。

 さて、話を戻すと、上記引用部の1行目から2行目では、「考えるな、感じろ」に近い思考が表明されています。その後に「堂々巡りの僕らのストーリー」と続くことを考えると、頭で好きか嫌いか考えるよりも、感情の赴くままにいた方がいいということでしょう。

 1回目のサビの後に続く、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

半分だっていい そうはいかない?
どんな矛盾もきみだ
アシンメトリー アシンメトリー
もっと好きにさせて

 上記の引用部にも「半分」という言葉が出てきました。この半分は、語り手の感情のことを指しているのと同時に、「きみ」についても語っているようです。

 語り手が「きみ」に対して抱く感情には、「好き」と「嫌い」の両方が混じり合っている。つまり、「きみ」には好きな部分と嫌いな部分がある。その両方の要素を受け入れたいという思いが、「どんな矛盾もきみだ」「もっと好きにさせて」という言葉に、表されているのではないでしょうか。

 最後に、間奏の後に歌われる、Cメロの歌詞を引用します。

代わりは 代わりはいないんだ
ここでどうして忘れるの
一番大事にしてたはずのもの その訳を

 ここで歌われる「代わり」も、「きみ」という存在であると同時に、「きみ」を思う語り手の感情のことを、指しているのだと思います。すなわち、「きみ」を思う感情の代わりとなるものも、「きみ」自体の代わりとなるものも無いということです。

結論・まとめ

 以上、この曲の歌詞は、二元論では割り切れないアシンメトリーな感情について歌っている、という仮説に基づいて歌詞の意味を、考察してきました。

 歌詞の中では、語り手の「きみ」の関係性において、語り手の中に沸き起こるアシンメトリーな感情が描写されています。具体的には、誰に感情を寄せるとき、「好き」か「嫌い」かどちらかに割り切れるものではなく、常にアシンメトリーな状態であるということ。

 そして、無理に好きか嫌いか、割り切れない思いを割り切ろうと悩むのではなく、好きも嫌いも混じり合う感情は当然のことなので、それを受け入れていこう。好きも嫌いも共存するのが、感情として自然だと歌っているように思います。

 歌詞の終盤に、以下の表現があります。

どこかじゃ どこかじゃないんだ
きっと胸の中にある
最後のピースを合わせて

 上記の引用部は、嫌いな部分を見つめるのではなく、好きな部分、好きになったきっかけの部分を見つるべきだと、指摘しているのではないでしょうか。

 感情は常にアシンメトリーであり、相反する要素が共存するもの。そのような繊細な感情を、「アシンメトリ」という曲は歌っている、そしてそのような感情をポジティヴに捉えている、というのが僕の結論です。

 相手のことが好き好き!と訴える曲が多いなかで、好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、という繊細な感情自体にフォーカスするこの曲は、特異な形式のラブソングとも言えるでしょう。

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ねごと「ふわりのこと」 ふわりの意味と歌詞考察


 「ふわりのこと」は、ねごとの楽曲。作詞は蒼山幸子。作曲は沙田瑞紀と蒼山幸子。

 2011年発売の1stフルアルバム『ex Negoto』に収録されています。

 音楽、特に歌詞を持つポップ・ミュージックの魅力のひとつは、「悲しい」とか「嬉しい」といった言葉におさまりきらない感情を表現できるところだと思っています。

 言葉がメロディーに乗ってサウンドの一部となることで、嬉しいとも悲しいとも言えないぐらい些細な心の動き、嬉しさの中にある悲しみや不安など、言葉だけでは表現できない微妙な感情を描き出せる。しかも、たった数分間の1曲で。僕は音楽のそういうところが好きです。そして、この「ふわりのこと」という曲にも、僕が求める音楽の魅力がギュッと詰まっています。

 ここでは「ふわりのこと」の歌詞解釈を中心に、この曲の魅力をお伝えしたいと思います。

歌詞の世界観

 「ふわりのこと」というタイトルからして不思議。歌詞も一聴すると、つかみどころが無いようですが、風景や感情が自然と浮かび上がってくるような内容。「イマジネーションの洪水」ではなく、「イマジネーションのそよ風」といった趣で、歌詞も含めた音楽が心にやさしく沁みこんでくるようです。

 登場人物は「ぼく」と「きみ」の2人。「ぼく」の視点から、「きみ」のことを語っていく構造です。まず、1連目の歌詞を引用します。

駅まで続く小さい道
ここにいるのはぼくと風だけ
世界の約束
揺れるよ音
ふわりきみまで届いてね

 2行目に「ここにいるのはぼくと風だけ」とあります。この表現から「ぼく」が1人だけで、駅まで続く道を歩いていること。そして、風が感じられるほど静かなのか、それとも「ぼく」が風を感じるほどに感受性を研ぎ澄ました気分でいるのか、あるいはその両方か、といったことが読み取れます。

 また、1行目の「小さい道」という表現。ここも「狭い道」や「細い道」ではなく、あえて「小さい道」としたことで、意味やイメージに広がりが生まれています。単純に幅の狭い道という意味だけではなく、自分にとって身近であるために存在感を小さく感じる、そんな雰囲気まで感じとれます。

 「ふわりのこと」の歌詞は、このように断片的なイメージや感情が喚起される描写が続き、心の中にゆっくり浸透していくような、不思議な魅力を持っています。

「ふわり」の意味

 次に、タイトルの一部にもなっている「ふわり」について。この言葉は、いったい何を意味するのでしょうか。「ふわり」という言葉は、2回出てきます。1回目は先ほど引用した「ふわりきみまで届いてね」の部分、そして2回目は歌詞の最後の行の「ふわり明日まで響くよ 音」というところです。

 この2ヶ所の引用部分から「ふわり」は、名詞か副詞であることが推測されます。まず「ふわりきみまで届いてね」という部分の「ふわり」は、「きみ」への呼びかけであり、「きみ」を指す固有名詞であるともとれます。そう解釈するなら、「ふわり」と「きみ」はイコールということです。しかし、副詞であるという解釈も可能です。この場合は、音が届く様子を「ふわり」と表現しています。

 さて、歌詞の中の「ふわり」は、どちらの意味で使われているのか。僕は、名詞と副詞どちらとも取れるように、意図的にこうした表現にしたのだと思います。手元にある広辞苑をひいてみると、「ふわり」という言葉には、副詞としては「軽くただようさま。軽くそっと載せるさま。」という意味があります。まさに、この曲の雰囲気をあらわしたかのような意味です。

 「ふわり」は「きみ」の名前であり、「きみ」がどんな人なのかをあらわす言葉でもあり、歌詞の中では副詞としても機能している。そうした多層的な使われ方をしている、というのが僕の考えです。そう解釈すると「ふわりのこと」というタイトルの意味も、すっと腑に落ちます。

「ぼく」は何を語っているか

 続いて、語り手の「ぼく」が語っている内容について。前述したように、この曲の歌詞では「ぼく」が「きみ」について語っていきます。サビ前から1番のサビまでの歌詞を引用します。

最近のきみといえば 生き物や花を育て始めた
他にすることないのと聞けば 大切なことなんだよって言った

そういうきみは素敵だったな
思い出して左目が熱い
なんだか明日も頑張ろうかなあ
優しい夜になってゆけ

 引用部1行目では、「きみ」が「生き物や花を育て始めた」とあります。そして、その後に続くサビでは「そういうきみは素敵だったな」。この引用部から伝わるのは「きみ」の優しさと感受性の豊かさに、「ぼく」の心が動いているということ。

 では「ぼく」の心はどのように動いたのか。引用した部分の歌詞には「なんだか明日も頑張ろうかなあ」とあります。この表現から、感動した!と言うほどには瞬時に大きく心が動いたわけではなく、じんわりと優しい気持ちになれたことが示唆されます。このように1曲をとおして、「ぼく」が「きみ」を思うなかで、様々な感情をもらったことが、語られていきます。

歌詞の出来事の少なさ

 「ぼく」の心の動きを繊細に歌っていくこの曲。それと同時に、大きな出来事が起こらないところも、この曲の特異な点です。例えば、先ほど引用した「生き物や花を育て始めた」という部分。もし、この部分が「きみ」が「ぼく」に対して、なにか感動するようなことをしてくれた、言ってくれたという内容だったら、もっとわかりやすいラブソングになっていたことでしょう。

 しかし、この曲は、状況説明や人間関係におけるストーリーは最低限にとどめ、微細な心の動きに焦点を合わせています。具体的なストーリーと、2人の関係性を説明しすぎないことで、「好き」「嫌い」「悲しい」「嬉しい」といった言葉の中間のような、微妙な感情を描き出せるのだと思います。具体的に何ヶ所か歌詞を引用し、そこから何が読み取れるか見ていきましょう。

いくつもの水たまりを越えて
変わり続ける想いを越えて
どれくらいのことを知れるんだろう
ぼくらはまだ始まったばかり

 1番のサビが終わり、2番の最初の部分。内容としては「ぼく」と「きみ」が、これから時間を重ねて、どうなっていくのか、ということを歌っています。この引用部でも、2人は友人なのか恋人なのか、関係性は曖昧なままはっきりとは語られません。

 その代わりに、曖昧だからこそ、奥行きのある言葉が並びます。1行目の「水たまりを越えて」は、意味としては困難を越えていくということでしょうが、日常のなかのさりげない問題を解決していくというニュアンスがあります。

 3行目の「どれくらいのことを知れるんだろう」というのも、2人の関係性において「ぼく」が「きみ」のことをどれくらい理解できるだろうか、という意味にもとれるし、もっと広く人生においてどれだけのことを経験できるだろうか、という意味にもとれます。

 次に歌詞のラストの部分を引用します。

涙が出てしまうのは
忘れてないからだよ
弱いぼくらの強さを
いつもごめんね 早く帰ろう
ふわり明日まで響くよ 音

 この引用部では、涙が出る理由は「弱いぼくらの強さを」忘れていないからだと、説明されています。嬉し涙や、悲しいときに流れる涙もありますが、はっきりと理由は言えないけど、感情で胸がいっぱいになってしまって、気づいたときには流れている涙もあります。引用部から伝わるのは、そんな涙です。

歌詞全体の意味

 ここまで「ふわり」の意味と、歌詞の一部について考察してきました。では、歌詞全体としては、なにがテーマとなっているでしょうか。それは、人との出会いでもたらされる心の変化だと思います。

 「ぼく」は「きみ」と出会い、その感受性に触れることで、自分も以前よりも優しく、感受性豊かになれた、ということを歌っているのだと、僕は思っています。友人だろうと恋人だろうと、人間関係の良いところは、交流をとおして様々な感情がもらえること、そしてその人の影響を受けて自分が変われることです。

 この曲の語り手である「ぼく」も、「きみ」との交流をとおして、「なんだか明日も頑張ろうかなあ」「今日はいい夢見れそうだから」と、穏やかな感情になっています。単純なラブソングにはせず、「きみ」に大切な誰かを代入できるよう曖昧な部分を残していることで、この曲は普遍性を獲得し、誰が聴いても「ぼく」が「きみ」にもらったような優しい気持ちになれる1曲に仕上がっています。

アレンジと楽曲の構造

 さて、ここまでで記事のタイトルにした「ふわりの意味と歌詞考察」については、言いたいことは言い終わったのですが、最後に少しだけ音楽面についても述べさせていただきます。

 イントロから0:42あたりまではピアノとボーカルのみ。この部分のピアノは音数も少なく、「ここにいるのはぼくと風だけ」という歌詞とも重なるような、隙間を感じるアレンジです。歌詞とメロディー、サウンドの親和性が高く、さすが、こういうところは自作自演のバンドの良いところ。

 また、この曲は基本的にAメロ→サビが循環する構造になっていますが、サビ以外のメロディーは全て変奏のように違う部分があります。4:22あたり、歌詞でいうと「ほんのすこしだけ息を吸って」からのメロディーも、最初はサビと共通しているものの、途中からやはり別の展開を見せます。

 アレンジについても、前述したようにイントロからしばらくはピアノとボーカルのみ、1:01あたりからは8ビート、2:19からは前のめりになったハネるようなリズムで、メロディーは共通していても、アレンジを変えています。そのため、6分以上ある楽曲なのに、次々と風景が変わっていき、飽きることなく最後まで(ふわりと?)聴けてしまいます。

 言葉と音楽が、完璧に溶け合った「ふわりのこと」。ちなみにチャットモンチーがライブ(2011年12月4日の「チャットモンチーの求愛ツアー」Zepp Tokyo公演)で、カバーしたこともあります。ねごとの曲の中でも、特に好きな1曲です。