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フジファブリック「赤黄色の金木犀」は色彩と感情のグラデーションを描写している


 「赤黄色の金木犀」は、2004年9月29日に発売されたフジファブリック3枚目のシングル。同年発売のメジャー1枚目のアルバム『フジファブリック』にも収録されています。作詞作曲は志村正彦。

 フジファブリックはメジャー契約後、1stシングル『桜の季節』、2ndシングル『陽炎』、3rdシングル『赤黄色の金木犀』、4thシングル『銀河』と、それぞれ春夏秋冬の季節をテーマにしたシングルを、連作で発表しています。本作はその3作目にあたり、秋をテーマにした1曲。

 フジファブリックの楽曲は、言葉だけでは表しがたい微妙な感情、例えば「嬉しい」と「悲しい」の中間のような心情を描きだすことが多々あります。「赤黄色の金木犀」も、季節の移り変わりと、心情の微妙な変化を重ねたような、二元論では割り切れない繊細な描写を持った1曲です。

 言い換えれば、季節の描写と感情描写の両面で、グラデーションのような微妙な色合いを、的確に表現しているということ。この論では「赤黄色の金木犀」が持つ、鮮やかで繊細な表現について、考察したいと思います。

タイトルが描写する色

 「赤黄色の金木犀」というタイトルが、まず示唆的であると言えます。金木犀(キンモクセイ)は、秋になると花を咲かせ、秋の季語にもなっている植物。「赤黄色の金木犀」というのは、秋になって赤黄色の花が咲いているということでしょう。ここで注意をひかれるのが「赤黄色」という言葉です。

 キンモクセイの画像を検索してみると、オレンジ色の花を咲かせることが分かります。では、「橙色」や「オレンジ色」ではなく「赤黄色」という言葉が選ばれたのはなぜでしょうか。その理由は、花の色には赤が強い部分もあれば、黄色が強い部分もあり、全く同じ色の部分はあり得ない、そのような繊細な色のグラデーションを表すためなのではないかと思います。

 「オレンジ色」ではなく、ふたつの色が組み合わさった「赤黄色」という言葉を選択することで、色の繊細なグラデーションだけでなく、季節や感情の中間点もパラレルに描いているのではないか、とも思います。それでは、歌詞を参照しながら、具体的な表現について分析していきます。

季節と状況の変化

 この楽曲の構造を書きだすと、以下のようになります。

Aメロ→Aメロ→サビ→Bメロ→サビ

 Aメロが曲の前半にしか出てこない少し変わった構造。では、1連目のAメロの歌詞を見てみましょう。以下は、歌い出しから2行の引用です。

もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば

 こちらの引用部の「過ぎ去りしあなたに」という一節から、語り手と「あなた」が離れた状況にあることが分かります。そして、語り手は「あなた」に伝えたいことがあったけれども、伝えることができないうちに、「あなた」は過ぎ去ってしまった、ということのようです。

 ただ、状況の変化が最近あったのか、もっと以前にあったことを季節が巡ってきたことで思い出しているのかは、定かではありません。ここで重要なのは、既に離ればなれの状況になっているが、語り手の「あなた」への感情が残っているということ。このあとに続く歌詞にも「心の中 準備をしていた」という一節があり、まだ「あなた」を思い続けている心情が窺えます。また、この段階では、季節を特定できる言葉は出てきていません。

冷夏が続いたせいか今年は
なんだか時が進むのが

 続いて引用したのは、2連目のAメロの歌詞。「冷夏」という季節を想像できる言葉が、初めて使用されます。「冷夏が続いた」という表現から、季節が夏の終わりから、秋の初めぐらいであることが推測できます。Aメロ部分の歌詞全体の特徴として、季節の変化と、語り手と「私」の状況の変化が、並行して語られています。では、サビではどのような展開になるのか見てみましょう。

赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって

 引用したのはサビ部分の冒頭2行の歌詞です。「赤黄色」の花をつけた「金木犀」という言葉が出てくることから、季節設定がより詳細になり、9月から10月ぐらいであることがわかります。Aメロ部分では、語り手は伝えたいことを伝えられないまま、「あなた」が過ぎ去ってしまったことが明らかになりました。

 そしてサビでは、金木犀の香りがスイッチになって、「あなた」への感情があふれ出てしまった、そんな心の動きを歌っているのではないかと思います。

語り手の心情描写

 では、金木犀の香りをきっかけに、語り手はどんな気持ちになったのでしょうか。歌詞には「たまらなくなって」とあります。

 「会いたい」や「寂しい」という直接的な言葉を使わず、「たまらなくなって」という言葉を使ったところに、この曲の感情表現の繊細さがあらわれています。

 つまり、言葉にできるような感情ではなく、言葉におさまりきらないグラデーションになった感情を、この歌は表現しようとしているのではないかと思います。

 語り手の言葉にできない感情を、さらに詳細に描き出すように、Bメロでは次のように歌われます。

期待外れな程
感傷的にはなりきれず

 もっと感傷的な気分になってもいいはずなのに、そんな気持ちにはならない。会いたいという気持ちだけでも、寂しいという気持ちだけでもなく、諦念や愛情や自分自身でもわからない感情の渦が、ここでは描写されているのではないかと思います。さらに、サビの最後は、次の一節で結ばれます。

何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道

 1番のサビ、そして曲のラストにあたる2番のサビで、共通してこのように歌われています。ここでも、語り手の言葉には変換しがたい感情が、端的に表現されていると言えるでしょう。

季節と状況、金木犀と感情のパラレルな関係

 「赤黄色の金木犀」の歌詞は、ふたつの変化について歌っています。それは季節の変化と、語り手の「あなた」の関係性の変化です。この曲のなかでは、夏から秋に移り変わる季節の変化と並行して、語り手と「あなた」の関係性の変化、語り手の感情の動きも描写されています。

 同時にこの曲では、グラデーションのような境界線の曖昧な、ふたつの対象についても歌われています。ひとつは、オレンジ色とは言い切れない赤黄色のキンモクセイの花の色、そしてふたつ目は、語り手の言葉には割り切れない微妙な感情です。

 季節の変化と、感情の変化。色彩が絶妙で言葉にしがたい花の色と、言葉には変換しがたい複雑な心情。季節の移り変わりによって心が動くこともありますし、心情の変化によって風景が変わって見えることもあります。

 言語化が難しいふたつの事柄を、1曲の中で並行させて同時に扱うことで、より表現の強度を高めていると言えるのではないかと思います。

 この曲では、金木犀の香りがトリガーとなって、語り手の感情がドラスティックに動いています。しかし同時に、この「赤黄色の金木犀」という曲がトリガーとなって、リスナーの感情が揺さぶられる、という状況もあり得るのではないでしょうか。

 このように心を動かす可能性があるというのも、音楽の魅力のひとつです。

 





フジファブリック「若者のすべて」が描く心情風景


目次
イントロダクション
歌詞の語り手、季節、時間
語り手の心情
言葉と音の一体感
「若者のすべて」が描く心情風景

イントロダクション

 「若者のすべて」は、2007年11月7日発売のフジファブリック10枚目のシングル。作詞作曲は志村正彦。アルバム「TEENAGER」にも収録されています。

 一聴すると、アレンジもメロディーもサウンドもシンプルで派手なところがなく、落ち着いた曲。僕も初めて聴いたときは「まぁいい曲かな」という程度の感想でした。

 しかし、聴けば聴くほどに、音楽が心に染み込んできて、今では聴くと涙が溢れるぐらいエモい気分になります。

 なぜ僕がこの曲を聴くとエモい気分になるのか、その理由を一言であらわすなら、心情風景を描き出していること。単純化された「悲しい」とか「寂しい」という感情ではなく、人生のある時期のある感情が丁寧に描き出されていて、だから聴いた人にリアリティを伴って響くのだと思います。

 しかも、歌詞が心情風景を説明しているということではなく、歌詞、メロディー、アレンジが有機的に風景を描き出しているんですよね。では、ここから僕なりの歌詞解釈、そして演奏の聴きどころをご説明させていただきます。

歌詞の語り手、季節、時間

 まずは歌詞の語り手、時間設定などを確認しましょう。この曲には「僕」や「私」のような一人称代名詞は出てこないものの、語り手の心情がそのまま言葉になって流れていくような歌詞になっています。歌い出しは下記のように始まります。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

 季節は「真夏のピークが去った」ということで、8月下旬から9月ぐらいだと想定できます。また、その後に続く「天気予報士がテレビで言ってた」、「気がしている」という表現から、語り手の精神状態がうかがえます。

 語り手は、夏休みが終わってしまう前の、なんとも言えないぼんやりとした気持ちなのではないでしょうか。そして、歌詞は次のように続きます。

夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて

 ここでは「夕方5時」という具体的な時間が示されます。季節は「真夏のピークが去った」頃、時間は「夕方5時」。それぞれ季節の終わり、昼間の終わりを感じさせるという点で、共通しています。

語り手の心情

 それでは次に、語り手の心情がどのようなものか確認しましょう。前述したとおり「終わり」を感じる季節、時間にあって、語り手は感傷的な気分になっているようです。

 それは「天気予報士がテレビで言ってた」という受け身で投げやりともとれる表現や、毎日流れるであろう夕方5時のチャイムが、この日に限って胸に響いているところから読み取れます。そして、サビへと入ります。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 サビの部分からは、語り手に会いたい人がいるようだ、ということが推測できます。しかし、その相手が誰なのか、具体的には書かれていません。それが、2番のサビ、この曲の最後の部分の歌詞では、次のように綴られます。

ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな

最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 語り手は、花火の会場で会いたかった人に会えていますね。普通に解釈するならば、相手は好きな異性ということでしょう。歌詞全体を見渡してみると「真夏のピークが去った」「夕方5時」「街灯の明かりがまた 一つ点いて」など、季節や昼の終わりを感じさせる言葉が散りばめられています。

 終わりの予感を感じるときに、自分の片思いも終わるかもしれない、そんな語り手の言葉にしがたい感情を僕は感じます。ただ、実際にそうかどうかは、歌詞には全く書かれていないのですが。

 状況説明を最低限にとどめ、語り手の心情にフォーカスしているところが、この曲の特異な点であり、魅力です。もし、具体的に語り手と相手の関係を描写していたら、私とあなたのラブソングで終わってしまう。

 そうはしないで、「ああ〜、その気持ち、そういう感じわかる!」という感情を描き出しているので、結果として多くの人の心の深いところに響くのではないかと思います。

言葉と音の一体感

 さて、ここまで歌詞の解釈をしてきましたが、この曲の素晴らしいところは、バンドのアンサンブルが歌詞とぴったり寄り添い、言葉の魅力を引き上げているところにもあります。

 言い換えると、バンドの音があることによって、歌詞の意味がより一層伝わるようになっているということ。

 イントロとAメロでは、どの楽器も8分音符が基本で、落ち着いた雰囲気で始まります。ここでは、ベースは8分音符、ドラムもシンバルは8分音符、ピアノの右手は2分音符を弾き続けています。

 また、音も1小節単位で同じ音を出し続けており、リズム的にも音程的にも、枠をはみ出してくるような音がほとんどありません。

 これが、歌詞でいうと「夕方5時」から始まるBメロに入ると、ドラムが2小節ごとにバスドラを8分音符で3つ「タタタっ」と入れたり、ピアノの右手が4分音符になって音に動きが出てきたりと、徐々に音楽的に盛り上がっていきます。

 そして、サビ前。ギターがジグザグに上がっていくフレーズを弾くと、それに続けてピアノも上行していくフレーズを弾いて、サビに入ります。

 歌詞の世界観に合わせて聴いていくと、Bメロのバスドラは夏が終わっていく足音のように聴こえるし、サビ前のギターとピアノはチャイムのようにも、打ち上げ花火が始まる合図のようにも聴こえる。

 演奏と歌詞が、それぞれ補完し合って、全体としての情報量を増している感覚が、ひしひしと感じられます。

「若者のすべて」が描く心情風景

 前述したように、この曲の魅力をまとめると、歌詞が状況説明で終わるのではなく、心情を切り取ったかのようでイマジネーションを刺激するところ。

 そして、その歌詞に寄り添うような、無駄のない、完璧とも思えるバンドのアンサンブルです。言葉だけでは伝わらない感情を描き出す、こういう楽曲に出会うと、音楽を聴いていてよかったな、と思います。

 僕個人の話をすると、本当にこの曲を聴くと、夏の終わりの、夏休みが終わってしまう直前の、焦るような寂しいような、意味もなく外に飛び出して走りだしたくなるような、あのなんとも言えない感情が呼び覚まされるんですよ。

 タイトルが「若者のすべて」というのも示唆的で、いつまでもこの曲に感動できる人間でいたいなと思います。世界の約束を知って それなりになっても。

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