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欅坂46「エキセントリック」歌詞の意味考察 SNS時代のコミュニーケーション不全


目次
イントロダクション
顔の無い人々
「僕」の心情
2番の歌詞
結論・まとめ

イントロダクション

 「エキセントリック」は、アイドルグループ欅坂46の楽曲。作詞は秋元康。

 2017年4月5日発売の4thシングル『不協和音』、および2017年7月19日発売の1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されています。

 曲名のエキセントリックとは、英語の「eccentric」。「風変わりな」「常軌を逸した」という意味を持つ形容詞です。歌詞の中にも「I am eccentric 変わり者でいい」という一節が出てきます。

 『サイレントマジョリティー』でデビューして以来、既存のシステムへの反抗や、都市社会の中での孤独など、それまでロックが担っていた反抗性や内省性を持った楽曲を、たびたび発表している欅坂46。

 『不協和音』のカップリング曲としてリリースされた「エキセントリック」も、SNSが盛んな現代においての人間関係がテーマとなっています。

 具体的には、インターネット上におけるコミュニーケーション不全と、そこから生じる孤独にスポットが当てられています。いわば現代的な孤独が、現代的なコミュニーケーションを象徴するインターネットをエッセンスに、描写されるのがこの曲。

 では、実際にどのように孤独やコミュニーケーション不全が描かれるのか、歌詞の意味を考察していきたいと思います。

顔の無い人々

 まずは、語りの構造を確認しましょう。この曲は語り手である「僕」の視点から、言葉が綴られていきます。

 これがラブソングであるなら、対象となる「君」が出てくるところでしょうが、この曲では「僕」以外に具体的な人物は出てきません。

 その代わりに、顔の無い多くの人が出てきます。これはどういうことか、Aメロ1連目の歌詞を引用します。

あいつがああだって言ってた
こいつがこうだろうって言ってた
差出人のない噂の類(たぐ)い
確証ないほど拡散する

 上記の引用部には「あいつ」と「こいつ」という代名詞が出てきますが、いずれも特定の誰かを指しているわけではありません。

 3行目に「差出人のない噂の類(たぐ)い」とある通り、匿名の発言者を指しています。そして、4行目に「確証ないほど拡散する」と続くように、言うまでもなくインターネット上での書き込みを連想させる表現です。

 上記引用部に続く、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

意外にああ見えてこうだとか
やっぱりそうなんだなんてね
本人も知らない僕が出来上がって
違う自分 存在するよ

 こちらの引用部では、1連目で語られた内容が、さらに発展して綴られています。具体的には「僕」に関する匿名の発言者による噂が積み重なり、「僕」の存在が勝手に形作られていくということ。ここまでの2連では、「僕」のインターネット上のコミュニーケーションに対する違和感が表明されています。

 続く3連目は、以下のように続きます。

何が真実(ほんと)なんてどうでもいい
わかってもらおうなんて無理なんだ
倒れて行く悪意のドミノ
止めようたって止められない

 上記の引用部では、より具体的に「僕」の心情が記述されています。ここでは、1連目では「差出人のない噂」と表現されていた匿名の発言が「悪意のドミノ」と言い換えられ、さらに「僕」はそれを止めるのは不可能だと、諦めの気持ちを持っていることが明かされます。

 1番のAメロを通して、顔のない人々と「僕」の間に起こる衝突が描かれ、なんとも陰鬱な内容の歌詞が続きます。しかも、直接的な衝突ではなく、相手の顔は全く見えてきません。インターネットを介した、現代的な孤独を描いているとも言えるでしょう。

「僕」の心情

 続いて、「僕」がどのような心情を抱いているか、確認していきましょう。

 1番のBメロ部分の歌詞を、以下に引用します。

誰もが風見鶏みたいに
風の向き次第で
あっちこっちへとコロコロ変わる
世間の声に耳を塞いで
生きたいように生きるしかない
だから僕は一人で
心閉ざして交(まじ)わらないんだ

 上記の引用部では、Aメロでは語られなかった「僕」の具体的心情が明らかにされています。Aメロでは、匿名の発言に違和感を持ち、「悪意のドミノ」を「止められない」と諦めの感情を持っていた「僕」。

 Bメロでは、匿名の発言を繰り返す人々を「風見鶏」に例え、「僕」は彼らと同じようにはならない、と宣言しています。そして、Bメロに続くサビでは、より強く「僕」の思いが表明されます。

 1番のサビの歌詞を、下記に引用します。

I am eccentric 変わり者でいい
理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ
他人(ひと)の目 気にしない 愛なんて縁を切る
はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの

 タイトルにもなっている「eccentric」という言葉が、ここで出てきました。引用部2行目にもあるとおり、「変わり者」を意味する「eccentric」という言葉。

 引用したサビ部分の歌詞は、エキセントリックという言葉が、この曲において何を意味するかの説明になっています。

 すなわち、差出人のない噂を鵜呑みにする、風見鶏のような人々には染まらず、自分の思うように判断し、生きるということ。その態度を、エキセントリック=変わり者であると表現しています。

2番の歌詞

 2番に入っても、1番の歌詞を補強する内容の言葉が続きます。まず、2番のAメロ1連目の歌詞を引用します。

あれってああだって聞いたよ
ホントはこうらしいって聞いたよ
推測だらけの伝言ゲーム
元のネタはどこにある?

 1番のAメロで綴られた内容と対応し、ここでも顔のない人々による噂話の拡散が扱われています。「推測だらけ」「元のネタ」といった言葉使いは、やはり匿名の書き込みで溢れる、インターネットを連想させると言っていいでしょう。

 さらに2番のBメロでは、以下の言葉が続きます。

すべてがフィクション 妄想だって
大人げないイノセンス
嘘とか欺瞞(ぎまん)に溢れる世界
キレイな川に魚はいないと
したり顔して誰かは言うけど
そんな汚い川なら
僕は絶対泳ぎたくはない

 上記の引用部で「僕」は、「すべてがフィクション」とまで言い切っています。「すべて」は、3行目に続く「嘘とか欺瞞(ぎまん)に溢れる世界」に繋がっていて、そのような世界は全て妄想であり、フィクションだと言っているのでしょう。

 もう少し補足すると、この曲で一貫して語られてきた、根拠のない情報を鵜呑みにし、自分の意思を持たないかのように振る舞う人々。彼らの見る世界はすべてフィクションだと、「僕」は非難しているということです。

 4行目から、今度は世界を「川」に例え、「僕は絶対泳ぎたくはない」とあらためて嘘にまみれた世界の拒絶を、宣言しています。

結論・まとめ

 以上、「エキセントリック」は現代における孤独とコミュニーケーション不全を描いている、という仮説に基づいて、歌詞を読み解いてきました。

 歌詞のテーマを、端的にあらわすなら、欺瞞に溢れる世界と、エキセントリックな自分の対立。

 歌詞全体をとおして、語り手である「僕」は、不確かな情報に溺れる人々に対して、深い違和感を持ち続けています。

 そして、自分はそうはならない、という強い拒絶の態度が「エキセントリック」という言葉に集約され、サビでは「I am eccentric 変わり者でいい」と歌われます。

 興味深いのは、自分が「エキセントリック=変わり者」であると、「僕」が自覚しているところ。言い換えるなら、不確かな情報を信じ、匿名での発言を繰り返す人々がマジョリティーであり、それになじめない自分がマイノリティーであるということです。

 ハッキリとは記述されていませんが、この曲がインターネットを介したコミュニケーションを想定しているのは明らか。その上で、「僕」は上記のマジョリティーとマイノリティーの認識を持っています。

 SNSが主流となり、誰もがアカウントを使い分け、複数の「自分」を持つことになった現代。このような文化に馴染めない孤独を、語り手の「僕」を通してこの曲は語っている、というのが僕の結論です。

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欅坂46「世界には愛しかない」が意味するもの 歌詞の意味考察


目次
イントロダクション
語りの構造
場面設定
歌詞のテーマ
夕立のメタファー
結論・まとめ

イントロダクション

 「世界には愛しかない」は、欅坂46の2016年8月10日リリースの2ndシングル。2017年7月19日発売のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』にも収録。

 また、欅坂46出演のミステリー学園ドラマ『徳山大五郎を誰が殺したか?』の主題歌になっています。作詞は秋元康。

 「世界には愛しかない」というハッキリと言い切られたタイトル。まず、このタイトルにツッコミたくなりますよね。世界には愛しかないことはないだろう、他にもいろいろあるだろうと。

 こういうちょっとした違和感を利用するのは、秋元康の得意とする手法。メロディーに乗った歌詞を聴いていくと、徐々に答え合わせがなされます。この一種のパズルのような感覚が、リスナーを歌の世界に引き込む効果を持っているのでしょう。

 では「世界には愛しかない」という言葉は、なにを意味するのか。歌詞を順番に読み解きながら、解釈していきます。歌詞は必要な部分は適宜引用いたしますが、全文は歌詞カードか各種サイトでご確認ください。

語りの構造

 最初に、歌詞全体の構造を確認しましょう。語り手は「僕」。

 歌詞を確認すると、カギ括弧で囲われた部分があることに気がつきます。そして、音源を聴いてみると、カギカッコ内のパートが朗読(ポエトリーリーディング)となっているのに対し、カッコ外のパートはメロディーで歌われています。

 全体の歌詞を見渡すと「世界には愛しかない」という曲は、朗読されるカッコ内のパートと、メロディーのついたカッコ外のパートが、交互に登場する構造であることが分かります。

 では、これら2種類のパートは、歌詞の内容の面では、どのように異なっているのでしょうか。表記の方法が異なるのに対応して、歌詞の内容においても差異が認められるのか。2種類のパートが、使い分けられている意味を意識しながら、歌詞を読み解いてみましょう。

 カギカッコで囲われた、冒頭部分の歌詞を引用します。

「歩道橋を駆け上がると、夏の青い空がすぐそこにあった。
絶対届かないって分かっているはずなのに、僕はつま先で立って
思いっきり手を伸ばした。」

 上記の引用部は、具体的な状況描写がなされています。歩道橋を駆け上がり、青い空に手を伸ばす様子。その一連の動きを、語り手である「僕」が、いきいきと描き出します。おそらく、これは「僕」が見たままのことを、そのまま表出しているということでしょう。

 そして、上記の朗読に続いて、カッコのつかない通常のメロディー部分が続きます。上記に続く部分を引用します。

ただじっと眺め続けるなんてできやしない
この胸に溢れる君への想いがもどかしい

 前述のとおり、こちらの引用部にはカッコが付いておらず、朗読ではなくメロディーがあてられています。先の引用部と比較して気がつくのは、語尾と時制の違い。

 カッコ内では、「僕」の発言をそのまま写したかのような言葉が、過去形で記述されていました。しかし、カッコ外となったこちらの引用部では、現在形で「僕」の心情と思われるものが記述されています。

 以上の違いから、カッコ内は実際の発言、カッコ外は心に思ったこと、と仮定しましょう。この仮定に基づくと、カッコ内にだけ句読点が用いられているのは、実際の発言であるという臨場感を演出するため、と解釈できます。

 また、冒頭の朗読部分では「歩道橋」「青い空」という具体的な場所を示す言葉と、「つま先で立って」「手を伸ばした」という具体的な行為をあらわす言い回しが、散りばめられていました。これらの表現も、カッコ内の写実性を高めるため、と考えれば整合性がとれます。

 ここで再び歌詞全体を見渡すと、この曲の語り手は「僕」。この「僕」が唯一の登場人物で、写実的な発言のパートと、感情を記述したパートの2種類から、歌詞が構成されていることが分かります。「僕」の語りの中に「君」も出てきますが、具体的に「君」がどういう人であるのかは、語られません。

場面設定

 語りの構造が明らかになったところで、次にどのような場面を歌っているのか、確認してみましょう。

 先ほど引用した冒頭部分から、「僕」が歩道橋を駆け上がり、空に向かって手を伸ばしていることが分かりました。歌詞の続きを、以下に引用します。

「真っ白な入道雲がもくもくと近づいて、
どこかで蝉たちが一斉に鳴いた。
太陽が一瞬、怯(ひる)んだ気がした。」

 上記の引用部に出てくる「蝉たち」という言葉から、季節が夏であることが分かります。ここまでの歌詞から、季節は夏で、場所は歩道橋の上、今のところは晴れているが入道雲が近づいている、という場面だということが確認できました。

歌詞のテーマ

 では、ここからが本題。曲のタイトルにもなり、サビの歌詞としても歌われる「世界には愛しかない」という言い回しが、なにを意味するのか考えていきます。以下にサビの歌詞を引用します。

 下記の引用部で、カッコに入っている部分の歌詞は、メインのメロディーに対して、合いの手のように歌われています。

世界には愛しかない
(信じるのはそれだけだ)
今すぐ僕は君を探しに行こう
誰に反対されても
(心の向きは変えられない)
それが (それが) 僕の (僕の) アイデンティティー

 上記の引用部から、歌詞のテーマと思われるものが、浮き彫りになってきました。まず、1行目で「世界には愛しかない」と宣言し、それが具体的にどういう意味なのかを、そのあとで説明しています。

 引用部3行目に出てくる「君」について、「僕」との関係性は触れられていませんが、ここでは恋愛感情を持つ相手だと、仮定しておきましょう。

 まとめると、「僕」が「君」を探しに行こうとする感情を、曲げずに貫き通すこと。それを「僕のアイデンティティー」とまで言い切り、「君」を思う感情のことを「愛」だと言っているようです。

 誰に反対されても、君を思うことはやめない。その強い感情が「世界には愛しかない」という言葉で、表わされています。

 さらに、サビに入る前の歌詞に戻ると、以下の一節があります。

「複雑に見えるこの世界は
単純な感情で動いている。」

 上記の引用部で言う「単純な感情」とは、サビに出てくる「愛」のこと。すなわち、他者を思う強い気持ちのことでしょう。曲のテーマが、だいぶ鮮明になってきました。

 この曲は他者を思う気持ちを歌っている、その気持ち以上に人のモチベーションとなるものは無い、ということを「世界には愛しかない」と表現しているのでしょう。

夕立のメタファー

 さて、曲のテーマが明らかになったところで、場面設定の話に戻りましょう。先ほど確認したとおり、この曲の場面設定は、「僕」が歩道橋を駆け上がり、空を見ているところ。では、なぜこのような場面設定がなされたのか、検討していきます。

 歌詞を順番に追っていくと、最初は青い空だったのが、入道雲が近づき、やがて夕立がやってきます。そして、2番の歌詞では、「僕」が次のように語ります。

「夕立も予測できない未来も嫌いじゃない。」

傘がなくたって走りたい日もある

 2番の歌詞では冒頭部分で「突然、雨が降って来た」と記述され、夕立がやってきたところから場面が始まります。その後に続く歌詞から、上記2箇所を部分的に引用しました。

 1番の時点で入道雲が近づき、2番の歌詞に入ったところで、ついに雨が降り始めました。では、この夕立は、なにを意味しているのか。言い換えれば、なんのメタファーとなっているのでしょうか。

 先ほど引用した、1番のサビに「誰に反対されても 心の向きは変えられない」という歌詞があります。おそらく夕立は、他者からの反対意見や、様々な困難をあらわしているのでしょう。

 そして、1番のサビで「心の向きは変えられない」と言い切っているのに対応して、上記2箇所の引用部では、たとえ困難があっても「君」を思う気持ちを優先する、という「僕」の強い気持ちを記述しています。

 「僕」の強い気持ちを際立たせるため、また臨場感を伴った表現とするために、夕立のなかを走り抜けることを、「君」を思い続けることの比喩として用いた、というのが僕の考えです。

結論・まとめ

 「世界には愛しかない」という言い回しが、なにを意味するのか、というのが最初の問いでした。「世界には愛しかない」という言葉は、他者を思い続ける感情以上に人を突き動かすものは無い、という意味で使われているというのが、ここまで考察してきた結論です。

 この曲においては、思いを寄せる他者として「君」が用いられています。しかし、先述したとおり「君」の具体的な情報は、与えられません。恋愛感情にフォーカスして、「君」のことを詳細に語るのではなく、人を突き動かす根源的な感情にフォーカスしているのが、この曲の特異なところと言えるでしょう。

 その感情の動きをいきいきと表現するために、歩道橋を駆け上がり、夕立が降り出すまでを、写実的に記述。さらに、語りの質を次々と切り替え、疾走感を生んでいます。

 少し演奏面にも触れておくと、メロウなピアノのイントロから始まり、続いてアコースティック・ギターの小気味良いカッティングと、流れるようなピアノの音。バックのトラックも歌詞と対応して、コントラストと疾走感を伴っていますよね。

 この曲のラストは、次の言葉で結ばれます。思春期の感情を、疾走感の溢れる言葉とメロディーで切り取った、本当に清々しい1曲です。

自分の気持ちに正直になるって清々しい。
僕は信じてる。世界には愛しかないんだ。

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欅坂46「制服と太陽」歌詞の意味考察 「制服」と「太陽」が表象するもの


目次
イントロダクション
歌詞の場面設定
「制服」と「太陽」が意味するもの
「私」の心情の変化
「私」の決断
結論・まとめ

イントロダクション

 「制服と太陽」は、日本の女性アイドルグループ欅坂46の楽曲。作詞は秋元康。

 2016年11月30日発売のシングル『二人セゾン』、2017年7月19日発売のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されています。

 「制服と太陽」と題されたこの曲。イソップ寓話のひとつに「北風と太陽」という話がありますし、この曲も「制服」と「太陽」が、対立する価値観をあらわすのだと、なんとなく想像して聴き始めました。結論から言うと、その予想の半分はアタリで、半分はハズレ。

 それぞれ異なる価値観をあらわしてはいるのですが、単純に「大人VS子供」「常識VS自由」という対立を歌っているかというと、違いました。そうした二項対立ではなく、若者らしいモヤモヤした感情にフォーカスされた楽曲だったんです。

 個人的に欅坂46には、デビューシングル「サイレントマジョリティー」における鮮烈な反抗のイメージを持っていて、「制服と太陽」も自由になるために大人と戦う曲、この支配からの卒業を歌った曲だと思っていたんですよね。しかし実際には、まわりの常識と自分の価値観の間で、揺れ動く気持ちが描写されています。

 価値観の対立はあるのですが、直接対決ではなく、しなやかにすり抜けていく様子が描かれています。ただ単に大人に反抗するのではなく、ゆるやかに疑問を呈しつつ、自分の感情に従う、というところが、なんとも現代的な語りの手法だと思うんですよね。

 そんなわけでこのページでは、「制服と太陽」の歌詞について、僕なりの解釈を記述していきます。

歌詞の場面設定

 まず、曲のタイトルになっていて、歌詞にも出てくる「制服」と「太陽」という言葉について。この二つの言葉が、それぞれ何を表象しているのか、確認しましょう。

 と、言いたいところですが、これらの言葉が出てくるのはサビに入ってから。歌詞に沿って、順番に話を進めた方がわかりやすいので、まずはAメロの歌詞から、場面設定と登場人物を確認します。

 歌い出し部分の歌詞を、以下に引用します。

いつもの教室に親と教師と私
重苦しい進路相談のその時間
大学へ行くか?
やりたいことはあるか?
今ここで決めなきゃいけないのかなあ

 引用部から、多くの具体的な情報が提供されました。まず、登場人物は「親」と「教師」と「私」の3人。進路相談のために、教室に三者が集まっています。いわゆる三者面談ですね。

 語りの視点は「私」。この曲は「私」の心の声を、綴ったものなのでしょう。「大学へ行くか?」「やりたいことはあるか?」と、クエスチョンマークがついて質問になっている言葉は、他の部分と口調が異なるため、それぞれ親と教師が発したものと解釈できます。

 他の部分が「私」の思ったことを記述しているのに対し、これらの質問文は、親と教師が発した言葉を、「私」が直接話法で記述した形になっています。そのことを強調するために、クエスチョンマークを付けたのでしょう。

 そして、引用部の最後の1行では、「私」自身の言葉に戻っています。また「大学へ行くか?」という言葉からは、「私」が高校生であることも明らかになります。

「制服」と「太陽」が意味するもの

 続くBメロでは、窓の外を鳥が飛んでいく様子が描写されています。三者面談の場で、窓の外を見つめながら、大人に未来を問い詰められ束縛される自分と、自由に空を飛んでいく鳥を、対比的に感じているのでしょう。

 その後、サビに入ると、タイトルになっている「制服」と「太陽」が出てきます。この曲は、サビのメロディーが2段階になっているので、「制服は太陽の匂いがする」から始まる部分をAサビ、「心の光」から始まる部分をBサビと、これ以降は表現させていただきます。

 では、Aサビの前半部分を以下に引用します。

制服は太陽の匂いがする
スカートは風に広がる
何十回 何百回 校庭を走り回り
自由な日々 過ごして来た

 さて、それでは「制服」と「太陽」は、それぞれ何をあらわしているのでしょうか。2番の歌詞に出てくるため後述しますが、「制服」は明らかに学校および校則を象徴するものです。大人側のルールと、言い換えても良いでしょう。

 一方の「太陽」は、Bメロで鳥を眺めていた時の心情とも繋がり、窓の外の世界、校則のない自由な世界を象徴しているように読めます。

 学校という閉じられた世界とルールを象徴する「制服」と、自由な外の世界を象徴する「太陽」。やはり、この二つの言葉は、コントラストをなす組み合わせだと、仮定しておきましょう。

 しかし、上記の意味を代入して歌詞を読み解くと、違和感が残ることに気づきます。「制服」から「太陽」の匂いがするとは、どういうことだろう? 「学校から自由の匂いがする」と解釈すると、これまでの歌詞と矛盾が生じますし、意味が分かりません。

 ひとまず解釈を保留し、歌詞の続きを見てみましょう。そこには「校庭を走り回り 自由な日々 過ごして来た」という言葉が続きます。

 「制服」が、社会のルールの象徴であるのは、おそらくその通り。入学当初は、制服を着ること、つまりルールに従うことに疑問を感じていなかったのに、学校生活を送る中で、ルールに疑問を持ち、自由を求める意識に目覚めた。そのような心情の変化を、「制服は太陽の匂いがする」という言葉で表現している、というのが僕の考えです。

 では、ここからは以上の仮定に基づいて、歌詞の続きを読んでいきます。

「私」の心情の変化

 今まではルールに従順だった「私」。しかし、進路を決める段階になって、初めて自分の意志を出し始めます。Aサビの最後の2行を引用します。

生き方なんて誰からも指導されなくたって
運命が選び始める

 進路を問いただす「親」と「教師」に対し、「私」は運命が決めてくれる、と考えています。ここで興味深いのは、直接的に反抗するのではなく、「こうしたい!」という強い希望を持っているわけでもなく、どちらかと言うと「なるようになるさ」という力の抜けた態度であること。

 さらにBサビでは、以下の歌詞が続きます。

心の光
感じるまま
自分で決める

 ここで初めて「私」の意思表示がなされています。前述したように、具体的に何がしたいという意思表示ではなく、自分の未来は自分で決めたい、という意思表示です。

 2番に入ると、1番で語られた内容が、さらに展開していきます。まず、2番のAメロの歌詞を引用しましょう。

就職をするか?
何もしないつもりか?
人生をみんなに問い詰められてる

 1番のAメロと同様、1行目と2行目は親と教師の言葉、そして3行目は「私」の心情、という構造になっています。また、2番でも引き続き、舞台は教室での進路相談であることが分かります。

 Bメロでは「何を言っても絶対 理解してはくれない」と「私」の心の声が記述され、サビに入ります。以下、Aサビの最初の2行を引用します。

制服を脱ぎ捨てて大人になる
校則のない世界へ

 引用部から、やはり「制服」は、校則やルールの象徴であると確認できました。さらに、この部分では「制服と太陽」という曲が、単純な対立関係を歌ってはいないことが、再び強調されます。

 「大人」が校則を作る側の仮想敵ではなく、校則のない世界へ身を置くことが「大人になる」ことだと表現されています。上記の引用部からは、大人への反抗と対立が、この曲のテーマではないということが分かるでしょう。

 続いて、2番のBサビ後半部を引用します。

傷つき挫(くじ)けながら
歩き方を覚えるもの
転ぶ前にそう初めから手を差し伸べられたら
いつまでも強くなれない

 この引用部では、親と教師のアドバイスが、決して反抗の対象というわけではなく、最初から助言どおりに道を決めていては、自分のためにならない、という心情が綴られています。

 三者面談の場で、親と教師の言葉に対して、違和感を覚えている「私」。しかし、決して彼らの言葉への単純な反発を表明するのではなく、なんとなく納得がいかないモヤモヤした感情から、徐々に自分の意志を決める「私」の変化が、この曲のテーマです。

「私」の決断

 では、最終的に「私」は、どのような決断を下したのか。最後のBサビ部分を引用します。

話の途中
席を立って
教室出よう

 「私」は三者面談の場で、ついに席を立って、教室を飛び出します。校則のある3年間を経て、自分で道を決定する重要さを学び、それを実行した瞬間。歌詞としては、ここがクライマックスだと言っていいでしょう。

 親と教師に対して、ハッキリと反論するのではなく、なんの説明もなしに、いきなり行動に移すところが、なんとも現代的ですね。

 ただ、何も考えていないわけではなく、自分なりに思考を重ねて達した結論であることが、歌詞では語られています。

結論・まとめ

 まとめると、タイトルに用いられている「制服」と「太陽」は、それぞれ校則と自由を象徴しています。しかし、ふたつの価値観を単純に対立させるのではなく、語り手である「私」の感情の動きに焦点を合わせている、というのが、この歌詞の特徴。

 サビの「制服は太陽の匂いがする」という一節も、深読みが可能で、おもしろい言いまわしですよね。洗濯物を日光があたる場所に干すと、太陽の匂いがつくことがありますけど、この曲でも校庭を走り回ることで、制服に太陽の匂いがついた、とも解釈できます。

 もちろん、これは一種の比喩表現で、校則のある学校という場で過ごしているうちに、校則を無条件に受け入れるのではなく、自分の意志で物事を決定することを学んだ、ということを表しているのでしょう。

 ピアノをフィーチャーしたアレンジと、ユニゾンによる合唱風のボーカルも、学校感を演出していて、なんとも青春を感じる楽曲です。

 好きか嫌いかは別にして、秋元康という人は、時代や世代を意識した歌詞を書く人ですね。現在、彼が手がけるアイドル・グループの楽曲は、現代の若者の価値観に迎合したものが多数を占めます。

 学校や大人を敵視するのではなく、なんか違うと感じつつ、最後には教室を飛び出しちゃうところとか、現代版の尾崎豊「卒業」だなぁ、と個人的には思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

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欅坂46「二人セゾン」歌詞考察 -セゾンが描き出すものは何か?-


目次
イントロダクション
タイトルの意味
登場人物と時間設定
語りの視点
話者の切り替え
「君はセゾン」の意味
結論・なぜ「セゾン」を使ったか?

イントロダクション

 「二人セゾン」は、2016年11月30日に発売された欅坂46の3枚目のシングル表題曲。作詞は秋元康。アルバム『真っ白なものは汚したくなる』にも収録されています。

 語感は良いけど、タイトルを聞いただけでは具体的なイメージがつかみにくいこの曲。実際に楽曲を聴いてみると、想像力をかきたてる優れた歌詞でしたので、この曲の歌詞を分析・考察したいと思います。

タイトルの意味

 タイトルになっている「二人セゾン」という言葉は、歌詞にも何回も出てきます。セゾン (saison)は、「季節」を意味するフランス語で、英語でいうseason (シーズン)にあたる言葉。洋菓子で「タルト・セゾン」といえば、「季節のタルト」という意味です。

 あえてタイトルを日本語にするなら「二人の季節」といったところでしょう。では、どうして意味の通じやすい「二人の季節」や「二人シーズン」ではなく、「二人セゾン」というタイトルを採用したのでしょうか。

 そのあたりを手掛かりに、この曲を読み解いていきたいと思います。

登場人物と時間設定

 まず、歌詞の登場人物と、時間設定を確認しましょう。

 歌詞に出てくるのは「君」と「僕」の2人。「僕」が「君」と出会い、それがきっかけで、変わっていく心情が歌われています。

 では、歌詞の時間設定についてはどうでしょうか。この曲はサビから始まりますが、最初の連で時間設定を確認できる言葉が早速出てきます。

二人セゾン
二人セゾン
春夏(はるなつ)で恋をして
二人セゾン
二人セゾン
秋冬(あきふゆ)で去って行く

 こちらの引用部からは、この曲が現在から過去を振り返っている、ということが想定されます。すなわち、今現在は、二人が出会い、そして別れた後だということです。

 また、曲のタイトルであり、引用部でも何度も繰り返される「二人セゾン」という言葉が、春や秋のような具体的な季節ではなく、二人が一緒にいた期間のことをあらわしている、ということも読み取れると思います。

語りの視点

 では、次に語りの視点を確認しましょう。語り手は基本的には「僕」です。「僕」の視点から、「君」のことを語るというのが基本構造ですが、いくつか巧妙な仕掛けも存在します。

 その仕掛けについては後ほど取り上げることにして、まずは歌詞の流れに沿って、解釈をしていきたいと思います。

道端咲いてる雑草にも
名前があるなんて忘れてた

 引用したのは、Aメロの歌い出し部分です。「僕」の変化がこの歌詞のテーマと言えるのですが、こちらの引用部からわかるのは、「君」と出会う前の「僕」は、雑草のことなど気にもとめないぐらい、感受性を失っている状態だということ。

 しかし、そんな「僕」が「君」と出会うことによって、徐々にいきいきとした感受性を取り戻していくのが、歌詞の流れです。Aメロ2連目の歌詞を引用します。

誰かと話すのが面倒で
目を伏せて聴こえない振りしてた
君は突然
僕のイアホン外した

 こちらの引用部でも、最初の2行は「僕」が心を閉ざしている、あまり精神状態が良くないということが強調されます。そして、続く2行では「君」と「僕」の出会いの瞬間が描写されています。

話者の切り替え

 さて、ここで前述した歌詞の仕掛けが出てきます。先ほど引用したAメロまでは、常に「僕」の視点から語られていました。しかし、これ以降は「君」の視点も導入されます。その切り替えのスイッチとなるのが、先ほど引用したAメロに続く歌詞です。以下に引用します。

What did you say now?

 突如として、英語のフレーズが挟まれます。このフレーズは、AメロとBメロの間のブリッジ部というべき場所に入っているのですが、どういう効果を狙ったものなのか、考察したいと思います。

 この英語のフレーズを境に、その後に続くBメロの4行は「君」の視点からと思われる言葉になっています。それでは、この英語のフレーズは誰の言葉でしょうか。

 おそらく、このフレーズの発言者は「僕」です。しかし、語りの質が異なっていて、それまでは自分の感情を心の中で語っていましたが、この部分は実際に「君」に向かって声に出した内容ではないかと思います。

 イヤホンを外されて戸惑った「僕」が、「君」の発言内容を確認して思わず口にしたのが、この英語のフレーズの部分です。もちろん、実際には日本語で「今、なんて言ったの?」と聞いたのでしょう。

 しかし、他の部分との差異を際立たせるため、また話者を切り替えるスイッチの役目を与えるために、わざわざ英語にしてリスナーの注意を引きつけようとしたのではないか、というのが僕の仮説です。

 その後に続く「太陽が戻ってくるまでに」から始まるBメロの4行は、「君」が「僕」に対して言った言葉だと考えられます。「今、なんて言ったの?」と聞く「僕」に対して、「君」が言葉を返した、ということです。

 そして、曲はサビへと至ります。

「君はセゾン」の意味

 
 冒頭のサビでは「二人セゾン」という言葉が繰り返し出てきましたが、今度は「君はセゾン」という言葉に置き換えられています。これはどういった意味でしょうか。

 Aメロの歌詞で明らかになったのは、どうやら「僕」が心を閉ざしがちで、感受性も乏しくなっているということです。そのため、道端の雑草を思うことも、そうしたちょっとした自然から季節を感じることもできません。

 しかし「君」と出会ったことで、「僕」は季節を感じる心を手にします。2番以降の歌詞では、徐々に「僕」が変わっていった様子が描写されていきます。

 「君」と出会うまでは、季節を感じることができなかった「僕」。でも「君」との出会いがきっかけとなって、季節を感じられる心を得ます。そのため、季節を与えてくれた「君」のことを、セゾンと表現しているのではないかと思います。

 言い換えれば「君」に出会うまでは、「僕」には季節は存在していなかったということです。この曲の最後の部分は「僕もセゾン」という言葉で結ばれています。これは「僕」も、季節を感じる繊細な感受性を持てるようになった、ということではないでしょうか。

結論・なぜ「セゾン」を使ったか?

 最後に、なぜこの曲は「季節」や「シーズン」ではなく、わざわざフランス語の「セゾン」という言葉を使用したのか、その理由を考察したいと思います。

 単純に語感がいい、英語よりも少し距離感のあるフランス語はロマンティックに響く、ということもあろうかと思います。仮に「二人の季節」、「二人シーズン」などというタイトルだったら、ここまで想像力をかきたてる楽曲にはならなかったのではないかと思います。

 また「セゾン」という言葉は、セゾングループを連想させます。欅坂46には「渋谷からPARCOが消えた日」という楽曲もありますが、セゾングループとはパルコ等を展開した企業グループです。

 セゾンという言葉は、パルコをはじめとした都市文化を象徴しており、「二人セゾン」は都市の中での孤独や、感受性の欠如を歌った曲なのではないか、とも思います。

 この曲のなかの「僕」は、「誰かと話すのが面倒で」「見えないバリア張った別世界」という歌詞からも示唆されるように、人間関係に疲れているようにも思えます。

 また「僕」は「君」との出会いによって、季節を感じるようになるのですが、この曲で描写されるのは「道端咲いてる雑草」「街を吹き抜ける風の中」など、あくまで都市の景観です。

 かつては人間関係に疲れ、雑草や吹き抜ける風に何も感じることのなかった「僕」が、「君」と出会うことによって、雑草や風の変化にも敏感になり、「花のない桜を見上げて 満開の日を」想うようになります。

 つまりこの曲は、都市生活のなかで季節を失った「僕」が、季節を取り戻す歌だということです。そして、季節を失った原因は人間関係にあるのですが、季節を取り戻してくれるのもまた人間です。

 以上のように「二人セゾン」という曲は、都市文化のなか、特に人間関係における憂鬱と希望をともに描いている1曲と言えるのではないでしょうか。

 ちょっと真面目に語ってきましたけど、この曲とにかく大好きです!

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