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BUMP OF CHICKEN「ray」が持つ現代的ブルース性


 「ray」は、BUMP OF CHICKENの楽曲。作詞作曲は藤原基央(Motoo Fujiwara)。

 2014年3月12日発売のメジャー5枚目のアルバム『RAY』に収録。配信限定シングルとしても、アルバム発売と同日の2014年3月12日から配信されています。

 BUMP OF CHICKEN(以下バンプ)には、多くの人が救われているんだろうな、というのがヒシヒシと伝わる1曲。僕はバンプにめちゃくちゃハマった時期があるわけではありませんが、出会ったタイミングによっては自分の人生を救うバンドになったのだろうな、というのはよくわかります。

 バンプの魅力のひとつは、人間関係のつらい部分をしっかりと見つめて、ポジティブに歌うところです。しかも、ただの楽観論には陥らず、傷や痛みと、真摯に向き合う姿勢があります。言い換えれば、一般的につらい経験と思われることを、角度を変えて良い経験だと思えるように、新しい視点を提示してくれるバンドです。

 「ray」という曲も、大切な人との別れを歌っています。しかし、別れを単なる悲しい出来事とはとらえず、自分にとって価値あるものだと考え、光に例えて前向きなメッセージを伝えています。ポジティブなメッセージに加えて、その感受性自体にリスナーは心を動かされるのではないかと思います。

 では「ray」はどのような構造を持ち、どんな内容を歌っているのでしょうか。「ray」の歌詞は、フレーズごとに、前のフレーズの補足や応答のように情報が与えられ、ストーリーが進行していきます。

 ブルースの歌詞はAAB形式と呼ばれ、2回繰り返すAの部分に対するレスポンスとしてBが歌われますが、rayの歌詞もブルースのように、フレーズとフレーズがリレーのようにつながり、徐々に歌詞の世界観が広がっていきます。

 また、ブルースは、日常の出来事や感情をあらわす音楽です。時には幸せなこと、時には憂鬱なこと(=ブルース)、そして時にはその両方を1曲の中で表現します。

 「ray」は、一般的には憂鬱と思われる出来事を、ポジティブな出来事に転化し、表現しています。「弱者の反撃」を意図してつけられたBUMP OF CHICKENというバンド名とも併せて、現代的なブルースと言えるのではないかと思います。

歌詞の時間設定

 では、「ray」ではどのような手法を用いて、どのようなことが歌われているのか、順番に見ていきましょう。まず、基本的な構造は、語り手が「君」との別れを経験し、その心境を語っていく、というものです。

 歌が進むにつれて、別れからはしばらくの時間が経ち、現在の視点から、過去の出来事と今の心境を歌っていることが明らかになります。例えばそれは、歌い出しの歌詞からも明らかです。

お別れしたのはもっと 前の事だったような
悲しい光は封じ込めて 踵すり減らしたんだ

 引用したこの一節からも、別れは過去の出来事であることがわかります。こちらの引用部から、早速バンプ特有の言葉使いが出てきます。

 それは、2行目の「悲しい光」というところ。「光」というのは、ポジティブなイメージを伴う言葉で、「希望の光」というような使われ方が普通のはずです。

 しかし、ここでは「悲しい光」と、ネガティヴであるはずの「悲しい」という形容詞が、ポジティブな「光」という言葉と共に使用されています。

 この「光」という単語ひとつからも、良い意味でリスナーに違和感を与え、今後の展開を期待させる効果があると言えるのではないでしょうか。

 時間設定を示すという意味では、2連目にも「君といた時は見えた 今は見えなくなった」という一節があります。この引用部分でも、お別れが過去であることと「君」の不在が、確認されていると言えるでしょう。

「君」とお別れしたときの心情

 次に、語り手は「君」とのお別れに何を感じ、どのように捉えているのでしょうか。歌詞の3連目、再生時間で示すと0:58あたりから、次の一節が出てきます。

寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから

 「寂しくなかった」という言葉のすぐあとに、その理由として「ちゃんと寂しくなれたから」という言葉が続きます。

 一見、矛盾しているかのような表現ですが、寂しさを感じられる感受性がしっかりと残っていたから、寂しさに負けることもなかったよ、というような意味なのでしょう。

 このような優れた表現は、言葉で説明しすぎると陳腐になってしまいますので、聴いた方がそれぞれの心で感じるべき表現であると思います。

 上記の引用部と重なる表現は、他にも数ヶ所あります。例えば「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」「お別れした事は 出会った事と繋がっている」など、やはり痛みや別れといった、本来はネガティヴな意味で使用される言葉が、ポジティヴな意味に反転するかたちで使用されています。

 この曲の語り手が、非常に魅力的な感受性をそなえていることが伝わります。さらに「ray」の歌詞は、次の一節で結ばれています。

大丈夫だ この光の始まりには 君がいる

 歌い出しから2行目で「悲しい光」という言葉が使われ、最終的に「この光の始まりには 君がいる」という一節に帰結します。

 「君」と出会い、別れたことで、出会わなかったら感じることの無かった痛みや悲しみを経験し、それが自分の感受性を豊かにすることになった。そんな経験をまとめて、愛情をこめて「光」という言葉にあらわしたのではないかと思います。

「ray」のブルース性

 前述したように、ブルースという音楽は身近な感情をテーマにすることが多いのですが、例えば悲しみを歌にするときにも、隠語や比喩表現を用いて、ストレートなかたちでは表現しないことが、しばしばあります。

 「ray」も、人との出会いの良い部分も悪い部分も、すべてをプラスに変換して描き切った作品であり、そういう意味で現代的なブルースと言えるのではないでしょうか。

 出会いと別れを、単純に美化するのではなく、痛みの部分とも真摯に向き合って音楽に昇華している、という点でも非常にブルース的な1曲ではないかと思います。

 





フジファブリック「赤黄色の金木犀」は色彩と感情のグラデーションを描写している


 「赤黄色の金木犀」は、2004年9月29日に発売されたフジファブリック3枚目のシングル。同年発売のメジャー1枚目のアルバム『フジファブリック』にも収録されています。作詞作曲は志村正彦。

 フジファブリックはメジャー契約後、1stシングル『桜の季節』、2ndシングル『陽炎』、3rdシングル『赤黄色の金木犀』、4thシングル『銀河』と、それぞれ春夏秋冬の季節をテーマにしたシングルを、連作で発表しています。本作はその3作目にあたり、秋をテーマにした1曲。

 フジファブリックの楽曲は、言葉だけでは表しがたい微妙な感情、例えば「嬉しい」と「悲しい」の中間のような心情を描きだすことが多々あります。「赤黄色の金木犀」も、季節の移り変わりと、心情の微妙な変化を重ねたような、二元論では割り切れない繊細な描写を持った1曲です。

 言い換えれば、季節の描写と感情描写の両面で、グラデーションのような微妙な色合いを、的確に表現しているということ。この論では「赤黄色の金木犀」が持つ、鮮やかで繊細な表現について、考察したいと思います。

タイトルが描写する色

 「赤黄色の金木犀」というタイトルが、まず示唆的であると言えます。金木犀(キンモクセイ)は、秋になると花を咲かせ、秋の季語にもなっている植物。「赤黄色の金木犀」というのは、秋になって赤黄色の花が咲いているということでしょう。ここで注意をひかれるのが「赤黄色」という言葉です。

 キンモクセイの画像を検索してみると、オレンジ色の花を咲かせることが分かります。では、「橙色」や「オレンジ色」ではなく「赤黄色」という言葉が選ばれたのはなぜでしょうか。その理由は、花の色には赤が強い部分もあれば、黄色が強い部分もあり、全く同じ色の部分はあり得ない、そのような繊細な色のグラデーションを表すためなのではないかと思います。

 「オレンジ色」ではなく、ふたつの色が組み合わさった「赤黄色」という言葉を選択することで、色の繊細なグラデーションだけでなく、季節や感情の中間点もパラレルに描いているのではないか、とも思います。それでは、歌詞を参照しながら、具体的な表現について分析していきます。

季節と状況の変化

 この楽曲の構造を書きだすと、以下のようになります。

Aメロ→Aメロ→サビ→Bメロ→サビ

 Aメロが曲の前半にしか出てこない少し変わった構造。では、1連目のAメロの歌詞を見てみましょう。以下は、歌い出しから2行の引用です。

もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば

 こちらの引用部の「過ぎ去りしあなたに」という一節から、語り手と「あなた」が離れた状況にあることが分かります。そして、語り手は「あなた」に伝えたいことがあったけれども、伝えることができないうちに、「あなた」は過ぎ去ってしまった、ということのようです。

 ただ、状況の変化が最近あったのか、もっと以前にあったことを季節が巡ってきたことで思い出しているのかは、定かではありません。ここで重要なのは、既に離ればなれの状況になっているが、語り手の「あなた」への感情が残っているということ。このあとに続く歌詞にも「心の中 準備をしていた」という一節があり、まだ「あなた」を思い続けている心情が窺えます。また、この段階では、季節を特定できる言葉は出てきていません。

冷夏が続いたせいか今年は
なんだか時が進むのが

 続いて引用したのは、2連目のAメロの歌詞。「冷夏」という季節を想像できる言葉が、初めて使用されます。「冷夏が続いた」という表現から、季節が夏の終わりから、秋の初めぐらいであることが推測できます。Aメロ部分の歌詞全体の特徴として、季節の変化と、語り手と「私」の状況の変化が、並行して語られています。では、サビではどのような展開になるのか見てみましょう。

赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって

 引用したのはサビ部分の冒頭2行の歌詞です。「赤黄色」の花をつけた「金木犀」という言葉が出てくることから、季節設定がより詳細になり、9月から10月ぐらいであることがわかります。Aメロ部分では、語り手は伝えたいことを伝えられないまま、「あなた」が過ぎ去ってしまったことが明らかになりました。

 そしてサビでは、金木犀の香りがスイッチになって、「あなた」への感情があふれ出てしまった、そんな心の動きを歌っているのではないかと思います。

語り手の心情描写

 では、金木犀の香りをきっかけに、語り手はどんな気持ちになったのでしょうか。歌詞には「たまらなくなって」とあります。

 「会いたい」や「寂しい」という直接的な言葉を使わず、「たまらなくなって」という言葉を使ったところに、この曲の感情表現の繊細さがあらわれています。

 つまり、言葉にできるような感情ではなく、言葉におさまりきらないグラデーションになった感情を、この歌は表現しようとしているのではないかと思います。

 語り手の言葉にできない感情を、さらに詳細に描き出すように、Bメロでは次のように歌われます。

期待外れな程
感傷的にはなりきれず

 もっと感傷的な気分になってもいいはずなのに、そんな気持ちにはならない。会いたいという気持ちだけでも、寂しいという気持ちだけでもなく、諦念や愛情や自分自身でもわからない感情の渦が、ここでは描写されているのではないかと思います。さらに、サビの最後は、次の一節で結ばれます。

何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道

 1番のサビ、そして曲のラストにあたる2番のサビで、共通してこのように歌われています。ここでも、語り手の言葉には変換しがたい感情が、端的に表現されていると言えるでしょう。

季節と状況、金木犀と感情のパラレルな関係

 「赤黄色の金木犀」の歌詞は、ふたつの変化について歌っています。それは季節の変化と、語り手の「あなた」の関係性の変化です。この曲のなかでは、夏から秋に移り変わる季節の変化と並行して、語り手と「あなた」の関係性の変化、語り手の感情の動きも描写されています。

 同時にこの曲では、グラデーションのような境界線の曖昧な、ふたつの対象についても歌われています。ひとつは、オレンジ色とは言い切れない赤黄色のキンモクセイの花の色、そしてふたつ目は、語り手の言葉には割り切れない微妙な感情です。

 季節の変化と、感情の変化。色彩が絶妙で言葉にしがたい花の色と、言葉には変換しがたい複雑な心情。季節の移り変わりによって心が動くこともありますし、心情の変化によって風景が変わって見えることもあります。

 言語化が難しいふたつの事柄を、1曲の中で並行させて同時に扱うことで、より表現の強度を高めていると言えるのではないかと思います。

 この曲では、金木犀の香りがトリガーとなって、語り手の感情がドラスティックに動いています。しかし同時に、この「赤黄色の金木犀」という曲がトリガーとなって、リスナーの感情が揺さぶられる、という状況もあり得るのではないでしょうか。

 このように心を動かす可能性があるというのも、音楽の魅力のひとつです。

 





andymori「1984」における散文的表現と詩的表現


 「1984」は、andymoriの楽曲。作詞作曲は小山田壮平。2010年2月3日発売の2ndアルバム『ファンファーレと熱狂』に収録されています。

 どこが優れているのか言語化しにくいけれど、不思議な魅力にあふれた1曲。イントロからアコースティック・ギターを使用し、ゆったりとしたテンポで、牧歌的な風景が浮かんでくるようなサウンド・プロダクション。

 コード進行もヴァースからコーラスまで共通で、後半にキーを上げるように転調する部分がありますが、基本的には4つのコードが循環しているだけ。

 それなのに、単調な印象はなく、ヴァースからコーラスへの盛り上がり、イマジネーションをかきたてる言葉の数々など、ポップ・ミュージックが持つ魅力を存分に持っています。

 「1984」が教えてくれるのは、音楽を構成するパーツそれぞれはシンプルでありふれたものでも、かっこいい音楽を作り上げることは可能だ、ということだと思います。

 前述したように、この曲ではヴァースとコーラスでコード進行が変わりません。それにもかかわらず、ヴァースとコーラスはコントラストを成し、進行感があるのはなぜか。

 ひとつには、ボーカルが歌うメロディーの違い。特にコーラスではヴァースに比べて、ファルセットを用いた高音が、盛り上がりを演出してくれます。しかし、使用する音域が異なっているということ以上に、メロディーのリズムと譜割りが、コーラスとヴァースの印象を大きく変えています。

 このメロディーの差違を生み出しているのは、歌詞によるところが大きいのではないか。歌詞の質の違いが、メロディーの違いにもあらわれているのではないか。そして、歌詞の表現自体にも特異な部分がある、というのが僕の仮説です。

 それでは、その仮説に基づいて、歌詞の分析と考察をおこなっていきます。

ヴァース部分の歌詞

 ヴァース部分では、散文的な歌詞が続きます。以下は、1番のヴァース部分の引用です。

5限が終わるのを待ってたわけもわからないまま
椅子取りゲームへの手続きはまるで永遠のようなんだ
真っ赤に染まっていく公園で自転車を追いかけた
誰もが兄弟のように他人のように先を急いだんだ

 時間をあらわす「5限」、場所をあらわす「公園」、時間帯と風景をあらわす「真っ赤に染まっていく」などなど、具体的な情報とイメージを持つ言葉が並びます。

 また、改行が少なく、例えば1行目の「待ってた」は、通常の文章ならそこで終わりそうなところですが、その後にスペース無く言葉が続いていきます。

 そして、これらの歌詞にあてられたメロディーも、流れるようになめらか。歌詞とメロディーがほとんど一体化しているように感じられます。

コーラス部分の歌詞

 それに対して、コーラス部分の歌詞はどのようになっているでしょうか。以下は、コーラス部分の引用です。

ファンファーレと熱狂 赤い太陽 5時のサイレン 6時の一番星

 ヴァースでは散文的に言葉がつづられていたのが、コーラスに入ると一変して、名詞が並びます。しかし、言葉の選び方はヴァースと共通していて、ある具体的な情報をともなった、イメージの浮かびやすい単語が続きます。

 話し言葉のような自由で散文的なヴァースと、イマジナティヴな言葉が並列するポエティックなコーラス。メロディーとボーカリゼーションもそれに準じて、語りかけるような細かい譜割りから、より旋律的なものへ変化しています。

 このコントラストが、曲に進行感を持たせ、コーラス部を際立たせていると言えるでしょう。

歌詞の内容

 では、歌詞の内容についてはどうでしょうか。前述したように、時間や場所などある程度は情報が与えられるものの、わかりやすいストーリーは提示されません。これはヴァースでもコーラスでも共通しており、むしろヴァースでの方法論が、コーラスではより先鋭化したかたちで実行されているようにも思えます。

 まず、ヴァース部分の歌詞を見ていきましょう。歌い出しの「5限が終わるのを待ってた」という一節と、ヴァース内の時制がすべて過去であることから、歌詞の語り手は現在の視点から、学生時代のある時期を回想していることが示唆されます。さらに「椅子取りゲーム」という単語からは、小学生ぐらいの年齢であることが推測できるでしょう。

 しかし、具体的な感情やストーリーが語られることはありません。印象的なフレーズが並び、小学生ぐらいの放課後のイメージがリスナーには喚起されます。すなわち、5限が終わるのを待つあの感じ、日が暮れていくなか家を目指すあの風景。多くの人が持っているであろう過去の一場面が、フラッシュバックのように喚起される歌詞だと言えます。

 コーラスに入ると、イメージをともなった言葉が、文章とはならずに名詞のかたちで歌われ、リスナーはますますイマジネーションを刺激されます。語り手が具体的にどのような場面を歌っているのかは、判然としません。

 しかし「赤い太陽」「5時のサイレン」と次々と投げられる言葉のイメージが、自分の過去の記憶と結びつき、音楽を聴きながら風景や感情が呼びさまされる。曖昧性を持った歌詞なのに、いや曖昧性を残した幻想的な歌詞であるからこそ、そのような効果を持っていると言えるのではないでしょうか。

 僕はこの曲を初めて聴いたとき、通常の日本語の機能の仕方とは全く違うかたちで意味が伝わってくるので、まるで外国語の歌を聴いているような、不思議な感覚を持ちました。

歌詞のなかのロック性

 政治性や思想性と書くと、言葉が強すぎるので敢えてロック性と表現させていただきますが、「1984」の歌詞にはロックがあつかうような要素も感じられます。

 このように説明すると、一気に陳腐になってしまいますが、過去の風景を描写するだけでなく、過去のある時期の感情をも同時に描写している、程度の意味だとご理解ください。

 例えば、1番のヴァースに出てくる「わけもわからないまま」や、2番のヴァースの全編。これらの部分からは、大人の価値観をなにも考えずに受け入れている段階から、その価値観に疑問を持ちつつも反発することもない、そのような絶妙な心情が伝わってきます。

 風景の描写がリスナーの過去の記憶に結びつくのと並んで、誰もが思春期に持つであろう心情にも結びついた歌詞と言えるのではないでしょうか。

 以上のように、曖昧性を残したイマジナティヴな歌詞が、リスナーの過去の記憶と結びつき、風景や心情がリアリティーをともなって浮かんでくる1曲です。

 同時に、散文的なヴァースと詩的なコーラス、それに対応したメロディーのコントラストも、イマジネーションを喚起する一因になっているのではないかと思います。

 





Base Ball Bear「すべては君のせいで」には青春の全てが詰まっている


 「すべては君のせいで」は、Base Ball Bearの楽曲。作詞作曲は小出祐介。2017年4月12日発売のメジャー7枚目のアルバム『光源』に収録されています。

 青春には、甘酸っぱくキラキラした面もありますが、その裏にはこの時期特有の影も存在します。Base Ball Bearというバンドは青春をテーマにしながらも、その光だけではなく影の部分もフェアに描写するところ、しかも1曲のなかにその両面をおさめるところが、本当に信頼できます。

 「すべては君のせいで」も、まさに青春のリアリティが詰まった1曲。この論では、この曲が持つ両面性と、表現における優れた技巧について、考察していきたいと思います。

状況説明の巧みさ

 小出さんの書く歌詞は状況説明が巧みで、いつもハッとさせられます。「状況説明」と書いてしまいましたが、この表現はちょっと不適切で、正確にいうと説明的ではないのに、少ない言葉で、具体的な状況や繊細な感情を描き出すことに、成功しているということです。

ある日突然 幽霊にされた
僕を置き去りに今日も教室は進む

 引用したのは歌い出し部分の歌詞。いきなりいじめを連想させるような表現に、耳を奪われます。「教室」という言葉ひとつで、この曲の舞台が学校であることが分かりますし、「幽霊にされた」「僕を置き去りに」という表現からは、いじめの質が見えてきます。

 たった2行で、語り手である「僕」の状況が詳細に描き出されるその手法は、見事としか言いようがありません。しかも、音楽的にはセブンスを含んだ四和音を多用し、コードのヴォイシングもサウンド・プロダクションも、非常に凝った耳触りのオシャレなもの。

 そんなサウンドとは裏腹に、イントロから「幽霊」という印象的な言葉を使いながら青春の暗い面を描き、リスナーを曲の世界観に引き込んでいきます。

「君」の存在

 前述したように、最初の2行では暗い学校生活のイメージが提示されます。それでは、この曲は青春の暗さを歌った曲かといえばそうではなく、続く歌詞で「君」が登場します。「すべては君のせいで」というタイトルのとおり、これ以降は一貫して「君」のことが歌われます。以下は、サビ部分の歌詞の引用です。

すべては君のせいで 毎日が眩しくて困ります
すべては君のせいで ああ、心が♯していきます

 暗く辛そうなAメロ部分とは打って変わって、「君」の眩しさが歌われています。また、「幽霊にされた」学校生活とのコントラストで、「君」という存在の眩しさが、より際立っています。

 しかし、歌詞の中で「僕」と「君」の関係性に進展があるのかというと、そうではなく、「毎日が眩しくて困ります」というフレーズにも集約されているように、ひたすら「君」の眩しさが歌われていきます。青春時代の甘酸っぱい淡い恋心。その感情が、この曲には完璧にパッケージされていると言えるでしょう。

 引用したサビ部分の歌詞にも、感情をあざやかに描き出した表現があります。それは「心が♯していきます」という部分。

 ♯(シャープ)とは音程を半音上げる記号のことですが、1音上がりきるのではなく半音というところに淡い心が感じられますし、♯という記号を歌詞の中で文字通り記号的に使い、リスナーのイマジネーションを刺激しているところにも、全く無駄がありません。

 ここでも、「僕」の感情をこまかに説明しているわけではないのに、どのような心情なのか、手に取るように伝わります。

 このような効果的な表現が、この曲の中にはいくつもあって、例えば2番のAメロには、次のフレーズが出てきます。

君が微笑む みんなの輪の中で
たまらなくなって ハードロック雑誌に目を落とす

 「ハードロック雑誌」という一言で、「僕」の性格や趣味など、人間描写の精度が著しく高まっています。また、引用部では時間設定は明らかにされていませんが、休み時間中に「君」はみんなの輪の中にいて、「僕」はひとり席に座ってハードロック雑誌を読んでいる様子が自ずと想像でき、ドラマのワンシーンのようなイメージが目の前に広がる感覚があります。

 また、この曲では「君」の存在がメイン・テーマとして歌われていくわけですが、「君」の具体的な描写は、容姿の面でも性格の面でも全くありません。強いて言えば「自転車通学のヘルメットありの」という部分でしょうか。

 しかし、この部分も髪型やファッションを描写しているわけではなく、あくまで制服の一部のようなものです。「君」のことを細かく描写しないことで、ますます「君」の眩しさ、言い換えれば神性が高まり、青春時代の甘酸っぱい一方的な恋心を、浮かび上がらせているのではないかと思います。

青春の二面性

 以上のように、導入部ではいじめを連想させるような描写、そしてその後は「君」の眩しさを歌っています。そこには、学校になじめない憂鬱から、眩しさに目がくらむだけの恋心まで、青春という病理が抱える光と闇が共に含まれています。

 音楽的にも、疾走感溢れる8ビートで走るのではなく、メンバー同士で高度なコミュニケーションを楽しむようなグルーヴが、歌詞と見事に調和しているのではないかと思います。言葉と音がひとつになることで、明るさと暗さの中間を表現できるのが音楽の魅力であると、あらためて教えてくれる1曲です。

 





赤い公園「カメレオン」は変奏的なアレンジが秀逸


 「カメレオン」は、赤い公園の楽曲。作詞作曲は津野米咲。2017年8月23日発売の4thアルバム『熱唱サマー』に収録されています。

 アルバム『熱唱サマー』の1曲目に収録されている「カメレオン」。アルバムの1曲目にふさわしく、イントロから音楽的なフックと疾走感に溢れた、リスナーの耳を掴む1曲です。

 Aメロからサビに至るまで、どのように盛り上がり、高揚感を得られるかが、ポップ・ミュージックの醍醐味のひとつですが、その点でも「カメレオン」は秀逸。Aメロで溜め込んだエネルギーが、サビで一気に解放される展開からは、カタルシスが得られることでしょう。

 サビで一気に盛り上がり、高揚感が得られるという点では、この曲は間違いなくポップなのですが、アレンジメントには実験性も持ち合わせています。

 いや、「実験性」と表現したのはちょっと不適切で、実験のための実験に陥るのではなく、あくまで楽曲を魅力的にするために試行錯誤を重ね、結果的に一般的でない音やアレンジメントが含まれているということ。

 フランクな言葉で言い換えれば、なんか変な音がいっぱい入ってるけど聴くとめちゃくちゃ楽しい!ということです。

楽曲の構造

 この曲の構造を書き出すと、以下のようになります。

イントロ→Aメロ→サビ→間奏→Aメロ→サビ→間奏→サビ

 イントロはスネアの連打から始まり、その後に入ってくるギターとベース、そしてホーン・セクション。ロック・バンドがホーンやストリングスを導入する場合、折衷的になってしまい必ずしも導入の必然性が感じられないこともありますが、「カメレオン」におけるホーンは非常に有機的にバンドと融合しています。

 まず、このイントロ部分では、複数のホーンが一斉に8分音符で同じ音を吹き始め、音の壁のような厚みのあるサウンドを構築しています。ここで感じるのは、ユニゾンの強さ。

 多くの楽器が同じ旋律をプレイするのは、わかりやすくダイナミズムを感じ、聴いていて非常に気持ちがいいものです。特にこのイントロ部分では、フレーズ頭の2音を除いて、同じCの音を繰り返すだけ。同じ音を8分音符で刻むだけで、こんなにもかっこいい音楽になるのか、と新鮮な驚きがあります。

 Aメロに入ると、ホーン隊が一旦抜け、バンドのみに。ここで特に活躍しているのがギターです。ホーンが抜ける分、イントロとの対比でバンドのサウンドが前景化され、各楽器の音に集中しやすくなります。

 それまでより音数の少ないなかを、足がもつれることも気にせず勢いで突っ走るようなギターが、疾走感とスリルを生み出しています。サビ前には、ギター以外の楽器がブレイクしたところで、ギターがカウントを取るようなフレーズを弾いて、いよいよサビへ。

 ここで、イントロに続いて再びホーン・セクションが入ります。しかも、ここで吹かれるのは、イントロ部と全く同じフレーズ。Aメロで助走をつけてサビで思いっきりジャンプするような、Aメロで溜め込んだエネルギーをサビで一気に爆発させるような高揚感がここにはあります。

 クラシックでも展開部を終えて主題に戻ってきたとき、ジャズのビバップでも即興部分が終わりテーマのメロディーが戻ってきたときに、一種の高揚感と解決感が生まれますが、「カメレオン」の展開も同様の構造を持っています。

 イントロで聴いたシンプルでかっこいいリフが、イントロ部にはなかったボーカルのメロディーも伴って戻ってくる。その爽快感は、まさに音楽によって得られるカタルシスです。

変奏的なアレンジメント

 ここまででも十分に魅力的な楽曲なのですが、赤い公園はAメロとサビを同じアレンジメントで繰り返すことには飽き足らず、さらなる展開があります。

 まず、2番のAメロには、1番とは違い途中からホーンが入ってくるのですが、ユニゾンで吹くのではなく、フレーズを自由に吹いているような印象。1番のAメロと比べても、躍動感と疾走感が増していて、変奏と言っていいアレンジメントです。

 2番のサビは1番のサビとほぼアレンジが変わらないものの、間奏を挟んでからのサビではまたアレンジを変え、最後のサビとのブリッジのような役目を果たしています。

 このように、Aメロとサビの単純なコントラストだけではなく、イントロのフレーズがサビで再び登場したり、ホーンを効果的に使ったりと、音楽的なフックが至るところに仕掛けられており、ジェット・コースターのような疾走感とスリルのある1曲です。

 しかも、ただ勢いがあるだけではなく、音楽的な伏線を次々に回収していくような、緻密な面もあります。歌詞にも少しだけ言及させていただきますが、この曲のテーマは自分探しをしても本当の自分なんて相対的なものでしかない、というようなことだと思いますが、それを全く悲観的ではなく、ポジティヴに描き出しているところも魅力です。

 赤い公園のメンバーが、どのような音楽的なバックボーンを持つのか、クラシックやジャズに造詣が深いのかは存じ上げませんが、音楽に対して非常に真摯で、才能溢れるミュージシャンの集まりであることは、この1曲からも垣間見えます。