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ねごと「ふわりのこと」 ふわりの意味と歌詞考察


 「ふわりのこと」は、ねごとの楽曲。作詞は蒼山幸子。作曲は沙田瑞紀と蒼山幸子。

 2011年発売の1stフルアルバム『ex Negoto』に収録されています。

 音楽、特に歌詞を持つポップ・ミュージックの魅力のひとつは、「悲しい」とか「嬉しい」といった言葉におさまりきらない感情を表現できるところだと思っています。

 言葉がメロディーに乗ってサウンドの一部となることで、嬉しいとも悲しいとも言えないぐらい些細な心の動き、嬉しさの中にある悲しみや不安など、言葉だけでは表現できない微妙な感情を描き出せる。しかも、たった数分間の1曲で。僕は音楽のそういうところが好きです。そして、この「ふわりのこと」という曲にも、僕が求める音楽の魅力がギュッと詰まっています。

 ここでは「ふわりのこと」の歌詞解釈を中心に、この曲の魅力をお伝えしたいと思います。

歌詞の世界観

 「ふわりのこと」というタイトルからして不思議。歌詞も一聴すると、つかみどころが無いようですが、風景や感情が自然と浮かび上がってくるような内容。「イマジネーションの洪水」ではなく、「イマジネーションのそよ風」といった趣で、歌詞も含めた音楽が心にやさしく沁みこんでくるようです。

 登場人物は「ぼく」と「きみ」の2人。「ぼく」の視点から、「きみ」のことを語っていく構造です。まず、1連目の歌詞を引用します。

駅まで続く小さい道
ここにいるのはぼくと風だけ
世界の約束
揺れるよ音
ふわりきみまで届いてね

 2行目に「ここにいるのはぼくと風だけ」とあります。この表現から「ぼく」が1人だけで、駅まで続く道を歩いていること。そして、風が感じられるほど静かなのか、それとも「ぼく」が風を感じるほどに感受性を研ぎ澄ました気分でいるのか、あるいはその両方か、といったことが読み取れます。

 また、1行目の「小さい道」という表現。ここも「狭い道」や「細い道」ではなく、あえて「小さい道」としたことで、意味やイメージに広がりが生まれています。単純に幅の狭い道という意味だけではなく、自分にとって身近であるために存在感を小さく感じる、そんな雰囲気まで感じとれます。

 「ふわりのこと」の歌詞は、このように断片的なイメージや感情が喚起される描写が続き、心の中にゆっくり浸透していくような、不思議な魅力を持っています。

「ふわり」の意味

 次に、タイトルの一部にもなっている「ふわり」について。この言葉は、いったい何を意味するのでしょうか。「ふわり」という言葉は、2回出てきます。1回目は先ほど引用した「ふわりきみまで届いてね」の部分、そして2回目は歌詞の最後の行の「ふわり明日まで響くよ 音」というところです。

 この2ヶ所の引用部分から「ふわり」は、名詞か副詞であることが推測されます。まず「ふわりきみまで届いてね」という部分の「ふわり」は、「きみ」への呼びかけであり、「きみ」を指す固有名詞であるともとれます。そう解釈するなら、「ふわり」と「きみ」はイコールということです。しかし、副詞であるという解釈も可能です。この場合は、音が届く様子を「ふわり」と表現しています。

 さて、歌詞の中の「ふわり」は、どちらの意味で使われているのか。僕は、名詞と副詞どちらとも取れるように、意図的にこうした表現にしたのだと思います。手元にある広辞苑をひいてみると、「ふわり」という言葉には、副詞としては「軽くただようさま。軽くそっと載せるさま。」という意味があります。まさに、この曲の雰囲気をあらわしたかのような意味です。

 「ふわり」は「きみ」の名前であり、「きみ」がどんな人なのかをあらわす言葉でもあり、歌詞の中では副詞としても機能している。そうした多層的な使われ方をしている、というのが僕の考えです。そう解釈すると「ふわりのこと」というタイトルの意味も、すっと腑に落ちます。

「ぼく」は何を語っているか

 続いて、語り手の「ぼく」が語っている内容について。前述したように、この曲の歌詞では「ぼく」が「きみ」について語っていきます。サビ前から1番のサビまでの歌詞を引用します。

最近のきみといえば 生き物や花を育て始めた
他にすることないのと聞けば 大切なことなんだよって言った

そういうきみは素敵だったな
思い出して左目が熱い
なんだか明日も頑張ろうかなあ
優しい夜になってゆけ

 引用部1行目では、「きみ」が「生き物や花を育て始めた」とあります。そして、その後に続くサビでは「そういうきみは素敵だったな」。この引用部から伝わるのは「きみ」の優しさと感受性の豊かさに、「ぼく」の心が動いているということ。

 では「ぼく」の心はどのように動いたのか。引用した部分の歌詞には「なんだか明日も頑張ろうかなあ」とあります。この表現から、感動した!と言うほどには瞬時に大きく心が動いたわけではなく、じんわりと優しい気持ちになれたことが示唆されます。このように1曲をとおして、「ぼく」が「きみ」を思うなかで、様々な感情をもらったことが、語られていきます。

歌詞の出来事の少なさ

 「ぼく」の心の動きを繊細に歌っていくこの曲。それと同時に、大きな出来事が起こらないところも、この曲の特異な点です。例えば、先ほど引用した「生き物や花を育て始めた」という部分。もし、この部分が「きみ」が「ぼく」に対して、なにか感動するようなことをしてくれた、言ってくれたという内容だったら、もっとわかりやすいラブソングになっていたことでしょう。

 しかし、この曲は、状況説明や人間関係におけるストーリーは最低限にとどめ、微細な心の動きに焦点を合わせています。具体的なストーリーと、2人の関係性を説明しすぎないことで、「好き」「嫌い」「悲しい」「嬉しい」といった言葉の中間のような、微妙な感情を描き出せるのだと思います。具体的に何ヶ所か歌詞を引用し、そこから何が読み取れるか見ていきましょう。

いくつもの水たまりを越えて
変わり続ける想いを越えて
どれくらいのことを知れるんだろう
ぼくらはまだ始まったばかり

 1番のサビが終わり、2番の最初の部分。内容としては「ぼく」と「きみ」が、これから時間を重ねて、どうなっていくのか、ということを歌っています。この引用部でも、2人は友人なのか恋人なのか、関係性は曖昧なままはっきりとは語られません。

 その代わりに、曖昧だからこそ、奥行きのある言葉が並びます。1行目の「水たまりを越えて」は、意味としては困難を越えていくということでしょうが、日常のなかのさりげない問題を解決していくというニュアンスがあります。

 3行目の「どれくらいのことを知れるんだろう」というのも、2人の関係性において「ぼく」が「きみ」のことをどれくらい理解できるだろうか、という意味にもとれるし、もっと広く人生においてどれだけのことを経験できるだろうか、という意味にもとれます。

 次に歌詞のラストの部分を引用します。

涙が出てしまうのは
忘れてないからだよ
弱いぼくらの強さを
いつもごめんね 早く帰ろう
ふわり明日まで響くよ 音

 この引用部では、涙が出る理由は「弱いぼくらの強さを」忘れていないからだと、説明されています。嬉し涙や、悲しいときに流れる涙もありますが、はっきりと理由は言えないけど、感情で胸がいっぱいになってしまって、気づいたときには流れている涙もあります。引用部から伝わるのは、そんな涙です。

歌詞全体の意味

 ここまで「ふわり」の意味と、歌詞の一部について考察してきました。では、歌詞全体としては、なにがテーマとなっているでしょうか。それは、人との出会いでもたらされる心の変化だと思います。

 「ぼく」は「きみ」と出会い、その感受性に触れることで、自分も以前よりも優しく、感受性豊かになれた、ということを歌っているのだと、僕は思っています。友人だろうと恋人だろうと、人間関係の良いところは、交流をとおして様々な感情がもらえること、そしてその人の影響を受けて自分が変われることです。

 この曲の語り手である「ぼく」も、「きみ」との交流をとおして、「なんだか明日も頑張ろうかなあ」「今日はいい夢見れそうだから」と、穏やかな感情になっています。単純なラブソングにはせず、「きみ」に大切な誰かを代入できるよう曖昧な部分を残していることで、この曲は普遍性を獲得し、誰が聴いても「ぼく」が「きみ」にもらったような優しい気持ちになれる1曲に仕上がっています。

アレンジと楽曲の構造

 さて、ここまでで記事のタイトルにした「ふわりの意味と歌詞考察」については、言いたいことは言い終わったのですが、最後に少しだけ音楽面についても述べさせていただきます。

 イントロから0:42あたりまではピアノとボーカルのみ。この部分のピアノは音数も少なく、「ここにいるのはぼくと風だけ」という歌詞とも重なるような、隙間を感じるアレンジです。歌詞とメロディー、サウンドの親和性が高く、さすが、こういうところは自作自演のバンドの良いところ。

 また、この曲は基本的にAメロ→サビが循環する構造になっていますが、サビ以外のメロディーは全て変奏のように違う部分があります。4:22あたり、歌詞でいうと「ほんのすこしだけ息を吸って」からのメロディーも、最初はサビと共通しているものの、途中からやはり別の展開を見せます。

 アレンジについても、前述したようにイントロからしばらくはピアノとボーカルのみ、1:01あたりからは8ビート、2:19からは前のめりになったハネるようなリズムで、メロディーは共通していても、アレンジを変えています。そのため、6分以上ある楽曲なのに、次々と風景が変わっていき、飽きることなく最後まで(ふわりと?)聴けてしまいます。

 言葉と音楽が、完璧に溶け合った「ふわりのこと」。ちなみにチャットモンチーがライブ(2011年12月4日の「チャットモンチーの求愛ツアー」Zepp Tokyo公演)で、カバーしたこともあります。ねごとの曲の中でも、特に好きな1曲です。

 





東京カランコロン「泣き虫ファイター」 キャッチボールから見える2人の関係性


 「泣き虫ファイター」は東京カランコロンの楽曲。2012年発売のミニアルバム『ゆらめき☆ロマンティック』、2013年発売のアルバム『We are 東京カランコロン』に収録されている。作詞は元チャットモンチーの高橋久美子。

 チャットモンチー在籍時から、作詞家としてもドラマーとしても大好きだったクミコンこと高橋久美子さんの作詞。高橋さんの書く詞は、日常的な言葉を使いながら、状況を見事に描き出していて、いつも新鮮な驚きがあります。「泣き虫ファイター」の歌詞も、少ない言葉で人間関係を鮮やかに描き出しています。そして、東京カランコロンのメロディーと演奏も素晴らしい。では、ここからこの曲の詞の情景描写の巧みさと、それがメロディーにのったときの気持ちよさについて、ご説明させていただきます。

歌詞の登場人物

 歌詞に出てくるのは「語り手」「あなた」「あの子」の3人。「語り手」が自身の心情を、語っていくのが歌詞の内容です。まずは歌い出しの歌詞。

ない ない ない ない 泣いた
ちっともなんだかくちゃくちゃ頭でごっそり根こそぎばっちりがっつり泣いた

 語り手の情緒不安定な様子が伝わってきます。では、語り手がこんなにも泣いている理由はなにか、その答えは続く歌詞で明らかになります。

ない ない ない ない ナイター
想像するだけ目玉はらんらんあなたはお馬鹿なあの子と今夜もナイター

 語り手の元恋人か、もしくは片想いの相手だった「あなた」が、今は「お馬鹿なあの子」と一緒にいる、つまり語り手は失恋したために、泣いているのだということがわかります。

「語り手」と「あなた」の関係性

 サビでは「語り手」と「あなた」の関係性が、少ない言葉で、的確に表現されます。

夜中の校庭と月
真夏の向こう 私が投げたフォークボール
平気な顔で受け止めてくれたあの手

 ここでは、真夏の夜に校庭でキャッチボールをしたことが描写されています。文字通りに言葉を受けとるとそれだけなのですが、この短い数行に、驚くほど多くの情報が圧縮されています。

 「言葉のキャッチボール」という表現があるように、キャッチボールはしばしば会話に例えられます。引用した部分で「語り手」は、フォークボールを投げています。フォークボールは、打者の手前で急激に落ちる変化球で、空振りを狙う球種。そんな捕りにくいボールを、「あなた」は平気な顔で受け止めてくれた、とあります。

 これを会話に置き換えると、いつも素直になれず変化球のような表現になってしまう「語り手」の言葉を、「あなた」はいつでも余裕を持って受けとめてくれた、ということ。このわずか2行の歌詞から、2人の関係性、2人の性格までもが、あざやかに浮かび上がってきます。

球種を使ったメタファー

 このような言葉の置き換えは、比喩表現のなかで、特にメタファーと呼ばれます。球種で言葉使いを説明するメタファーは、歌詞の後半にも再び出てきます。

アイスクリーム溶けること気づかないほど
好きだったよ 今更投げこんだ直球

 この引用部分からは「語り手」が「あなた」に、最後まで好きだと言えなかった、あるいは素直な言葉をかけられなかった、気持ちとは反対にトゲのある言葉を言ってしまった、という状況が推測できます。

 状況説明をしているわけではないのに、「フォークボール」というたったひとつの言葉がヒントになって、「語り手」と「あなた」の性格、2人の関係性、恋のなりゆき、「語り手」の今の心情までが伝わってきます。1曲の歌詞に、ここまでのドラマと人間性を込められるなんて、見事と言うしかありません。

 そして「フォークボーク」と対比させて「直球」、夜に2人で出かけるという意味で「ナイター」を使うことで、さらに情報を圧縮して伝えています。これで「フォークボール」の意味もますます活きますし、野球をモチーフにすることで歌詞にも確固たる世界観が生まれます。本当に、こんな手際よく言葉をあやつれる人は、なかなかいないでしょう。

Aメロとサビの対比

 次にこの曲の音楽面での構造について。この曲はAメロとサビから成り立っており、BメロやCメロを挟まない、構造的にはシンプルな楽曲と言えます。しかし、この2種類のメロディーは、歌詞的にも音楽的にも綺麗な対比をなしており、構造のシンプルさが楽曲にメリハリをつけています。

 まずAメロ部分は、音楽の面ではコードはGひとつだけ、歌詞の面では「語り手」が心情をとっちらかったままに吐き出していきます。先ほども引用した「ちっともなんだかくちゃくちゃ頭でごっそり根こそぎばっちりがっつり泣いた」という部分など、早口言葉のような譜割りで、「語り手」のテンパっている様子が伝わってくると言えるでしょう。

 また、前述したように、このAメロ部分で使われるのはGのコードのみです。メロディーも音程の動きは少なく、使われている音はF(ファ)、G(ソ)、B(シ)のわずか3つ。ですが、コードが進行してないなぁ、という停滞感は感じず、切迫感や焦燥感が溢れています。その理由は、早口言葉のようなメロディーと譜割り、そして各楽器が回転するように動き回っているためでしょう。

 サビになると、ワンコードで駆け抜けたAメロとは打って変わって、目まぐるしくコードが進行しています。それに準じてメロディーも、勢いのあったAメロと比べて、メロディアスで印象が一変します。

歌詞、メロディー、アレンジの一体感

 ここで、また歌詞に戻って考えてみると、Aメロ部分では「語り手」が現在の感情をそのまま吐き出すような歌詞でした。それが、サビ部分では「ねえ、覚えてる?」という問いかけから始まり「あなた」と一緒にいた思い出を語る歌詞になっています。

 Aメロ部分は、感情をそのまま吐き出すような歌詞で、メロディーと演奏も勢いを重視したもの。サビ部分は、思い出を振り返る歌詞で、歌ものらしいメロディーとアレンジ。歌詞と音楽の両面で、まるでAメロとサビで今と昔を行ったり来たりしているように、見事な対比をなしています。

 このように音楽と歌詞が、分けられないぐらいに有機的にひとつになっていて、お互いを高め合っている曲に出会うと、音楽を好きでいてよかったなと思います。高橋さんの歌詞だけでもイマジネーションをかき立てられるのに、音楽がさらに彩りを加えて、見たことのない風景、自分が感じたのではない感情が、自分の経験のように感じられて…音楽には様々な機能と魅力がありますが、こういう経験ができるというのも魅力のひとつですよね。

 





フジファブリック「若者のすべて」が描く心情風景


目次
イントロダクション
歌詞の語り手、季節、時間
語り手の心情
言葉と音の一体感
「若者のすべて」が描く心情風景

イントロダクション

 「若者のすべて」は、2007年11月7日発売のフジファブリック10枚目のシングル。作詞作曲は志村正彦。アルバム「TEENAGER」にも収録されています。

 一聴すると、アレンジもメロディーもサウンドもシンプルで派手なところがなく、落ち着いた曲。僕も初めて聴いたときは「まぁいい曲かな」という程度の感想でした。

 しかし、聴けば聴くほどに、音楽が心に染み込んできて、今では聴くと涙が溢れるぐらいエモい気分になります。

 なぜ僕がこの曲を聴くとエモい気分になるのか、その理由を一言であらわすなら、心情風景を描き出していること。単純化された「悲しい」とか「寂しい」という感情ではなく、人生のある時期のある感情が丁寧に描き出されていて、だから聴いた人にリアリティを伴って響くのだと思います。

 しかも、歌詞が心情風景を説明しているということではなく、歌詞、メロディー、アレンジが有機的に風景を描き出しているんですよね。では、ここから僕なりの歌詞解釈、そして演奏の聴きどころをご説明させていただきます。

歌詞の語り手、季節、時間

 まずは歌詞の語り手、時間設定などを確認しましょう。この曲には「僕」や「私」のような一人称代名詞は出てこないものの、語り手の心情がそのまま言葉になって流れていくような歌詞になっています。歌い出しは下記のように始まります。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

 季節は「真夏のピークが去った」ということで、8月下旬から9月ぐらいだと想定できます。また、その後に続く「天気予報士がテレビで言ってた」、「気がしている」という表現から、語り手の精神状態がうかがえます。

 語り手は、夏休みが終わってしまう前の、なんとも言えないぼんやりとした気持ちなのではないでしょうか。そして、歌詞は次のように続きます。

夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて

 ここでは「夕方5時」という具体的な時間が示されます。季節は「真夏のピークが去った」頃、時間は「夕方5時」。それぞれ季節の終わり、昼間の終わりを感じさせるという点で、共通しています。

語り手の心情

 それでは次に、語り手の心情がどのようなものか確認しましょう。前述したとおり「終わり」を感じる季節、時間にあって、語り手は感傷的な気分になっているようです。

 それは「天気予報士がテレビで言ってた」という受け身で投げやりともとれる表現や、毎日流れるであろう夕方5時のチャイムが、この日に限って胸に響いているところから読み取れます。そして、サビへと入ります。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 サビの部分からは、語り手に会いたい人がいるようだ、ということが推測できます。しかし、その相手が誰なのか、具体的には書かれていません。それが、2番のサビ、この曲の最後の部分の歌詞では、次のように綴られます。

ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな

最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 語り手は、花火の会場で会いたかった人に会えていますね。普通に解釈するならば、相手は好きな異性ということでしょう。歌詞全体を見渡してみると「真夏のピークが去った」「夕方5時」「街灯の明かりがまた 一つ点いて」など、季節や昼の終わりを感じさせる言葉が散りばめられています。

 終わりの予感を感じるときに、自分の片思いも終わるかもしれない、そんな語り手の言葉にしがたい感情を僕は感じます。ただ、実際にそうかどうかは、歌詞には全く書かれていないのですが。

 状況説明を最低限にとどめ、語り手の心情にフォーカスしているところが、この曲の特異な点であり、魅力です。もし、具体的に語り手と相手の関係を描写していたら、私とあなたのラブソングで終わってしまう。

 そうはしないで、「ああ〜、その気持ち、そういう感じわかる!」という感情を描き出しているので、結果として多くの人の心の深いところに響くのではないかと思います。

言葉と音の一体感

 さて、ここまで歌詞の解釈をしてきましたが、この曲の素晴らしいところは、バンドのアンサンブルが歌詞とぴったり寄り添い、言葉の魅力を引き上げているところにもあります。

 言い換えると、バンドの音があることによって、歌詞の意味がより一層伝わるようになっているということ。

 イントロとAメロでは、どの楽器も8分音符が基本で、落ち着いた雰囲気で始まります。ここでは、ベースは8分音符、ドラムもシンバルは8分音符、ピアノの右手は2分音符を弾き続けています。

 また、音も1小節単位で同じ音を出し続けており、リズム的にも音程的にも、枠をはみ出してくるような音がほとんどありません。

 これが、歌詞でいうと「夕方5時」から始まるBメロに入ると、ドラムが2小節ごとにバスドラを8分音符で3つ「タタタっ」と入れたり、ピアノの右手が4分音符になって音に動きが出てきたりと、徐々に音楽的に盛り上がっていきます。

 そして、サビ前。ギターがジグザグに上がっていくフレーズを弾くと、それに続けてピアノも上行していくフレーズを弾いて、サビに入ります。

 歌詞の世界観に合わせて聴いていくと、Bメロのバスドラは夏が終わっていく足音のように聴こえるし、サビ前のギターとピアノはチャイムのようにも、打ち上げ花火が始まる合図のようにも聴こえる。

 演奏と歌詞が、それぞれ補完し合って、全体としての情報量を増している感覚が、ひしひしと感じられます。

「若者のすべて」が描く心情風景

 前述したように、この曲の魅力をまとめると、歌詞が状況説明で終わるのではなく、心情を切り取ったかのようでイマジネーションを刺激するところ。

 そして、その歌詞に寄り添うような、無駄のない、完璧とも思えるバンドのアンサンブルです。言葉だけでは伝わらない感情を描き出す、こういう楽曲に出会うと、音楽を聴いていてよかったな、と思います。

 僕個人の話をすると、本当にこの曲を聴くと、夏の終わりの、夏休みが終わってしまう直前の、焦るような寂しいような、意味もなく外に飛び出して走りだしたくなるような、あのなんとも言えない感情が呼び覚まされるんですよ。

 タイトルが「若者のすべて」というのも示唆的で、いつまでもこの曲に感動できる人間でいたいなと思います。世界の約束を知って それなりになっても。

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私立恵比寿中学「シンガロン・シンガソン」


 「シンガロン・シンガソン」は、2017年11月8日に発売された私立恵比寿中学のメジャーデビュー後11枚目のシングル。楽曲提供はMrs. GREEN APPLEの大森元貴。このシングルのリード・トラックである「シンガロン・シンガソン」がとても素晴らしく、いろいろと言いたいことが増えてきたので、以下に僕が感じたことを記述させていただきます。

※ 本文中に音名が出てきますが、わかりやすいようにカッコ内にハ長調におけるドレミファソラシドでの呼び方も示しています。

※ CDやMVの特定の部分を指し示すために「2:25あたり」のように書いていますが、MVには曲が始まる前に映像のみの無音部分が含まれるため、CDとは再生時間が違います。基本的にはCDでの再生時間、MVについて触れている箇所のみMVでの再生時間を基準にしています。

ミュージックビデオ(MV)と楽曲の親和性
 まず、この曲のミュージックビデオ(MV)について。この曲はMVも素晴らしいんです。楽曲からもカラフルなイメージは十分に伝わってきますし、おもちゃ箱をひっくり返したように楽しい曲なのですが、MVと楽曲との親和性が非常に高く、曲の魅力を何倍にも増してくれます。

 イントロから、カラフルな衣装を着たメンバーたちが、足を滑らせて転んだり、両手いっぱいに持った荷物をぶちまけてしまったり、そんなシーンが続く色あざやかなMVです。まず視覚的な楽しさに注意が向きますが、歌詞との親和性、楽曲全体のメッセージを視覚的に伝えてくれる、映像としての情報量の多さに圧倒されます。

 まとめると、歌詞、音楽、映像に一体感があり、単なる言葉以上にメッセージが伝わってくる、というのが僕の考えです。それでは、この曲が持つテーマ、この曲から伝わるメッセージとは何でしょうか。

 1回目のサビは「何回だって 転んでもいいんです」という歌詞から始まります。2回目のサビには「いつまでだって 夢見ていいんです」、最後のサビには「悩んで悔やんで もがいてもいいんです」というフレーズもあります。このように前向きな表現が、いくつも散りばめられています。この曲が伝えたいことのひとつは、この前向きな気持ちと言っていいでしょう。

 では、例にあげた歌詞に注目してMVを見てみましょう。MVはイントロの音が流れ始める前に、3秒ぐらい映像のみで無音の部分があります。まず、メンバーがよろけるシーンが続き、曲が始まります。その後も、メンバーがよろけたり転んだり、両手いっぱいに持った箱や袋をぶちまけてしまうシーンなどが、随所に差し込まれています。そして、転んだり、荷物を落としてしまっているのに、メンバーの表情はとても楽しそうです。MVの0:35あたり、0:52あたりには、箱の中身が床に投げ出されるシーンもあります。

 このように「転んでもいいんです」を連想させるシーンが頻出するMVですが、2箇所だけ逆再生になっている部分があります。1箇所目は1:59あたりから、2箇所目は3:13あたりからで、それぞれぶちまけてしまった箱や袋の中身が、元どおりに吸い込まれていき、メンバーの手元に戻っていきます。このシーンは、なにを意味するのでしょうか。

 僕には、「転んでもいいんです」「夢見ていいんです」に続く、何回だってやり直せるよ、というメッセージのように感じられます。何回転んでも、持っていた大切なものを落としてしまっても、必ず自分の手に戻ってくる、ということを逆再生部分は語っているのではないでしょうか。この曲では「転んでもいいんです」という前向きな言葉のあとに、それを説明する言葉や、それを後押しする「また立ち上がれるよ」のような言葉は続きません。しかし、あえて説明的な言葉を使わずとも、むしろ使わないからこそ、今を大切にしようとする前向きさが深く伝わるということもあります。歌詞で説明的な表現が過ぎると陳腐になります。

 最後のサビの終盤には”人生は「今日をコレクション」”というフレーズが出てきます。説明すると陳腐になると言いながら、自分も説明してしまいますが、この表現は「今日1日を精一杯がんばることが大事だよ」というような意味でしょう。そうした、刹那的な輝きも、逆再生部分からは伝わるのではないかと思います。

 そして、MVの最後は全員で決めポーズをとるところで星名さんがバランスを崩してよろけてしまい、それに気づいたのか後ろにいる中山さんが笑うところまでが収められています。このシーンは、何度か撮影されたものの、星名さんがよろけてしまったテイクが最終的に採用されたとのことです。僕が監督だったとしても、迷わずこのテイクを採用します。その理由は「転んじゃったけど、そのテイクを使ったのが逆に面白いでしょ」ということではなく、「何回だって 転んだっていいんです」というメッセージを視覚的に伝えるのに、これ以上ない表現だからです。

 前述した逆再生部分と同じく、転んでも前向きにやり直せばいいんです、ということを言葉を使わずに表しています。このシーンは、よろけるところがたまたま撮れたからそれを使ったというよりも、誰かが転ばなければならなかった、と僕が監督なら考えます。そして、よろめいたのが天真爛漫な性格の星名さんだったのも、結果的に完璧だったと思います。

ボーカルと楽器の関係性
 次に、イントロ部分の曲の構造について書きます。弾むようなリズムと、生楽器感のある音質のドラム、カラフルで電子音然としたシンセサイザーから、曲がスタート。歌い出しは、タイトルでもある「シンガロン・シンガソン」という歌詞から始まります。最初の「シンガロン」はE♭(ミのフラット)の音から始まり、その後に続く「シンガソン everyday シンガソン」の一音目で、1オクターヴ近く高いD♭(高いレのフラット)まで一気に上がり、そこから少しずつ下降していくメロディー・ラインです。

 上記のボーカルのメロディー・ラインを追いかけるように、コール&レスポンスのようにも聞こえる、シンセサイザーのフレーズが続きます。こちらのシンセのメロディーは、A♭(ラのフラット)から始まり、D♭(高いレのフラット)まで上昇、その後にまたB♭(シのフラット)まで下降します。音の動きを形であらわすと、D♭を頂点にした山のようなメロディー・ラインが2回セットで繰り返されます。

 エビ中の歌声とシンセサイザーの音色の鮮やかさもさることながら、ボーカルと楽器の関係性が、この曲に奥行きとカラフルなイメージを足しているな、と個人的には思います。僕は、ボーカルのメロディーがあって、それを支えるその他の楽器の伴奏、という主従のはっきりした関係性の曲よりも、ボーカルと各楽器が絡み合うような構造の曲の方が好きなのですが、この「シンガロン・シンガソン」という曲は、ボーカルと楽器の関係性、ブロック毎のメリハリのつけ方が秀逸です。

 「シンガロン・シンガソン everyday シンガソン」と歌うイントロ部分は、ボーカルとシンセサイザーの関係が対等で、ボーカルが引くと、シンセが追いかけてきます。また、前述したとおり、ボーカルのメロディー・ラインも、それを追いかけるシンセのメロディー・ラインも、上がってから下がっていく、という点では共通しています。

 このふたつのパートの追いかけっこのような関係が、次々と押し寄せる波のように、有機的なアンサンブルとなっていて、聴いていて楽曲に引き込まれていきます。サウンドも生楽器と電子音が混ざったカラフルな印象で、曲のイントロダクションとしては、理想的と言えるのではないでしょうか。イントロ以外の部分も、ボーカルと楽器の関係性が曲の進行に合わせてガラリと変わり、常に飽きることがありません。

楽曲の二面性
 「いい歌」「好きな歌」の基準は人それぞれですが、僕個人は意味が限定されない間口の広い歌に興味を引かれます。もちろん、意味が限定された「泣ける歌」や「応援歌」がダメだ、嫌いだと言いたいわけではなく、そういう歌にも好きなものは多くあります。言い換えると、「泣ける歌」であってもひたすらに悲しいだけではなくユーモアの感じられるもの、「応援歌」であってもその中に憂いやリアリティを感じられるものが好き、という感じでしょうか。

 この曲の歌詞には”僕らの「ファイトソング」”と”人類のラブソング”という2つの言葉が出てきますが、まさにこの曲はファイトソングでもあり、ラブソングでもある、僕らの歌でもあり、人類の歌でもある、間口の広い曲であると思います。MVのところで書きましたが「何回だって 転んだっていいんです」というのが、メッセージのひとつだとしても、底抜けに明るいだけではなく、人間らしい憂いや迷いも感じられるようになっています。

 具体的に憂いが感じられる部分として、例えば1:49あたりからの「涙枯れ果てない様 ずっと笑って居たいよ」というところは、ずっと笑っていよう!という100%の前向きさではなく、若干の憂いが感じられます。そのしばらく後に「アゲてテンション!」と100%前向きと言えるような歌詞が続くため、憂いや迷いのある心を奮い立たせようとする心の動きが、より引き立ちます。

 また、2:47あたりからのCメロ部分の歌詞「大事にして居たいな」「忘れずに居たいな」も、あくまで自分の希望を口にしているだけで「大事にしたい!」「絶対に忘れない!」という強い言葉ではありません。基本的には前向きなことを歌っていながら、歌詞の中の語り手に人間らしい弱さが感じられるところが、この曲にリアリティを与えているし、魅力になっていると思います。また、そのような歌詞はエビ中のキャラクターにも合っていますよね。

 前向きな言葉と、憂いを持った心、その二面性はMVにも描かれています。先ほどこのMVには、カラフルな衣装を着たメンバーたちが足を滑らせてたり転んだりシーンがいくつもあると書きましたが、各メンバーが床に張り付くように歌うシーンも何回も出てきます。また、よろけたり、両手に持った箱や袋をぶちまけてしまうシーンでは満面の笑顔だったメンバーが、床に張り付くシーンでは憂いのあるアンニュイな顔をしています。ふたつの表情が次々に切り替わるMVも、楽曲が持つ二面性を視覚的にも伝えてくれていると言えるでしょう。

曲の展開とメンバーの歌唱力
 先ほど、曲のイントロ部分の構造について書きましたが、楽曲全体を通しても、アレンジとメロディーの運び方が、とても凝っているし効果的だなと感じました。前述したとおり、イントロ部分はボーカルとシンセのメロディーの追いかけっこのような関係が、曲を加速させていきます。0:17あたりからのAメロでは、歪んだ硬質な音のギターが前面に出てきて、ボーカルのメロディーとお互い絡み合うように、曲をさらに加速させます。

 これが、1:26あたりからの2番のAメロでは、ギターも含めた楽器隊がリズムをゆったりとってボーカルのメロディーを際立たせたり、ピアノが8分音符を叩きつけるように刻んだりと、1番のAメロと違いを作り、ボーカルは同じメロディーでありながら、聴いたときの印象がかなり変わります。このように、アレンジが効いているなと思う部分が多く、メロディーの起伏以上にカラフルな印象を受けます。

 次にボーカルのメロディーの動きを見てみましょう。イントロ部分はまず、A♭(ラのフラット)からD♭(高いレのフラット)までの5音分の飛躍があるものの、その後は緩やかに下降していきます。Aメロ前半は音の歩幅は最大でも1.5音ですが、1番の歌詞でいうと「まぁ、いざ行こう」の「まぁ」と「いざ」のところで5.5音、上がります。Bメロも前半部分に3.5音下がるところ、サビ前に上昇していく部分はあるものの、起伏が激しく上下するということはなく、比較的ゆるやかなメロディーだと言えるでしょう。

 上記のように、ここまではそれほど急激な上下が繰り返されることはないメロディーですが、サビで一変します。サビの冒頭、1回目のサビでいうと「何回だって 転んでもいいんです」という部分のメロディーは、学校のチャイムにも例えられるように上下を繰り返します。さらに面白いなと思うのは、リズムの単位としては大きめで、2分音符ごとに音が切り替わっていくんですよね。それまでの方がリズムは細かく複雑なのに、音の上下によって高揚感と解放感を出しています。曲のタイトルにかけるわけじゃないですが、これはみんなでシングアロングしたくなる流れだよなと。ちなみにサビの部分は転調もしていますね。

 次に、この曲の最高音について。この曲の最高音は、3:21あたりからの「ギャンギャンギャン」と、その後に続く真山さんの「大事です」の「い」の部分で、F♯(高いファのシャープ)まで達しています。アイドルにとっては、と言うとエビ中に失礼かもしれませんが、なかなかこの高音を出すのは難しいはずです。しかし、全員で歌う「ギャンギャンギャン」も、真山さんが歌う「大事です」も、ファルセットを使って余裕を持って歌っています。

 直近2枚のシングルは「スーパーヒーロー」、「まっすぐ」と、高い歌唱力を要求される「いい歌」系の楽曲が続いたエビ中ですが、この2枚で培ってきたものが、本来エビ中が得意としていたカラフルでサブカル感あふれる曲にも反映されてきたようで、今後のエビ中がますます楽しみになってきます。

 また、最高音を「ギャンギャンギャン」という泣き声をあらわす歌詞にあてたことも、この曲のテーマとメッセージを象徴しているよなと思います。強がりつつも弱さを見せて、時には素直になって泣くことも大事だよと言ってくれているようで、まさに自分を奮い立たせるファイトソングでもあり、全ての人に向けたラブソングのようにも響きます。

まとめ
 ここまで書いてきたことを3点にまとめますと、
1, 楽曲とミュージックビデオの親和性が高く、見ていて楽曲のメッセージがより強く伝わる。
2, 曲のテーマは基本的には「応援歌」だが、憂いや迷いなどの人間らしさも含まれていて、リアリティがある。
3, エビ中がこれまでに築き上げてきた歌唱力やキャラクターが活かされたエビ中らしい楽曲。
ということです。

 長々と書いてきましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。とにかく、1人でも多くの方に聴いてもらいたいなと、心から思います。