「シアワセ林檎」は、ゲスの極み乙女。の楽曲。作詞作曲は川谷絵音。2017年5月10日発売の3rdアルバム『達磨林檎』に収録されています。
音楽以外のトピックで認知度が上がってしまった感のあるゲスの極み乙女。および川谷絵音さん。その影響で、2016年12月に予定されていたアルバム『達磨林檎』の発売が、2017年5月に延期にされました。
「シアワセ林檎」の歌詞に対しても、スキャンダルをサブテキストにしたような解釈を試みられることが多いようです。しかし、この論では音楽の外側の情報をできるだけ排除して、「シアワセ林檎」の分析と考察をおこなっていきたいと思います。
ゲスの極み乙女。の楽曲の特徴のひとつは、ヴァース部分(Aメロ)とコーラス部分(サビ)における、メロディーのコントラストであると言えるでしょう。ヴァースでは早口言葉のような起伏の少ないメロディーなのに、コーラスでは流れるような美しいメロディーに一変する構成の曲が少なくありません。
「シアワセ林檎」も、まさにそのような構成を持った曲で、ヴァースとコーラスの対比が、曲を鮮やかにしています。同時に、メロディーのコントラストと並行して、歌詞で歌われる感情にも対比的な表現が見てとれます。それでは、音楽と歌詞の両面から、この曲が持つコントラストについて見ていきましょう。
対比的な言葉
前述したとおり、この曲の歌詞には、対比的な言葉が何組か出てきます。まずヴァース部分の「プラス」と「マイナス」。そしてコーラス部分の「ブルー」と「真っ赤」。例に挙げたコントラストを成す言葉の使用は、どのような効果を持っているでしょうか。
歌詞を読み解いていくと、価値観の対立や心情の変化などを、少ない言葉で描き出していることに気がつきます。つまり、言葉のコントラストを利用することで、説明的にならず、複雑な状況や感情をあらわすことに成功しているということです。例として「プラス」と「マイナス」という言葉が使われるヴァース部分を引用します。
プラスのビートで歌うこと
それ以外にないってこと知ってる
意味の無い嘘取り繕って
マイナスになることも知ってる
結果論で世は論じてる
引用部1行目から2行目は、自分の歌いたいことを歌うしかない、というような意味でしょう。それに続く「意味の無い嘘…」からの3行目と4行目は、当たり障りのないことを歌ったところで、マイナスになると言っています。
その後に「結果論で世は論じてる」と続くことから、世間にウケそうな歌を取り繕って歌ったところで、あらかじめ決められたバンドのパブリック・イメージを覆すことは難しい、ということを歌っているのではないでしょうか。
バンドや歌手に対して、世間は多かれ少なかれ、「このバンドはこういうバンドだ」「この歌手はこうあるべきだ」という偏見を持っています。
そうしたイメージをバンド側から一変させることは困難であり、だったら自分の歌いたいことを歌う、ということです。プラスとマイナスという象徴的な言葉を挟むことで、歌詞の語り手と世間との対立が、より鮮明になっていると言えるでしょう。
次に「ブルー」と「真っ赤」という対の言葉が出てくる、コーラス部分の歌詞を引用します。
あのね
気づいたらさ
どうでもいいことが幸せに感じる
でもそんなもんでしょう
あのね
いつも迫る僕の私のひっきりなしのブルーも
気づいたらさ
真っ赤に変わってくよ
「パーパーパーパー」という、偏見を持つ人たちへの皮肉にも聞こえるような、おどけたような歌詞のブリッジ部分を挟み、サビでは「ブルー」が「真っ赤」に変わっていくと歌われます。この色の変化は、何を意味するのでしょうか。
まず、「ブルー」という言葉は、歌詞のなかで名詞として使われています。憂鬱な気持ちのことをブルーと言いますが、ここでも「ブルー」という名詞ひとつで、ブルーな気持ちのことをあらわしているのでしょう。
それに対応するように使われる「真っ赤」。「ひっきりなしのブルー」も「真っ赤に変わってくよ」ということから、これはブルーに対して反対の意味を持っていることが示唆されます。
憂鬱な気持ちが、少しの心の持ちようで幸せな気分にもなりうる。そのような心の動きを、コーラス部分では歌っているのではないかと思います。
ここでも、先ほどのプラスとマイナス同様、「ブルー」と「真っ赤」という多くの意味を持ちうる言葉を、記号的に使用することで、繊細な感情の変化を説明的にならずに描いています。
以上のように「シアワセ林檎」の歌詞は、コントラストを成す言葉を用いて、言葉の意味を最大限に引き出し、複雑な感情や状況を鮮やかに描き出しています。
「世間はクソだ」と直接的に毒づいたり、きれいごとを並べたラブソングを歌うのではなく、アーティスティックにメッセージを楽曲に落とし込むセンスは見事です。
音楽面でのコントラスト
では次に、音楽面ではどのようなコントラストが見られ、それがどのように歌詞と対応してくるのかを、考察していきます。最初に言及したとおり、この曲はヴァースとコーラスで、メロディーの質が一変します。
曲が始まると、まず聴こえてくるのは、高速で転がるようなフレーズを繰り返すピアノ。そのピアノを追い立てるように入ってくるベースとドラム。そしてボーカル。
小節線を越えていくようなフリーな部分は無いものの、ジャズの香りが漂ってくるイントロです。同時に気がつくのは、ギターの音が入っていないこと。いわゆるジャズのピアノ・トリオの編成で、再生時間で言うと2:04あたりからの間奏でも、さながらピアノ・トリオのような演奏を展開しています。
ゲスの極み乙女。の音楽の特徴として、ヒップホップの影響が言及されることがありますが、この「シアワセ林檎」のヴァース部分も、早口言葉のような旋律感のうすいメロディーであり、ヒップホップ的と言ってもよいかもしれません。前述したジャズ的な要素と合わせて、ロックやJ-POP的なクリシェを意図的に避けるような、ヴァース部分のメロディーと演奏です。
しかし、コーラスに入ると堰を切ったように美しいメロディーが流れだします。ボーカリゼーションの面でも、音程の起伏が少なく、感情を排したように淡々と歌うヴァース部と比べて、裏声を織り交ぜて歌うコーラス部は、際立って感情的に感じられます。
歌詞と音楽のバランス
ヴァースとブリッジの歌詞は、偏見を持つ人々に対する諦めのような、嘲笑のような内容でした。そして、この歌詞にあてられるメロディーも、起伏が少なく、歌い方も淡々としたものです。いわばヴァースとブリッジは「ブルー」な状態であると言えるでしょう。
それに対して、コーラス部分では一変してメロディアスになり、歌い方もファルセットを用いた感情的なものになっています。ヴァース部の「ブルー」な状態から、ここでは「真っ赤」な状態に変化している。その変化が、メロディーとボーカリゼーションの違いにも、あらわれていると言えるのではないでしょうか。
タイトルだけ聞くと、奇妙にも感じられる「シアワセ林檎」という言葉。後半の歌詞に「林檎みたいに赤くなっても言いたかった」という一節がありますが、なにかに心がときめいた状態を「赤」と表現しているのでしょう。
「ブルー」な気分が、あるきっかけで、頬を赤らめるような幸せな気分に変わるということを、音楽と歌詞を巧みに重ねて描き出した1曲であると思います。