「邦楽」カテゴリーアーカイブ

ゲスの極み乙女。「シアワセ林檎」におけるブルーと真っ赤のコントラスト


 「シアワセ林檎」は、ゲスの極み乙女。の楽曲。作詞作曲は川谷絵音。2017年5月10日発売の3rdアルバム『達磨林檎』に収録されています。

 音楽以外のトピックで認知度が上がってしまった感のあるゲスの極み乙女。および川谷絵音さん。その影響で、2016年12月に予定されていたアルバム『達磨林檎』の発売が、2017年5月に延期にされました。

 「シアワセ林檎」の歌詞に対しても、スキャンダルをサブテキストにしたような解釈を試みられることが多いようです。しかし、この論では音楽の外側の情報をできるだけ排除して、「シアワセ林檎」の分析と考察をおこなっていきたいと思います。

 ゲスの極み乙女。の楽曲の特徴のひとつは、ヴァース部分(Aメロ)とコーラス部分(サビ)における、メロディーのコントラストであると言えるでしょう。ヴァースでは早口言葉のような起伏の少ないメロディーなのに、コーラスでは流れるような美しいメロディーに一変する構成の曲が少なくありません。

 「シアワセ林檎」も、まさにそのような構成を持った曲で、ヴァースとコーラスの対比が、曲を鮮やかにしています。同時に、メロディーのコントラストと並行して、歌詞で歌われる感情にも対比的な表現が見てとれます。それでは、音楽と歌詞の両面から、この曲が持つコントラストについて見ていきましょう。

対比的な言葉

 前述したとおり、この曲の歌詞には、対比的な言葉が何組か出てきます。まずヴァース部分の「プラス」と「マイナス」。そしてコーラス部分の「ブルー」と「真っ赤」。例に挙げたコントラストを成す言葉の使用は、どのような効果を持っているでしょうか。

 歌詞を読み解いていくと、価値観の対立や心情の変化などを、少ない言葉で描き出していることに気がつきます。つまり、言葉のコントラストを利用することで、説明的にならず、複雑な状況や感情をあらわすことに成功しているということです。例として「プラス」と「マイナス」という言葉が使われるヴァース部分を引用します。

プラスのビートで歌うこと
それ以外にないってこと知ってる
意味の無い嘘取り繕って
マイナスになることも知ってる
結果論で世は論じてる

 引用部1行目から2行目は、自分の歌いたいことを歌うしかない、というような意味でしょう。それに続く「意味の無い嘘…」からの3行目と4行目は、当たり障りのないことを歌ったところで、マイナスになると言っています。

 その後に「結果論で世は論じてる」と続くことから、世間にウケそうな歌を取り繕って歌ったところで、あらかじめ決められたバンドのパブリック・イメージを覆すことは難しい、ということを歌っているのではないでしょうか。

 バンドや歌手に対して、世間は多かれ少なかれ、「このバンドはこういうバンドだ」「この歌手はこうあるべきだ」という偏見を持っています。

 そうしたイメージをバンド側から一変させることは困難であり、だったら自分の歌いたいことを歌う、ということです。プラスとマイナスという象徴的な言葉を挟むことで、歌詞の語り手と世間との対立が、より鮮明になっていると言えるでしょう。

 次に「ブルー」と「真っ赤」という対の言葉が出てくる、コーラス部分の歌詞を引用します。

あのね
気づいたらさ
どうでもいいことが幸せに感じる
でもそんなもんでしょう
あのね
いつも迫る僕の私のひっきりなしのブルーも
気づいたらさ
真っ赤に変わってくよ

 「パーパーパーパー」という、偏見を持つ人たちへの皮肉にも聞こえるような、おどけたような歌詞のブリッジ部分を挟み、サビでは「ブルー」が「真っ赤」に変わっていくと歌われます。この色の変化は、何を意味するのでしょうか。

 まず、「ブルー」という言葉は、歌詞のなかで名詞として使われています。憂鬱な気持ちのことをブルーと言いますが、ここでも「ブルー」という名詞ひとつで、ブルーな気持ちのことをあらわしているのでしょう。

 それに対応するように使われる「真っ赤」。「ひっきりなしのブルー」も「真っ赤に変わってくよ」ということから、これはブルーに対して反対の意味を持っていることが示唆されます。

 憂鬱な気持ちが、少しの心の持ちようで幸せな気分にもなりうる。そのような心の動きを、コーラス部分では歌っているのではないかと思います。

 ここでも、先ほどのプラスとマイナス同様、「ブルー」と「真っ赤」という多くの意味を持ちうる言葉を、記号的に使用することで、繊細な感情の変化を説明的にならずに描いています。

 以上のように「シアワセ林檎」の歌詞は、コントラストを成す言葉を用いて、言葉の意味を最大限に引き出し、複雑な感情や状況を鮮やかに描き出しています。

 「世間はクソだ」と直接的に毒づいたり、きれいごとを並べたラブソングを歌うのではなく、アーティスティックにメッセージを楽曲に落とし込むセンスは見事です。

音楽面でのコントラスト

 では次に、音楽面ではどのようなコントラストが見られ、それがどのように歌詞と対応してくるのかを、考察していきます。最初に言及したとおり、この曲はヴァースとコーラスで、メロディーの質が一変します。

 曲が始まると、まず聴こえてくるのは、高速で転がるようなフレーズを繰り返すピアノ。そのピアノを追い立てるように入ってくるベースとドラム。そしてボーカル。

 小節線を越えていくようなフリーな部分は無いものの、ジャズの香りが漂ってくるイントロです。同時に気がつくのは、ギターの音が入っていないこと。いわゆるジャズのピアノ・トリオの編成で、再生時間で言うと2:04あたりからの間奏でも、さながらピアノ・トリオのような演奏を展開しています。

 ゲスの極み乙女。の音楽の特徴として、ヒップホップの影響が言及されることがありますが、この「シアワセ林檎」のヴァース部分も、早口言葉のような旋律感のうすいメロディーであり、ヒップホップ的と言ってもよいかもしれません。前述したジャズ的な要素と合わせて、ロックやJ-POP的なクリシェを意図的に避けるような、ヴァース部分のメロディーと演奏です。

 しかし、コーラスに入ると堰を切ったように美しいメロディーが流れだします。ボーカリゼーションの面でも、音程の起伏が少なく、感情を排したように淡々と歌うヴァース部と比べて、裏声を織り交ぜて歌うコーラス部は、際立って感情的に感じられます。

歌詞と音楽のバランス

 ヴァースとブリッジの歌詞は、偏見を持つ人々に対する諦めのような、嘲笑のような内容でした。そして、この歌詞にあてられるメロディーも、起伏が少なく、歌い方も淡々としたものです。いわばヴァースとブリッジは「ブルー」な状態であると言えるでしょう。

 それに対して、コーラス部分では一変してメロディアスになり、歌い方もファルセットを用いた感情的なものになっています。ヴァース部の「ブルー」な状態から、ここでは「真っ赤」な状態に変化している。その変化が、メロディーとボーカリゼーションの違いにも、あらわれていると言えるのではないでしょうか。

 タイトルだけ聞くと、奇妙にも感じられる「シアワセ林檎」という言葉。後半の歌詞に「林檎みたいに赤くなっても言いたかった」という一節がありますが、なにかに心がときめいた状態を「赤」と表現しているのでしょう。

 「ブルー」な気分が、あるきっかけで、頬を赤らめるような幸せな気分に変わるということを、音楽と歌詞を巧みに重ねて描き出した1曲であると思います。

 





エレファントカシマシは「悲しみの果て」に希望があるとは歌わない


 「悲しみの果て」は、1996年4月19日に発売されたエレファントカシマシ10枚目のシングル。

 同年11月1日には、カップリング曲を替えて12枚目のシングルとして再リリースされています。8thアルバム『ココロに花を』にも収録。作詞作曲は宮本浩次。

 エレファントカシマシの代表曲と言っていい「悲しみの果て」。エレファントカシマシの歌詞は文学的だと言われることがありますが、「悲しみの果て」の歌詞も文学的で優れたものだと思います。

 しかし「文学的」の一言で片づけてしまっては、この楽曲の魅力を適切に言語化しているとは言えません。そこで、この論では「悲しみの果て」の歌詞のどこが優れているのかを、考察していきます。

 また、歌詞を持つポップ・ミュージックにおいては、歌詞と音楽を完全に分離して考えるのも不自然なので、歌詞を際立たせる楽曲の構造についても述べたいと思います。

 そして、最終的にはこの曲の分析を通して、エレファントカシマシというバンドの魅力を少しでもお伝えすることを目指します。

楽曲の構造

 再生ボタンを押すと、まず聴こえてくるのは、ギター、ベース、ドラム、すべての縦がそろったバンド・サウンド。シンプルながらスタッカートのかかった歯切れ良いサウンドとリズムが、印象的なイントロです。

 そして、バンドの音にレスポンスするように入ってくる宮本さんの声。歌い出しはタイトルにもなっている「悲しみの果て」というフレーズで、この曲はサビから始まります。

 サビから始まる、というよりも、ほとんどサビしかない独特の楽曲構造をしていることが、曲が進むにつれて明らかになります。

 サビとAメロを、それぞれコーラスとヴァースという言葉に置き換えると、この曲の構造は、コーラス→コーラス→ヴァース→コーラス→コーラス半分。曲の中間「部屋を飾ろう…」からの部分がヴァースで、ここだけメロディーが異なり、他は冒頭のメロディーと共通しています。

 このように説明すると、曲としては単調であるという印象を与えるかもしれません。しかし、シンプルな構造がリスナーにもたらすのは単調だという印象ではなく、言葉とメロディーの強さ。言い換えれば、シンプルな楽曲構造で、何度も同じメロディーを繰り返すことにより、メロディーとそれに乗る歌詞が前景化され、リスナーに言葉がダイレクトに届く効果を生んでいるのではないかと思います。

悲しみの果てに何があるか?という問い

 それでは、歌詞の内容を見ていきましょう。再生ボタンを押すと、縦のそろった印象的なバンド・サウンドを、唯一無比の宮本さんの声が追いかけるように曲が始まります。歌い出しはタイトルにもなっている「悲しみの果て」というフレーズ。以下、冒頭部分の歌詞の引用です。

悲しみの果てに
何があるかなんて
俺は知らない
見たこともない
ただ あなたの顔が
浮かんで消えるだろう

 いきなり「悲しみの果てに 何があるかなんて 俺は知らない」と言い切る語り手。しかし、悲しみに打ちひしがれているかというと、そんな印象は全くありません。むしろ、この曲が伝えてくるのは、悲しみのなかでも希望を失わない強さです。

 では、なぜそのような印象を受けるのか。悲しみの果てには喜びや希望がある、という歌詞が続きそうなものですが、この曲は違います。上記の歌詞に続くのは「見たこともない」という言葉。

 文字通りに受け取ると、悲しみの果てなど「知らない」「見たこともない」という意味ですが、悲しみの果てに達するほど悲しくなったことはない、悲しみに負けたことなどない、という意味にも取れます。無責任に「悲しみの果てには希望があるよ」と歌わないところが、エレカシの誠実なところです。

 さらにその後に続くのは「ただ あなたの顔が 浮かんで消えるだろう」という言葉。「あなた」が誰であるかは明言されていませんが、悲しいときに支えになるのは大切な人の存在、というような意味でしょう。悲しみの果てに何があるのかはわからないが、どんな時でも人とのつながりを大切にする。人への愛情と信頼に溢れた表現であると思います。

 次のコーラス部分の歌詞を引用します。

涙のあとには
笑いがあるはずさ
誰かが言ってた
本当なんだろう
いつもの俺を
笑っちまうんだろう

 ここでも、1回目のコーラス部と同じような表現が繰り返されています。すなわち、語り手は「涙のあとには 笑いがあるはずさ」と言うものの「誰かが言ってた 本当なんだろう」という言葉を続け、涙のあとには笑いがある、と断定しません。

 さらに、その後に続くのは「いつもの俺を 笑っちまうんだろう」という言葉。ここは語り手の「俺」を、1回目のコーラス部に出てきた「あなた」が笑うという意味で、やはり他者が心の支えになるということを歌っているのではないかと思います。

 では最後に、この曲で唯一のヴァース部分の歌詞を引用します。

部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に

 この引用部の「部屋を飾ろう」「花を飾ってくれよ」というところ。ここに「悲しみの果て」という曲の魅力が、端的にあらわれていると思います。

 悲しいときや辛いときには、芸術などを楽しむ感受性をなくしてしまいがちですが、引用部ではおそらく「あなた」に対して「花を飾ってくれよ」と語りかけています。どんなに悲しみに打ちひしがれても、人を思う心と、美しいものを感じる感受性は失わない。そんな強い気持ちが、この曲には詰まっています。

 この歌が勇気を与えるのは「希望」や「喜び」という言葉を使っていないのに、悲しみのなかにある希望を、確かに歌っているからです。説明的にならずに、こういう感情を表現できるところが、エレカシが「文学的」だと言われる所以でしょう。

 最後に余談をひとつ。僕はチャットモンチーというバンドが大好きなのですが、2009年9月19日におこなわれたエレカシ主催の「太陽と月の下の往来」という対バンイベントで、チャットモンチーが「悲しみの果て」をカバーしたこともあります。

 





SHISHAMO「明日も」は転調と歌詞の一体感がすばらしい!


 「明日も」は、神奈川県川崎市で結成されたロックバンド、SHISHAMOの楽曲。作詞作曲は宮崎朝子。2017年2月22日発売の4thアルバム『SHISHAMO 4』に収録されています。

 2017年の紅白歌合戦でも演奏されたこの曲。一聴して気がつくのは、曲の途中に挟まれる転調。風景がガラッと変わるような、耳に残りやすい印象的な転調です。

 心地よさと違和感のバランスが秀逸で、リスナーはすぐに「あ、雰囲気が変わった!」と気づくでしょう。しかし、この転調は音楽的にはかなり珍しい転調となっています。

 そんな転調を違和感なく曲のなかにおさめ、なおかつフックとして効果的に機能させているセンスは素晴らしいとしか言えません。また、曲調の変化が、歌詞の流れともリンクしていて、作詞と作曲の一体感という部分でも、非常に優れた1曲であると思います。

 それではこれから、この楽曲の転調の巧みさと、それに対応する歌詞について考察していきます。

歌詞と調性の対応

 前述したように、この曲には途中で転調があり、ふたつのキーの間を行き来します。1番の歌詞でいうと「良いことばかりじゃないからさ」の部分で転調があり、曲調が一変します。同時に歌詞においても、この部分で歌われる内容の切り替えがおこなわれています。

 「月火水木金 働いた」から始まるAメロで歌われるのは、平日の憂鬱や不安。そうしたネガティヴな感情が、サビではヒーローに会いに行くことによって、緩和されます。転調のタイミングに合わせて、歌詞の内容も変わる。この一体感が、この曲の魅力のひとつと言えるでしょう。

 転調がリスナーの耳をひきつける音楽的なフックとなり、同時に歌詞もそれまでの不安を一気に解消することで、音楽と歌詞が不可分にサビでハイライトを迎えています。

歌詞の内容

 次に歌詞の内容を、見ていきましょう。1番と2番では、まずAメロで平日の憂鬱について歌われ、サビでは週末にヒーローに会いにいくことで、その憂鬱が緩和される、という点では共通しています。

 しかし、1番の歌詞では語り手が「僕」、2番では語り手が「私」となっていて、語り手が変わっていることがわかります。この語り手の切り替えは、どのような効果を持っているでしょうか。ひとつには、特定の語り手に意味を固定化しないことで、より普遍性のある応援ソングになっていると思います。

 歌詞の中の語り手を「僕」だけに固定し、その「僕」の感情とストーリーを掘り下げるのではなく、無数の「僕」と「私」それぞれが抱える悩みを並列させることで、より多くの人が共感し、背中を押される曲になっているのではないでしょうか。

 1番では「僕」が不慣れな仕事に不安を抱えていることが歌われ、2番では「私」が学校でまわりになじめない悩みが吐露されます。そして、サビではそれぞれのヒーローに会いに行き、勇気をもらっています。

 ヒーローとは誰なのかも、はっきりとは記述されていませんが、憧れのバンドなのか、応援しているスポーツ選手なのか、あるいは推しているアイドルなのか、様々な可能性が想定されます。

 「明日も」を聴いているリスナーにとっては、SHISHAMOというバンドがヒーローになっている可能性もあり、まさにこの曲を聴きながらヒーローに自分を重ねているかもしれません。そのような奥行きが生まれているのも、この歌詞が持つ秀逸さであると思います。

転調

 最後に転調について、ご説明させていただきます。転調というのを簡単に説明すると、使用するドレミファソラシドの音が変わる、ということです。

 まずイントロ部分からAメロ、Bメロのキーは、変ニ長調(D♭major)。1番の歌詞でいうと「良いことばかりじゃないからさ」の部分からのサビでは、ト長調(G major)に転調します。前述したように、この転調がかなり珍しく、特徴的です。

 なぜ珍しいのかと言うと、D♭からGというのは半音6つ分上がる転調なのですが、この2種類のドレミファソラシドの間には共通する音がひとつ(Cの音)しかなく、したがって使用するコードも全く異なるため、違和感なく転調するのが非常に難しいためです。

 また、1オクターヴには12個の音がありますので、半音6個分上がるというのはちょうど半分で、最も遠い音の転調でもあります。

 しかし、「明日も」における転調では、無理な転調をしたような違和感はありません。多くのリスナーは転調した部分で、音楽理論を知らなくとも曲調が変わったということに気づくでしょう。

 違和感なく、しかし曲調が一変したことは誰の耳にもあきらか。いや、心地よい違和感と言い換えてもいいかもしれません。このような特異な転調を曲の魅力に昇華しポップに仕上げられるのは、才能やセンスとしか言いようがありません。

 「良いことばかりじゃないからさ」からサビだと書きましたが、初めてこの曲を聴いたときには、この部分のメロディーがサビだと思いました。しかし、そのあとの「痛いけど走った」から、さらにメロディーが展開します。転調で曲のイメージが変わったところで、シフトをもう一段上げるようにメロディーを発展させていくところも、この曲の魅力的なところです。

 そして、サビ後の間奏のあとに、再び6つ分上がる転調をし、ト長調から変ニ長調へと戻ります。前述したように、半音6個というのは1オクターヴの半分なので、6つ上がる転調を2回繰り返すと、元のキーに戻るということです。そして、間奏あとの転調でも、やはり心地よい違和感を耳に残しながら、曲が進行します。

SHISHAMOのセンスは凄い!

 特異な転調を使いながら、それを違和感ではなく、曲のフックとしている。さらに、歌詞と転調が完全に一致したかたちで、言葉とメロディーが不可分のように響く。

 ご本人たちは努力を重ねているのだと思いますが、このような曲を書きあげられるのは、本当にすごいセンスだと思います。SHISHAMOの世界観に身を委ねながら、この曲を聴いてみてください。

 





エレファントカシマシ「友達がいるのさ」は都市生活の孤独を癒す1曲


 「友達がいるのさ」は、2004年9月1日に発売されたエレファントカシマシ33枚目のシングル。作詞作曲は宮本浩次。16枚目のアルバム『風』にも収録されています。

 エレファントカシマシは、「今宵の月のように」に代表されるようなメローな要素と、「ガストロンジャー」に代表されるようなロック的なアグレッシブさを併せ持ったバンドです。個人的に「友達がいるのさ」は、そんなエレカシのなかでも特に好きな1曲。

 その理由のひとつが、1曲の中にエレカシ特有の詩的でメローな部分と、ロックバンドの理想形とも言える熱情が、見事に溶け合っているからです。

 音量的にも、音楽が伝えるエモーションの面でも、1曲のなかのダイナミズムが広く、穏やかなパートから激しいパートまでが1曲の世界観におさまっています。音楽的な起伏が歌詞ともリンクしていて、音楽が歌詞を増幅し、歌詞は音楽の一部となって共に響く、非常に優れたポピュラー・ミュージックであるとも言えます。

 歌詞と楽曲構造の両面からこの曲を分析し、少しでも魅力をお伝えできればと思います。

歌詞の意味の考察

 まずは歌詞をじっくり見ていきましょう。「東京中の電気を消して」という印象的なフレーズから始まるこの曲。歌詞のテーマを一言であらわすと、「都市のなかでの孤独」「現代的な孤独」だと僕は思います。歌い出し部分からも、そのテーマの一端が見えます。

東京中の電気を消して夜空を見上げてえな
かわいがってる ぶざまな魂 さらしてみてえんだ

 東京というのは、人は多いが、人との距離感は決して近くない街です。例えば、渋谷のスクランブル交差点では多くの人が行き交い、それぞれの物理的な距離は近いけれど、お互いはみな他人であり、精神的な距離は近くありません。同時に、人が多いからこそ、多数の人に紛れて匿名性を持って生活できる、という場所でもあります。

 「東京中の…」という歌詞からも、普段は東京という街の無数の電気のなかで暮らしているが、本当の自分をさらしたい、という苛立ちともストレスとも言えない、複雑な感情が見え隠れしているように思えます。

 その後に続く「テレビづけおもちゃづけ、こんな感じで一日終わっちまうんだ」という一節も、情報に溢れた現代都市での生活を描写しているのではないかと思います。続けて、次の連の歌詞を引用します。

電車の窓にうつる 俺の顔 幸せでも不幸でもなかった
くちびるから宇宙 流れてく日々に 本当の俺を見つけてえんだ

 引用部1行目も、都市で生活をするなかで、なんとなく時間を過ごしてしまうことが歌われているようです。引用部2行目は、この曲の中でもハイライトのひとつだと思うのですが、「くちびるから宇宙…」というのは、口から音楽が流れ出ている、歌を口ずさんでいるということでしょうか。

 この表現はとても詩的で、はっきりとは書かれていないのですが、口から溢れる音楽を「宇宙」と表現しているところに、宮本さんの音楽への思いが垣間見えます。閉塞感のある毎日のなかで、音楽や芸術を宇宙と呼び、それだけが無限の可能性を持っている、そのようなことを歌っているのではないかと思います。

 さて、このように幸せでも不幸でもない毎日を過ごしている語り手。その後に歌詞がどのように展開するのかというと、サビではこのように歌われます。

俺はまた出かけよう あいつらがいるから
明日もまた出かけよう 友だちがいるのさ

 ここまで、一貫して現代社会特有の孤独や憂鬱が歌われていたのが、サビに至って「また出かけよう 友だちがいるのさ」という言葉に帰結します。「友達がいる」ということが、力強く一歩を踏み出す理由になる。

 サビ前までは「ああこういう憂鬱な気持ちわかる」という感じの歌だと思って聴いていたのに、サビでは人に対する愛情や信頼をエモーションたっぷりに歌い、リスナーの予想を良い意味で裏切っている曲と言えるのではないでしょうか。少なくとも僕は、初めてこの曲を聴いた時、楽曲が持つ暖かさと強さに涙が溢れました。

 また、サビ前からサビに向かって宮本さんのボーカルも、それまでの落ち着いたトーンの声から音程も上がり、エモーションが一気に溢れ出します。歌詞の言葉における感情の高鳴りが、ボーカリゼーションとも完全にリンクしており、これもエレファントカシマシの魅力のひとつです。

調性とコード

 この曲のキーはホ長調(E major)で、使われているコードのほとんどがダイアトニック・コードですが、ところどころ同主調のホ短調(E minor)からコードが召喚されています。

 音楽用語をできるだけ使わずに説明します。ドレミファソラシドには明るいイメージの長調と、暗いイメージの短調があり、この曲は「ミ(E)」の音から始まる長調のドレミファソラシドからできていて、コードもそこに含まれる音だけを使った基本的なコードが多く使われています。

 しかし、同じ「ミ(E)」の音から始まる短調のドレミファソラシドを使ったコードも少しだけ使われていて、それが曲に奥行きを与えているということです。

 例えば「今日は寝てしまうんだ」の「は」の部分。ここはボーカルのメロディーがCの音。ホ長調のCにはシャープが付くはずなのですが、ここでは一瞬だけシャープの付かないホ短調のCの音が顔を出し、コードもAからAmになっています。

 この部分は、メロディーにCの一音が入っていることで、聴いた感じも深みが生まれていると思います。単純に明るいだけではない、かげりのような質感。もちろん、宮本さんの声の力によるところも大きいのですが。

ボーカルとバンド・アンサンブル

 最後にボーカリゼーションと、バンドのアレンジメントについても述べさせていただきます。イントロから、リスナーに語りかけるような落ち着いた声のボーカル。バンドもボーカルに準じて、ギターはミュート奏法を用い、ベースとドラムもダイナミズムを抑えた演奏。

 これがサビに向かう部分では、ボーカルのメロディーが上行するのに応じて、バンドもリミッターを外し、サビでは音とエモーションの洪水のような音像へ。宮本さんのボーカルも、ささやくような低い声から、激しく感情を爆発させるところまで、一気に登りつめます。

 歌詞のところで前述したように、歌詞の言葉とバンドの音、ボーカルの声が一体となって、音楽と言葉がそれぞれの力を増幅し合っています。個人的には、ロックバンドかくあるべし!という曲だと思っています。ぜひ聴いてみてください。

 





the pillows「Funny Bunny」のマジックリアリズム的世界観


 「Funny Bunny」はthe pillows(ザ・ピロウズ)の楽曲。作詞作曲は山中さわお。

 1999年発売の8thアルバム『HAPPY BIVOUAC』、2001年発売のベストアルバム『Fool on the planet』に収録。また、2009年発売のベストアルバム『Rock stock & too smoking the pillows』には、再録バージョンが収録されています。

※ 日本語のなかにローマ字が多いと読みにくいため、これ以降はthe pillowsをピロウズと表記いたします。

 ピロウズの楽曲の魅力は、なかなか言葉にするのが難しいのですが、挙げればキリがありません。歌詞の面ではイマジネーションをかきたてる雰囲気のある言葉が並び、独特の世界観をつくるところ。そして、そのイマジナティブな歌詞のなかに、聴き手を勇気づけるようなメッセージのあるところ。音楽の面では、コード進行と楽曲構造は比較的シンプルなのに、ギターのフレーズやバンドのアンサンブルに、かっこいい瞬間がいくつもあるところ。僕はピロウズのこういうところが好きです。

 「Funny Bunny」は、ピロウズの代表曲でもあり、まさにピロウズの魅力が凝縮された1曲である言えます。ロマンティックとも言える言葉選びと、聴き手の背中を押すメッセージと、バンドの有機的なアンサンブル。ここでは、僕が感じるこの曲の魅力を、歌詞と音楽の両面からご紹介します。

「キミ」は誰か

 歌詞には「キミ」が出てきます。まず、歌い出しの部分。

王様の声に逆らって
ばれちゃった夜にキミは笑っていた

 引用部の「キミ」は、歌詞の世界の中の人物のようです。しかし、サビに出てくる「キミ」は、この曲を聴いている自分に対する呼びかけのように聞こえます。

キミの夢が叶うのは
誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を選んで
走ってきた

 なぜ、この部分の「キミ」は呼びかけのように聞こえるのか。理由のひとつは、その後に続く歌詞が「誰かのおかげじゃないぜ」と、呼びかけるような語尾になっているからでしょう。もうひとつの理由は、歌詞全体に「王様」「オーロラ」「道化師」など、非日常的な言葉が散りばめられ、具体的な人間関係を歌っていないからではないでしょうか。

 もし、もっと具体的に語り手と「キミ」の関係を歌う歌詞だったら、「キミ」の意味が固定され、よりラブソング色の強い曲になっていたはずです。そのような意味の固定化がされていないため、この曲はイマジネーションを刺激する世界観を持ちつつ、同時に聴き手の背中を押す応援歌のようにも響きます。

 引用した「キミの夢が叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ」。この部分は、夢が叶うのはキミが頑張ったからだよ、という優しい呼びかけにも、自分が頑張らないと夢は叶わないぞ、という叱咤激励にも聞こえます。

応援歌、メッセージ・ソングとしての一面

 この曲の魅力は、周囲になじめない者の視点から書かれているところにもあります。例えば、先ほど引用した「王様の声に逆らって」という部分からは、王様という言葉を使って非日常化をしながら、社会のルールになじめない様子、権力に対する怒り、といった感情を語り手が持っていることを示唆します。

 また、「道化師」という言葉が出てくる部分の歌詞も、様々な解釈の余地があります。

道化師は素顔を見せないで
冗談みたいにある日居なくなった

 道化師がなにを意味するのか、文字通りのピエロを意味する可能性もありますが、やはりここも比喩的な意味を含んでいて、本当のことを言わない人、素顔を見せない人のことを歌っているのではないでしょうか。また、「キミ」が語り手の元恋人で、今は会うことができなくなってしまった、という解釈も可能です。意味が多層性を帯びるところも、ピロウズの歌詞の魅力だと思います。

 そして、この曲の最後の部分の歌詞には、リスナーへの応援歌である、ということが凝縮されています。

飛べなくても不安じゃない
地面は続いているんだ
好きな場所へ行こう
キミなら それが出来る

 まわりになじめなくても、自分のペースで頑張っていこうという、ピロウズからのメッセージのように響きます。こういう曲を歌ってくれるところが、僕がピロウズというバンドが好きで、心から信頼している理由です。

歌詞全体の意味

 この曲には「王様」「オーロラ」「ビーズ」「道化師」と、印象的な言葉がいくつも出てきます。「王様」を権力の象徴と解釈するなら、マジックリアリズム的に社会を風刺した歌だとも言えるし、「キミ」を元恋人と解釈するなら、今は会えなくなってしまった人の幸せを祈る歌のようにも聞こえます。さらに、前述したようにリスナーに対する応援歌のように響く部分もあります。

 印象的な言葉選びと、「キレイだねって夜空にプレゼント」「冗談みたいにある日いなくなった」のような断片的だけど具体的な出来事の提示によって、リスナーがイマジネーションを使って、曲の世界観にひたることができる。この記事のタイトルにも「マジックリアリズム」という言葉を使いましたが、非現実と現実が溶け合い、表層的な意味と、その奥にあるメッセージを、リスナー自身が想像して楽しめるところが、この曲の魅力であり、特異な点だと思います。

コード進行とアレンジ

 最後に、この曲の音楽面について。歌詞の世界観もすばらしいのですが、サウンドとアレンジにも、いくつもフックがあって、幻想的な曲の世界観を形作っています。そして、なんといってもボーカルの山中さわおさんの声が良い。

 この曲のキーはニ長調(D major)。イントロとAメロは、シンプルに2コードで進行していきます。ここでは2本のギターが、8分音符を刻んでいきます。リズムはきっちりと揃い、音質も似ており、2本のギターが一体となってコードを構築しているようです。非常に一体感があるのですが、ところどころほどけるように音の動きがあって、その有機的な耳ざわりがかっこいい。ギターに対して、ベースとドラムのリズム隊は、休符を効果的に使って、曲にグルーヴ感をもたらしています。

 曲が進み「ほどけてバラバラになったビーズ」からのBメロでは、コードがG→F#m→Bm→Gと展開していき、歌詞と対応するようにそれまで一体感のあった2本のギターもほどけて、解放感が生まれます。さらにサビになると、コードの切り替えがますます増え、ベースとドラムも8ビートを刻み、バンドの一体感もクライマックスへ。こういうメリハリのついたアンサンブルが、ロックバンドの魅力のひとつです。

 リアリティーと幻想が入り混じる歌詞に、一聴するとシンプルなのに、バンドのかっこよさが凝縮されたようなサウンド。そして、歌詞にぴったりと寄り添った、優しくも力強い、さわおさんのボーカル。ピロウズ大好きです!