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欅坂46「アンビバレント」歌詞の意味考察 何に対してアンビバレントな感情を持つか?


目次
イントロダクション
歌詞の設定
何に対してアンビバレントなのか?
「私」の心情
夏の季節感
結論・まとめ

イントロダクション

 「アンビバレント」は、2018年8月15日にリリースされた、欅坂46の7枚目のシングル。作詞は秋元康。

 タイトルの「アンビバレント」は、「相反する感情を持つ」という意味の英語の形容詞「ambivalent」。タイトルのとおり、相反する複雑な感情が歌われている曲です。

 デビュー・シングル「サイレントマジョリティー」では、マイノリティ対マジョリティ、社会vs自分という対立軸を用いて、ロック的とも言えるメッセージを発した欅坂46。

 「サイレントマジョリティー」に限らず、欅坂の楽曲には、社会との違和や孤独を描いたものが多くあります。特に、現代社会における孤独や違和感、コミュニケーション不全を扱っており、その点では時代の映し鏡としてのポップ・ミュージックらしさを、多分に含んでいると言っていいでしょう。

 「アンビバレント」も例外ではなく、現代的な要素を散りばめながら、人間関係における孤独と違和感を歌っています。では、この曲では何がテーマになっているのかと言えば、前述のとおり、相反する感情。

 先に結論を言ってしまうと、「孤独なまま生きていたい」「だけど一人じゃ生きられない」という感情が、描かれていきます。

 では、具体的にどのように感情が描かれていくのか、歌詞の意味を考察してみたいと思います。

歌詞の設定

 まずは、語りの視点や時間設定など、歌詞の枠組みを確認しましょう。

 歌詞をざっと見渡すと、語り手は「私」。出てくる人称代名詞は「私」のみで、語り手である「私」の感情が、歌詞の内容となっています。

 「私」が感情を綴っていくということで、メッセージが前景化した抽象的な歌詞を想定していると、意外にも具体的な季節設定がなされていることに気がつきます。

 設定されている季節は夏。歌詞の中では「ラブソングばかり流れるシーズン」とも、表現されています。

 前述のとおり、この曲は「1人で生きたいが実際には1人では生きていけない」ということを歌っています。これだけを切り取ると、人はどう生きていくべきか、というシリアスな問いを扱った曲だと思われます。

 しかし、そういう要素も含んではいるのですが、「ラブソング」や「ハッシュタグ」のようなカジュアルな単語を散りばめ、日常的な人間関係のことも、同時に扱っています。

 語り手は「私」。季節は夏。テーマは、人間関係における、アンビバレントな感情について。

 以上の基本設定が確認できたところで、実際に歌詞を読み解いていきましょう。

何に対してアンビバレントなのか?

 再生を開始すると、イントロ部分で「Ambivalent about」というフレーズが、呪文のように繰り返されます。

 直訳すれば、「(about以下に対して)アンビバレントな感情を持っている」という意味。しかし、主語と目的語が省かれているため、具体的に何を指しているのかは、ハッキリしません。

 主語は語り手の「私」だとして、何に対してアンビバレントだと言っているのか。僕が考える3つの仮説を、最初にご紹介します。

 まず、一つ目の仮説は、歌詞の終盤に出てくる「この夏」。この曲では、夏が恋を推奨する季節として描かれています。

 「私」は1人でいたいと思いつつ、孤独にはなりたくない、というアンビバレントな感情を持っている。そして、誰かと一緒にいること、言い換えれば「恋」を推奨する夏という季節に対しても、アンビバレントな感情を持っているということです。

 二つ目は、サビの歌詞に出てくる「Blah Blah」。「Blah」とは、英語の間投詞で「バカバカしい」、名詞で「ばかばかしいこと」といった意味を持つ言葉。

 二つ目の仮説となった理由は「Ambivalent about」と同じく、英語で表記になっている点。夏を浮かれたバカバカしい季節だとしながらも、自分自身もなにかを期待し、完全に嫌いなわけではない、曖昧な感情をあらわしている、という解釈です。

 そして最後の三つ目は、具体的に指し示す言葉はなく、自分をとりまく環境全体に対しての感情、という解釈。二つ目の仮説とも被りますが、ある一定の人間関係を求めてくる社会に対して、受け入れたくないけど、そういうわけにもいかない、という感情を持っているという解釈です。

 以上、3点の仮説を挙げました。では、実際にどのような解釈が妥当か意識しながら、歌詞の意味を考察していきましょう。

「私」の心情

 この曲はイントロの後、サビから始まります。最初のサビの歌詞を、以下に引用します。

好きだと言うなら否定しない
嫌いと言われたって構わない
誰かの感情 気にしてもしょうがない
他人に何を 思われても
何を言われても聞く耳持たない
干渉なんかされたくない 興味がない
Blah Blah(Hey!)
Blah Blah(Hey!)
孤独なまま生きていきたい
Blah Blah(Hey!)
Blah Blah(Hey!)
だけど一人じゃ生きられない

 上記引用部では、語り手である「私」の心情が、マシンガンのように吐き出されています。その内容は、「私」の持つ心情と価値観。歌い出しから、まず「私」がどういった人であるのか、明らかになっていきます。

 引用部から察するに、「私」は他人の目を気にせず、自分の価値観に基づいて生きたいタイプのようです。そのため、引用部9行目では「孤独なまま生きていきたい」とも言っています。

 しかし、引用部最後の行に「だけど一人じゃ生きられない」と記述され、実際問題として人は一人では生きられないことも理解しています。

 自分は1人で生きていきたいけど、実際は完全に1人で生きることはできない。自分の感情と、社会システムの間で、板ばさみとなった状態が、表現されています。

 サビの後に続く、Aメロの歌詞を、以下に引用します。

ラブソングばかり流れるシーズン
マジ恋人いない聞くなリーズン
誰かは誰かを必要多分
世の中ロマンスで回ってる

 1行目に「シーズン」と出てきますが、上記の引用部内では、具体的な季節の記述はありません。しかし、先述したとおり、歌詞の後半で季節設定が夏であることが、明らかになります。

 引用部1行目の「ラブソングばかり流れる」というのは、メディアが作り出す、恋愛を推奨する空気を言っているのでしょう。そして、2行目の「マジ恋人いない聞くなリーズン」からは、語り手の「私」がそうした空気に苛立っている様子が伝わります。

 3行目と4行目からは、そうした空気に苛立ちを感じつつも、恋愛感情はプリミティヴな感情のひとつであり、世界は感情をもとに回っている事実を、「私」が理解していることが分かります。

 続いてBメロの歌詞を、以下に引用します。

ねえ 何をしたいの? どこに行きたいの?
私だったら何もしたくない

 引用部1行目は、具体的な誰かからの問いかけというより、一般的にありふれた質問例ということでしょう。Aメロの内容を補強するように、「私」がそのような質問にウンザリしている様子が、上記2行で表されています。

 その後に続く、Cメロの歌詞を引用します。

誰かと一緒にいたって
ストレスだけ溜まってく
だけど一人じゃずっといられない Ambivalent

 上記の引用部では、さらに「私」の価値観が明らかにされます。Aメロでは、ラブソングばかり流れる浮ついた季節に、嫌悪感を表していた「私」。上記Cメロでは、そもそも誰かと一緒にいること自体がストレスになる、と告白しています。

 サビに至ると、「私」の心情がさらに詳細に語られます。サビの歌詞を、以下に引用します。

あっちを立てる気もないし
こっちを立てる気だってまるでない
人間関係 面倒で及び腰
話を聞けば巻き込まれる
いいことなんか あるわけないじゃない
それでも誰かがいなけりゃダメなんだ
I know(Hey!)
I know(Hey!)
ちゃんとしていなくちゃ愛せない
I know(Hey!)
I know(Hey!)
ちゃんとしすぎてても愛せない

 上記に引用したサビでは、一貫して1対1の人間関係について歌われています。

 まず、1行目と2行目。1行目の「あっちを立てる気もないし」は、「私」には相手を立てる気がないこと、そして2行目の「こっちを立てる気だってまるでない」は、相手も「私」を立てる気がないことを表しています。

 引用部9行目と12行目でも、同じように人間関係が扱われています。9行目の「ちゃんとしていなくちゃ愛せない」と、12行目の「ちゃんとしすぎてても愛せない」は、共に相手があることを前提にした言葉。

 相手に合わせて、ちゃんとしなくてはいけないし、ちゃんとしすぎてもいけない。一方通行ではなく、そのため「私」にとっては面倒に感じられる人間関係を表した表現です。

 1番の歌詞をまとめると、Aメロからサビまで、「私」の人間関係をわずらしいと思う価値観が、一貫して描かれています。

 しかし同時に、「一人じゃずっといられない」「それでも誰かがいなけりゃダメなんだ」という言葉も見られ、人は1人では生きられないことを理解しています。

夏の季節感

 2番に入ると、歌詞には具体的な描写が増加。1番では「ラブソングばかり流れるシーズン」と記述されていましたが、2番では季節設定が「夏」だと、ハッキリと明かされます。

 2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

夏だから猫も杓子も猛ダッシュ
ハッシュタグつけた恋なんてごめん
太陽味方につけたような
よくいるタイプの単細胞

 一言目に「夏」と出てきて、季節設定が判明します。1行目の「夏だから猫も杓子も猛ダッシュ」という表現は、前後の文脈を考えると、夏は誰もが恋に熱心だということでしょう。

 「夏だから」という言い回しから、恋に熱心になる理由が夏にある、ということも分かります。つまり、この曲では「夏」が、恋に熱心にある季節として描かれているということ。

 2行目の「ハッシュタグつけた恋」という表現は、何を意味するでしょうか。その意味を探るため、まずは「ハッシュタグ」がどのような意味と機能を持つか、考えてみましょう。

 ハッシュタグは、ある言葉をキーワードとして目立たせるため、そしてSNS上で検索をしやすくするため、付けるタグのこと。特にInstagram(インスタグラム)では、画像とタグ付けされた言葉のみの投稿が散見されます。

 「ハッシュタグつけた恋」ということは、ぶつ切りにされたキーワードのみで構成されるような、うわべだけの恋。あるいは、他人に見せつけるためだけの恋、というような意味でしょう。

 「私」は、「ハッシュタグつけた恋なんてごめん」だと言っています。これは「私」は、他人に自慢することが目的化した人間関係は、本質的ではないし煩わしい、と考えているということでしょう。

 引用部3行目と4行目は、恋愛対象の候補者の描写だと解釈できます。「太陽味方につけたような よくいるタイプの単細胞」という表現から示唆させる人物像は、夏の季節感にあった開放的な性格で、なおかつハッシュタグ付きの恋をする軽薄さを、含んでいるのではないかと思います。

 また「よくいるタイプ」という言葉が使われているところから、社会の雰囲気に合わせられる人物を、代表しているとも言えるでしょう。

 続くBメロでは、上記の候補者と「私」の会話と思われる内容が記述されます。以下に引用します。

さあ 何を始める? どんな会話する?
やりたいことは別にないけれど

 こちらの引用部からは、「私」と相手との温度差が分かります。前述したとおり、相手はラブソングが流れる社会の雰囲気に、適応できる人物。

 そのため上記引用部は、恋愛に対するテンションの違いだけではなく、両者の価値観の違い、「私」が世間の空気に馴染めないことさえ、示唆していると言えます。

 さらにCメロでは、以下の歌詞が続きます。

ずっと自分だけの世界に
引きこもっていたいのに…
青空の下で まだ無理をしなきゃいけないか

 こちらの引用部では「私」の心情が吐露されています。ラブソングが流れ、恋愛を推奨する夏。そんな社会の空気に合わせて、「私」も誰かと一緒にいようとするものの、その試みが負担になっています。

 以上のように、2番の歌詞では「夏」が恋愛を推奨する季節として描かれ、「私」がそのような空気感に馴染めない様子が、綴られていきます。

結論・まとめ

 この曲では、一貫して「私」のアンビバレントな感情が描かれています。

 2番のサビ後に挿入される歌詞が、「私」の感情を端的に表しています。以下に引用します。

願望は二律背反
押し付けの理性なんて信じない

 1行目の「願望は二律背反」というのは、「孤独なまま生きていたい」、でも実際には人は「一人じゃ生きられない」という、理想と現実に挟まれた状態を表しているのでしょう。

 2行目の「押し付けの理性なんて信じない」は、世間が提示する価値観を理解しながら、うまく順応できないことを言っているのだと解釈できます。

 歌詞の内容で言えば、誰かが誰かを必要とし、社会がそれを推奨するのは理解できるけど、「私」はその価値観にうまく馴染めないということ。

 さらに、最終盤の歌詞には、「私」の状況を確認するような言葉が並びます。以下に引用します。

一人になりたい
なりたくない
一人になりたい
なりたくない
Oh! Yeah!
だけど孤独に
なりたくない
どうすればいいんだ

この夏

 上記引用部は、ここまで確認してきた内容を、補強すると言っていいでしょう。さらにこの後には、イントロの「Ambivalent about」というフレーズが再び登場し、曲は幕を閉じます。

 では、最後にこの曲は、何に対してアンビバレントなのか検討し、論を閉じたいと思います。先ほど3つの仮説を提示しました。

 一つ目は、上記の引用部に出てくる「この夏」。二つ目は「Blah」。そして三つ目は、状況全体を指している、という解釈。

 「Ambivalent about」というフレーズの後に、あえて目的語が省略されていることを考えると、三つ目の「状況全体を指している」と解釈するのが、最も適当かなと思います。

 ただ、歌詞の中には確定できる要素はありませんし、「この夏」や「Blah」と解釈しても、意味が広がり違った一面が見えてきますよね。

 個人的には、内在的に特定できない部分は、自由に解釈して楽しんで良い、と考えています。その曖昧性が、歌の魅力の一部でもあると思いますし。

 いずれにしても、この曲がタイトルのとおり、アンビバレントな感情を描き出していることは確かでしょう。

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欅坂46「ガラスを割れ!」歌詞の意味考察 「ガラス」の比喩はなぜ使われたのか?


目次
イントロダクション
語りの視点
「犬」の比喩
「ガラス」の比喩
曲のテーマ
結論・まとめ

イントロダクション

 「ガラスを割れ!」は、アイドルグループ欅坂46の6枚目のシングル。2018年3月7日にリリース。作詞は秋元康。

 「サイレントマジョリティー」でデビューして以来、楽曲のテーマにたびたび「反抗」が採用されている欅坂46。6thシングルとしてリリースされたこの曲も、反抗性を多分に持っています。

 「ガラスを割れ!」という命令形のタイトルが、まず挑発的。タイトルからも示唆されるように、抑圧からの脱却がテーマとなった楽曲です。

 では、実際にガラスを割ってまわる歌なのかというと、そうではありません。歌詞に「抑圧のガラスを割れ!」という一節も出てくるのですが、「ガラスを割る」という表現は、物理的な意味ではなく、比喩的に使われています。

 また、歌詞には犬を用いた比喩も出てくるのですが、なぜガラスを用いた比喩も織り交ぜ、なおかつタイトルにまで採用したのか。

 「ガラス」の比喩が用いられた理由はなにか、という視点に基づいて、この曲の歌詞の意味を、読み解いてみたいと思います。

語りの視点

 最初に、語りの視点を確認しておきましょう。歌詞をざっと見渡すと、「私」や「僕」といった一人称代名詞が出てこないことが分かります。

 「おまえ」という二人称代名詞は出てきますが、これも特定の誰かを指しているわけではありません。抑圧された状態のある人々に対する、呼びかけとして使われていると想定できます。

 つまり、この曲は特定の誰かの人間関係を描いているわけではありません。では、何が歌われているのかと言えば、「ガラスを割れ!」とい挑発的なタイトルが示唆するように、語り手が一方的にメッセージを発していきます。

 そのメッセージがどのような内容か、実際の歌詞に沿って、確認していきましょう。

「犬」の比喩

 まずは1番のAメロ前半の歌詞を、以下に引用します。

川面(かわも)に映る自分の姿に
吠えなくなってしまった犬は
餌もらうために尻尾振って
飼い慣らされたんだろう
(BOWWOW)

 上記の引用部は、実際の犬を描写しているのではなく、飼いならされた犬のように、従順な状態にある人を、「犬」を比喩に用いて描いている、と解釈すべきでしょう。

 つまり、上記の引用部で伝えたいことは、川のそばにいる犬の様子ではなく、飼い犬のように従順な状態にある人々のこと。

 1行目から2行目にかけて、「川面に映る自分の姿に 吠えなくなってしまった」とあります。これは、自分自身に吠えること、つまり自分自身を奮い立たせることなく、従順になった状態を、強調するための表現なのでしょう。

 犬の比喩は、後半にも続きます。Aメロ後半部の歌詞を、以下に引用します。

噛みつきたい気持ちを殺して
聞き分けいいふりをするなよ
上目遣いで媚びるために
生まれて来たのか?
(HOUND DOG)

 上記引用部でも、前半の内容が繰り返し確認されています。すなわち、飼い犬のように従順な状態にある人々が、犬に例えて描写されています。

 続いて、1番のBメロの歌詞を引用します。

今あるしあわせに どうしてしがみつくんだ?
閉じ込められた 見えない檻から抜け出せよ

 ここでも、犬の比喩が引き続き用いられています。飼い主に守られた、安全な状態。そのような状態を、なんとなくレールに乗り、刺激のない生活を送っている人々の状況に、照らし合わせているのでしょう。

 そう考えると、引用部1行目の「今あるしあわせ」と、2行目の「見えない檻」は、同じ状態を指しています。すなわち、レールに乗った刺激のない状態を好むなら「今あるしあわせ」、より刺激的な生活を望むなら「見えない檻」という表現になるということ。

 「しあわせ」と漢字ではなく、あえてひらがなで表記しているのは、語り手はそのような状態を、決して幸せとは考えていないから、ということでしょう。ひらがなにすることで、生ぬるい状況を強調したのではないかと思います。

 さて、ここまでずっと犬の比喩を用いた表現が続いてきました。しかし、サビに入ると「ガラスを割れ!」という言葉が使われ、比喩の質が変わります。

 犬の比喩を続けるならば、「リードを引きちぎれ!」や「檻から出ろ!」の方が適切ですが、なぜガラスを用いた比喩を用いたのか。サビの歌詞を見ながら、検討します。

「ガラス」の比喩

 サビに入ると、早速「ガラスを割れ!」という言葉が登場します。1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

Rock you!
目の前のガラスを割れ!
握りしめた拳で Oh!Oh!
やりたいこと やってみせろよ
おまえはもっと自由でいい 騒げ!
(OH OH OH OH OH…)
邪魔するもの ぶち壊せ!
夢見るなら愚かになれ
傷つかなくちゃ本物じゃないよ

 前述したとおり、AメロとBメロで共通していた犬の比喩は、サビでは用いられていません。その代わりに、刺激のない生活を打破することを「ガラスを割れ!」という象徴的な一言で、表しています。

 言い換えれば、それまでの「犬」の比喩に代わり、サビでは「ガラス」の比喩が使われている、ということ。では、なぜガラスを割ることが、現状を打破することを表すために、採用されたのか。

 その答えは、サビの歌詞の最後の行にあります。「傷つかなくちゃ本物じゃないよ」という一節。この意味を歌詞に込めるために、犬の比喩を続けるのではなく、ガラスの比喩を織り交ぜたのでしょう。

 もし、現状を打破することだけを伝えたいのなら、犬の比喩を続けて「リードを引きちぎれ!」という表現でも良かったはず。しかし、現状を打破して、自分らしく生きるのには、痛みを伴う。その痛みを表現するために、ガラスの比喩を用いた、というのが僕の仮説です。

 では、なぜ痛みを表現するためにガラスを用いたのかと言えば、その特性が理由でしょう。ガラスは割れると、バラバラの破片になり、なおかつその破片は尖っていて、非常に危険。また、割れる時には破片が飛び散り、視覚的にも想像しやすいです。

 つまり、「ガラスを割れ!」という一節からは、自らの拳でガラスを割れば痛みを伴う事と、視覚的にもセンセーショナルに割れる様子が、伝わってくるということ。

 このような鮮やかなイメージは、「リードを引きちぎれ!」という表現を用いていたら、伝わってきません。

曲のテーマ

 さて、ここまで確認してきた内容で、歌詞のテーマもハッキリしてきました。まとめると、自分らしく生きていない人を、飼い犬に例え、その状況を打破することを「ガラスを割れ!」という一言で推奨。

 自分らしく生きることを、扇動的にすすめるのが、この曲のテーマです。では、2番に入ると、歌詞はどのように展開するのか、順番に確認していきましょう。

他人(ひと)を見ても吠えないように
躾(しつ)けられた悲しい犬よ
鼻を鳴らしすり寄ったら
誰かに撫でられるか?
(BOWWOW)
リードで繋がれなくても
どこへも走り出そうとしない
日和見(ひよりみ)主義のその群れに
紛れていいのか?
(HOUND DOG)

 ここでは、再び犬の比喩が戻ってきました。1番のAメロと同様、自分を抑え、刺激のない生活を送る人を、犬に例えて描写していきます。

 引用部6行目からは、「リードで繋がれなくても どこへも走り出そうとしない」と記述され、無気力な状態をさらに強調しています。

 次に、2番のサビの前半部分を、以下に引用します。

抑圧のガラスを割れ!
怒り込めた拳で Oh!Oh!
風通しをよくしたいんだ
俺たちはもう犬じゃない 叫べ!
(OH OH OH OH OH…)

 「ガラスを割れ!」という表現は、物理的にガラスを割ることではなく、抑圧からの脱却を比喩的に示したものだと、最初に書きました。

 上記引用部の1行目では、「抑圧のガラスを割れ!」と、比喩であることがハッキリとわかる表現が使われています。同時に、この曲のテーマも、より鮮明になっていると言えるでしょう。

 ガラスが割れる鮮烈なイメージ。そのイメージを利用して、何が砕け散る様子を描きたいのか、その理由がこの一節から分かります。

 「抑圧のガラス」というのは、抑圧とガラスがイコールで結ばれ、抑圧の象徴としてガラスが用いられている、と解釈するのが自然でしょう。つまり、ガラスは抑圧を象徴し、そのガラスが砕け散るイメージは、抑圧からの脱却を表しているということ。

 歌詞の終盤には「想像のガラスを割れ!」という表現も登場。この表現は、ガラスが抑圧の象徴であるのと同時に、目に見えないものであることを表しています。

 すなわち、ガラスは抑圧を象徴し、その抑圧というのは肉体的な拘束ではなく、社会のルールであったり、暗黙の了解であったり、目に見えない精神的なものであるということ。

 そのような状態を脱却し、自分の頭で考え、自分で行動することを、この曲では「想像のガラスを割れ!」という一言に込めて、推奨しているのです。

 また、透明なガラスを目に見えない抑圧に例えている、という解釈も可能でしょう。

結論・まとめ

 以上、「ガラス」の比喩はなぜ使われたのか、という視点で歌詞を読み解いてきました。

 考察してきたことをまとめると、この曲では2種類の比喩が使われています。ひとつは犬の比喩。もうひとつは、ガラスの比喩。

 犬は従順さ、ガラスは抑圧を象徴していて、無意識にルールを受け入れて生きるのではなく、自分らしく生きることを推奨するのが、この曲のテーマです。

 そして、犬の比喩だけにとどまらず、ガラスの比喩を用いたのは、抑圧からの脱却には痛みを伴うことを、ガラスを拳で割るイメージで描き出すため。全体をまとめると、こんなところでしょうか。

 「ガラスを割れ!」というアグレッシヴな曲名が示唆するとおり、ガラスを拳で割るイメージを巧みに利用し、目に見えない抑圧という敵との戦いを描いています。

 2種類の比喩をブレンドしながら並行して用いているのが、この曲の特徴であり、優れた点である、というのが僕の結論です。

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欅坂46「サイレントマジョリティー」歌詞の意味考察 アイドルとロックの交錯


目次
イントロダクション
曲のテーマ
アイドルらしさとは何か?
ロック的とは何か?
なぜ「僕」ではなく「僕ら」なのか?
交差点の描写
「僕ら」と「君」は誰か?
1番と2番の歌詞の差異
結論・まとめ

イントロダクション

 「サイレントマジョリティー」は、2016年4月6日にリリースされた、欅坂46のデビューシングル。作詞は秋元康。

 リリース当初から歌詞のメッセージ性が話題となり、良くも悪くも欅坂46のパブリック・イメージを決定づけた1曲と言っていいでしょう。

 すでに多くの考察や解釈がなされています。そして、その多くで指摘されるのが「アイドルらしくない」「ロック的だ」という点。

 では、そもそもアイドルらしさとは何か、ロックとは何か、という視点を意識しながら、この曲の歌詞を僕なりに読み解いてみたいと思います。

曲のテーマ

 前述のとおり、この曲を批評する際に、たびたび「アイドル的ではない」「ロック的だ」という主張がなされます。

 それでは、アイドル的ではなくロック的であると言うならば、どのようなことが歌われているのか、まずはこの曲のテーマを確認しましょう。

 タイトルになっている「サイレントマジョリティー」とは、英語で綴ると「silent majority」。「物言わぬ多数派」を意味する言葉です。

 アメリカ合衆国の第37代大統領、リチャード・ニクソンが、1969年に演説で使ったことで一般的になりました。

 「物言わぬ多数派」とは、多大な発言力を持った権力者ではなく、発言をしない、あるいはできない立場の大多数の人々のこと。

 この曲では、語り手がサイレントマジョリティーでいることを否定し、自分らしく生きようと訴えます。権力者や社会の空気に流されるのではなく、自分の思い通りに生きることを推奨する、端的に言えば反抗の歌です。

アイドルらしさとは何か?

 それでは、続いて「アイドルらしい」「アイドル的である」とは何を意味するのか、検討しましょう。

 前述のとおり「サイレントマジョリティー」は、反抗をテーマにした歌。そのような歌が「アイドル的でない」とするならば、そこから示唆されるのは、アイドルは従順でなければならない、という思想です。

 アイドルは従順でなければならない、反抗的であってはならない。このようなイメージが、なぜ広く共有されることになったのでしょうか。考えてみると、いくつかの理由が浮かび上がります。ここでは二つの理由を挙げておきましょう。

 まず一つ目は、多くのアイドルは自作自演ではないこと。全体を統括するプロデューサーがおり、曲を作る作家陣がおり、振り付けを考えるコレオグラファー、衣装を作るデザイナー、といった具合に、徹底した分業制が敷かれていることがほとんどです。

 その分業の中のパフォーマーとして、アイドルが存在しています。いわば、歯車の一枚であり、求められた仕事をこなす存在である、というイメージを自ずと包括しているということ。言うまでもなく、そこには反抗心は必要なく、システムに対して従順であることが求められます。

 そして二つ目の理由は、歌や演技のクオリティよりも、ルックスや疑似恋愛対象としての魅力が、求められていること。

 アイドル戦国時代と言われて久しい現代。多くのアイドル・グループが存在し、「ももクロの全力ライヴはロックだ」「エビ中の歌唱力はアイドルを超えている」「白石麻衣さんはルックスだけでなく演技も良い」というような言説を耳にする機会もたびたびあります。

 上記三つの例は、いずれも「アイドルとはこういうものだ」という共通のイメージがあり、その範疇を超えたときになされる発言です。

 「エビ中の歌唱力はアイドルを超えている」を例に取ると、その裏には「アイドルは歌手やバンドに比べて、歌唱力が劣るものだ」という思想が見え隠れしています。つまり、そもそもアイドルには、パフォーマーとしてのクオリティは期待されていないということ。

 では、何が求められているのかと言えば、先述したとおりルックスや恋愛対象としての魅力。アイドルがライヴと並んで、場合によってはライヴ以上に、握手会や2ショット撮影会を熱心におこなうのは、こうした期待に応えるためと言えます。

 以上の2点が、アイドルが従順であるべき、というイメージが流通することになった、主な理由だと考えています。

 「従順であるべき」というのは、いささか強すぎる表現なので言い換えると、アイドルは自己主張をするための手段ではない、ということ。

 「アイドルは笑顔を届ける存在」という言説は、上記の思想と表裏一体とも言えるでしょう。

ロック的とは何か?

 では続いて、ロック的とは何を意味するのか、検討していきましょう。

 ここまで検討してきた「アイドル的」と対立する概念だと仮定すれば、分かりやすいのではないかと思います。

 先ほどまでの議論で、確認できた事柄を振り返りましょう。アイドルが分業制の一部であり、主張の手段ではなく、歌や演技以上にキャラクターが重視される存在である。

 これらを逆にしていくと、「ロック的」という概念に、当たらずといえども遠からず、ではないでしょうか。すなわち、ロック・バンドは自作自演で自らのメッセージを発し、自己主張の手段であり、なによりも音楽のクオリティを重視する。

 ロック・バンドの音楽ではなく、ルックスを好きになるファンのことを「顔ファン」と、やや嘲笑的なニュアンスを含んで呼ぶことがあります。ここには、ロックの良し悪しはルックスや人間性ではなく、音楽のみで判断すべき、というアイドルとは真逆のイメージが隠れています。

 つまり、ルックスや性格が判断材料になるアイドルに対して、ロックでは音楽が価値判断の材料になるということ。

 そして、ロックは音楽に含まれるメッセージ性も、重要な判断材料となります。これは、1960年代から70年代にかけて、カウンターカルチャーとして影響力を持っていた、歴史的事実も関係しているのでしょう。

 まとめると、アイドルはパフォーマーとしての質よりもキャラクターで評価され、従順な存在であることを期待される。対して、ロック・バンドは音楽のみで評価され、(時に反抗的な)メッセージの発信を期待されている、ということです。

 しかし、もちろん例外もあり、ある程度は単純化した議論である点はご留意ください。

なぜ「僕」ではなく「僕ら」なのか?

 さて、ロックとアイドルそれぞれのイメージと差異が確認できたところで、実際の歌詞を見ていきましょう。

 まず、語りの視点を確認すると、一人称代名詞として「僕」ではなく、「僕ら」と複数形が用いられています。これは、どういった目的で、どのような効果を生んでいるでしょうか。

 結論から言うと、リスナーの共感を得るため。「僕」ではなく「僕ら」とすることで、聞き手を歌詞の世界に引きずりこみ、共犯関係を結んでいる、というのが僕の考えです。

 歌詞には「君」という二人称代名詞も用いられ、問いかけのように綴られる部分があります。この「君」は、特定の誰かを指しているというよりも、歌詞世界の中ではサイレントマジョリティーであり続ける不特定の人を指し、同時にこの曲を聴いているリスナーへの問いかけにもなっています。

 この曲には「僕ら」「君」「君たち」と、数種類の人称代名詞が出てきます。しかし、歌詞の内容は「僕」と「君」の関係を扱うものではなく、より抽象的にメッセージが発せられるもの。いわば、メッセージが前景化された歌詞と言えます。

交差点の描写

 では、人間関係のストーリーではなく、メッセージが前景化しているのだとして、具体的に何が歌われているのか、確認していきましょう。1番のAメロ1連目の歌詞を、以下に引用します。

人が溢れた交差点を
どこへ行く?(押し流され)
似たような服を着て
似たような表情で…

 渋谷のスクランブル交差点のような、多くの人が行き交う交差点を想定しているようです。上記の引用部では、社会のルールを無自覚に受け入れ、システムに組み込まれた人々が、交差点のイメージをとおして描写されています。

 スーツを着た人々は言うに及ばず、私服を着た人々でさえ、メディアが作り出す流行に沿った、似たような格好をしている様子を、描いているのでしょう。

 目に見える服装だけでなく、思想や行動様式の一致も、4行目の「似たような表情で」は表しています。具体的には、決められたルールをなんとなく守ることだけでなく、流行の飲食店に飛びつくような価値判断も、含まれているのではないかと思います。

 続いて、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

群れの中に紛れるように
歩いてる(疑わずに)
誰かと違うことに
何をためらうのだろう

 上記の引用部では、語り手の心情が語られています。そして、その内容は、直前の歌詞の説明になっています。

 つまり、1連目では交差点のイメージを提示し、2連目でそのイメージがどのような意味であったか説明する、応答の関係になっているということ。

 1連目では、多くの人が似たような服を着て、交差点を行き交う様子を描写。見たままの事実が綴られるだけで、語り手の価値判断は含まれていません。

 それに対して2連目では、交差点の人々への、語り手の疑問が綴られています。その内容は、引用部の3行目と4行目。なぜ人々は、誰かと違うことをためらうのか、というのが語り手の意見です。

 続くBメロでは、さらに内容が補足されます。

先行く人が振り返り
列を乱すなと
ルールを説くけど
その目は死んでいる

 Aメロ1連目では交差点の描写、2連目では語り手の心情が記述され、上記のBメロで再び交差点へ戻ってきました。

 1連目では、その場の様子を描写するだけでしたが、Bメロでは語り手が「先行く人」に話しかけられています。その内容は、引用部2行目のとおり。

 「ルールを説くけど その目は死んでいる」という表現は、無自覚に社会のルールに従う態度を、Aメロ以上に強調しています。

 まとめると、1番のAメロとBメロの歌詞は、交差点を歩く人々を、ルールに無自覚であることの象徴として、描写しています。

「僕ら」と「君」は誰か?

 サビに入ると、それまでの交差点の描写から一転し、語り手のメッセージが次々と発せられます。1番のサビを、以下に引用します。

君は君らしく生きて行く自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めから そうあきらめてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか?
サイレントマジョリティー

 引用部のラストに、曲名にも採用されている「サイレントマジョリティー」という言葉が出てきました。前述したとおり、サイレントマジョリティーとは物言わぬ多数派のこと。

 AメロとBメロでは、交差点をモチーフにルールに従順な人々が描かれていましたが、彼らをサイレントマジョリティーの例として描いていることは明らかです。

 ここまでの歌詞の構造をまとめると、まずサイレントマジョリティーの具体例を提示し、サビでは彼らになるべきではない、という語り手の主張がなされます。つまり、AメロとBメロで問題点を提起し、サビで回答する、という構造。

 では、語り手はどのような答えを出しているのか。その内容が、上記の引用部にあたります。

 2行目に出てくる「大人たち」は、Bメロに出てきた「ルール」を象徴する言葉でしょう。ルールに疑問を持たず、従う存在のことを「大人」と呼んでいるのだと考えられます。

 上記のサビの歌詞をまとめると、ルールに従い、声を発しないサイレントマジョリティーになるな!ということ。反抗の歌の色が、鮮明になってきました。

 それでは、この曲がサイレントマジョリティーからの脱却を推奨する歌だとして、「僕ら」と「君」はそれぞれ誰を表しているのでしょうか。

 先ほど、特定の誰かを指しているわけではない、と指摘しました。ここで話題にしているのは、特定の個人ではないとして、どのような存在を表しているのか、ということです。

 まず「僕ら」について。語り手も含む「僕ら」という表現は、人間一般を指しているように思われます。その根拠は、引用部4行目の「僕らは何のために生まれたのか?」という一節。

 語り手は、自分の意思を持たないサイレントマジョリティーを疑問視しています。上記の引用部は、その理由が記述された一節です。

 ルールに従って生きていたら、生まれてきた意味などない。言い換えれば、サイレントマジョリティーになることは非人間的であり、人は自分の意思に沿って道を決定し、生きるべきである。そのような語り手の思想が詰まっています。

 このように前後の文脈を考えると、ここで使われている「僕ら」とは、人間一般を指しているように思われるのです。試しに、引用部の「僕ら」に「人」を代入してみましょう。

 「人は何のために生まれたのか?」。こう言い換えても、矛盾なく意味が通じます。

 では、次に「君」について。結論から言うと、現在サイレントマジョリティー状態にある人、もしくはなりつつある人を想定しています。

 なぜなら、この曲では一貫して「君」を、鼓舞する言葉が並んでいます。「君らしく生きて行く自由があるんだ」「君らしくやりたいことをやるだけさ」「未来は君たちのためにある」などなど。

 もし「君」が、すでにサイレントマジョリティー状態を脱し、自ら声を上げられる存在であったなら、このように煽動的な言葉を並べる必要はありません。

 また、サビ最後の「サイレントマジョリティー」という歌詞を、サイレントマジョリティー状態にある「君」への呼びかけと解釈することも可能。

 まとめると、「僕ら」は人間一般を指し、「君」はサイレントマジョリティー状態にある人を指す、ということが確認できました。

1番と2番の歌詞の差異

 それでは2番の歌詞では、どのような展開を見せるのか、確認していきましょう。

 ここまでの議論で、歌詞が訴えるメッセージの趣旨は、ほとんど明らかになっていますので、1番と2番の歌詞の違いに注目しながら、読み解いていきます。2番のAメロの歌詞を、下記に引用します。

どこかの国の大統領が
言っていた(曲解して)
声を上げない者たちは
賛成していると…

 リチャード・ニクソンを連想させる「どこかの国の大統領」という言葉が使われ、サイレントマジョリティーの問題点が、再び強調されています。

 続いて、2番のBメロの歌詞を引用します。

選べることが大事なんだ
人に任せるな
行動しなければ
Noと伝わらない

 1番の歌詞では交差点のイメージが用いられ、まわりに流されていく人々が、サイレントマジョリティーの象徴として描かれていました。

 2番に入ると、今度は選択をしないこと、自らの主張をしないことが、問題点として指摘されています。1番では、ルールに無条件に従うことの問題点、そして2番では、自ら選択することの重要性が指摘されている、とも言えるでしょう。

 サビに入っても、1番と2番では、あきらかな差異があります。2番のサビの歌詞を、以下に引用します。

君は君らしくやりたいことをやるだけさ
One of themに成り下がるな
ここにいる人の数だけ道はある
自分の夢の方に歩けばいい
見栄やプライドの鎖に繋がれたような
つまらない大人は置いて行け
さあ未来は君たちのためにある
No!と言いなよ!
サイレントマジョリティー

 1番のサビと、上記2番のサビを比較してみると、両者の違いが鮮明にわかります。

 例えば、1番の1行目では「君らしく生きて行く自由があるんだ」となっていたのが、2番では「君らしくやりたいことをやるだけさ」という言葉に置き換わっています。

 1番と2番で、決められた道を歩く「君」に対して、扇動的な言葉をかけるという点では共通しています。では、両者の差異は何か。端的にあらわすなら、1番は他の道があることを教える内容、2番は行動を促す内容、ということになるでしょう。

 最も象徴的な言葉として、それぞれ8行目に出てくる「Yesでいいのか?」と「No!と言いなよ!」が挙げれらます。

 1番は、サイレントマジョリティーであり続けていいのか、と問いかける内容。2番は、サイレントマジョリティーからさっさと脱却しよう!、とけしかける内容とも言えます。

結論・まとめ

 ここまでの議論をまとめましょう。「サイレントマジョリティー」は、アイドルの楽曲でありながら、非アイドル的かつロック的なメッセージを有しています。その内容は、サイレントマジョリティー的に生きるのではなく、自分らしく生きることを推奨するもの。

 それでは最後に、この曲の魅力は何か、なぜセンセーショナルに受け入れられたのか。検討してみたいと思います。

 アイドルが、アイドルらしかぬテーマの曲を歌っているから、意外性があって面白い。というのも、もちろんそうなのですが、僕はアイドルとロックの要素が、混在しているから受け入れられ、成立した楽曲であると考えています。

 反抗的な歌詞は、実にロック的。しかし、ただ単にロック的な楽曲を、アイドルが歌っただけかと言うと、そうではありません。「サイレントマジョリティー」には、アイドル楽曲的な要素が含まれています。

 現代のアイドル楽曲のひとつの雛形として、応援ソングがあります。読んで字の如く、アイドルが聞き手を応援する歌詞を持った楽曲のこと。アイドルとヲタクの関係性を喚起させるという点で、握手会とも共通する、リアリティを伴ったスタイルの曲とも言えます。

 この曲では抽象的な「君」という代名詞が用いられ、リスナーへの呼びかけとも取れる構造を持っています。いわば、応援ソングとしての機能も獲得しているとは言えないでしょうか。

 また、先述のとおり一人称代名詞として、複数形の「僕ら」が使われています。これはリスナーを歌詞の世界観に引き込み、感情移入しやすい効果を生むのと同時に、語り手であるアイドルと、リスナーであるヲタクを繋ぐ役割を果たしています。

 まとめると、「サイレントマジョリティー」はロック的なメッセージと、アイドル的な応援ソングとしての機能が融合した、ハイブリッドな楽曲である。というのが僕の結論です。

 僕は欅坂の専任ヲタでも、熱心なファンというわけでもないのですが、話題になっていることから、この曲を聴いてみたところ、なるほど話題になるのにはそれなりの理由があるなと思い、このような考察を書いてみました。

 この曲をより深く楽しむきっかけをご提供できたら、幸いです。

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米津玄師「Lemon」歌詞の意味考察 味覚と感情をつなぐレモン


目次
イントロダクション
語りの構造
歌詞のテーマ
レモンの意味
「わたし」と「あなた」の関係性
「あなた」とは誰か?
結論・まとめ

イントロダクション

 「Lemon」は、徳島県出身のシンガーソングライター、米津玄師の楽曲。2018年3月14日に、メジャー8枚目のシングルとしてリリース。作詞作曲は米津玄師。

 また、TBS系列テレビドラマ『アンナチュラル』の主題歌にもなっています。同作は不自然死(アンナチュラル・デス)を扱ったドラマで、主題歌となった「Lemon」も、死生観をテーマとした楽曲になっています。

 しかし、そのような予備情報が無かったとしても、感情を呼び起こす力を持っているのが、この楽曲。一聴すると、つかみどころが無く、抽象的な歌詞のようにも聞こえますが、人との別れをテーマにした、深い意味が刻まれています。

 僕は「音楽はそれ自体で成立する」という考えを持っているので、「Lemon」の歌詞を、そこに書かれた情報に沿って、読み解いてみたいと思います。

語りの構造

 内容に入る前に、まずは語りの構造を確認しましょう。誰の視点から語られるのか、歌詞の中には誰が出てくるのか。

 歌詞をざっと見渡すと、語り手が「わたし」であることに、すぐ気がつきます。さらに「わたし」以外の登場人物を探すと、「あなた」が出てくることも分かります。

 また、「あなた」という言葉は何度も繰り返し使われ、話題の中心であるように思われます。

 登場人物は「わたし」と「あなた」の2人。そして、この曲は「わたし」の視点から、「あなた」について語っている、という前提で、内容を読み解いていきます。

歌詞のテーマ

 最初に、この曲のテーマについて検討しましょう。一体この曲は、何を語ろうとしているのでしょうか。

 最初に僕の考えを明かしてしまうと、この曲は人と人との別れ、および別れに伴う苦しい感情について歌っています。歌詞に出てくる人物は2人。つまり、「わたし」と「あなた」の別れについて、歌っているということです。

 では、具体的にどのように別れが描写され、別れによってもたらされる、どのような感情が描かれているのか、歌詞に沿って確認してみましょう。1番のAメロ1連目の歌詞を引用します。

夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う

 上記の引用部には「夢」という言葉が、2回出てきます。1行目の「夢ならばよかった」という表現から、「あなた」は既に会えない存在であることが示唆されます。

 2行目の「あなたのことを夢にみる」という一節は、さらに「あなた」の不在を強調する表現です。すなわち「あなた」は夢の中でしか会えない存在であることを意味しています。

 夢でしか会えない、ということは、「あなた」が亡くなってしまったことをも示唆しますが、ここの表現のみでは確定的なことは分かりません。

 3行目と4行目は、「わたし」が「あなた」のことを思い出し、感傷的な気分になっていることが表されているのでしょう。「古びた思い出」という言葉からは、「わたし」と「あなた」が長い付き合いであったことが示唆されます。

 歌詞の中では具体的に記述されていませんが、近しい家族あるいは長年連れ添った恋人のことを、歌っているのではないかと想像できます。

 Aメロの2連目では、さらに「あなた」の不在を強調する言葉が続きます。以下に引用します。

戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
言えずに隠してた昏い過去も
あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

 上記引用部の1行目と2行目は、やはり「あなた」が会えない存在になってしまったことを意味しているのでしょう。

 この2行からは「わたし」と「あなた」の関係性、そして「わたし」の豊かな感受性が垣間見えます。

 まず、ひとつめの2人の関係性。「戻らない幸せ」と言っているところから、「わたし」にとって「あなた」と共に過ごした時間が、幸せであったことが分かります。つまり、「あなた」は親しく大切な存在であったということ。

 続いて、ふたつめの豊かな感受性について。「わたし」は「あなた」と会えなくなったことを、引用部2行目の「最後にあなたが教えてくれた」という表現で表しています。不在を悲しいと言うのではなく、幸せを教えてくれたと表現する「わたし」は、優れた感受性の持ち主であると言えるでしょう。

 引用部の3行目と4行目では、「あなた」にはもう会えないということが、繰り返し強調されています。

 また、4行目では「あなたがいなきゃ永遠に昏いまま」と綴られています。言い換えれば、「あなた」に話すことができれば、昏い過去も明るくなり得たということ。この一節からも、「わたし」の「あなた」に対する信頼と愛情が感じられます。

レモンの意味

 Bメロを経て、曲は1回目のサビに入ります。サビには曲名にもなっている「レモン」(Lemon)という言葉が出てきます。

 人との別れ、特に親しい人の死すら連想させる楽曲のタイトルとして、「レモン」というのは一見すると違和感があります。

 では、なぜ「レモン」がタイトルに採用され、なにを意味しているのか、サビの歌詞を読み解きながら、考察したいと思います。

 1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光

 引用部1行目と2行目は、「わたし」にとって「あなた」が大きな存在であったことが記述されています。2行目は、悲しみや苦しみさえも、「あなた」と一緒だったら愛おしいものだった、という意味でしょう。

 そして、3行目で遂に「レモン」が登場。「苦いレモンの匂い」と出てくるところから、直前の歌詞の悲しみや苦しみに、繋がっているのだと解釈できます。

 苦しみや悲しみでさえ、「あなた」との思い出は愛おしいと感じる「わたし」。レモンの苦味は、その象徴として機能しているのでしょう。

 レモンは言うまでもなく、酸味が非常に強い食べ物。そして、「嬉しい」や「悲しい」といった感情は、目には目えない、実体のないもの。つまり、レモンが苦いという味覚を用いることで、「あなた」のいない悲しみを、現実感を伴って描いているということです。

 また、誰もが想像できるレモンの味を用いることで、抽象的な表現で伝える以上に、リスナーに対しても生々しく「わたし」の苦しみを、伝える効果を生んでいます。

 夢か現実か確かめるために、自分のほっぺたをつねる、というクリシェがあります。この曲におけるレモンも、現実感をもたらす装置として機能している、というのが僕の仮説です。

「わたし」と「あなた」の関係性

 1番の歌詞で、この曲の語らんとするメッセージが、だいぶ鮮明になってきました。続いて2番に入ると、「わたし」と「あなた」の関係性が、もう少し詳しく記述されます。ただ、やはり「あなた」が家族であるのか、恋人であるのか、といった確定的な情報は提供されません。

 では、2番では歌詞がどのように展開するのか、確認していきましょう。2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
受け止めきれないものと出会うたび
溢れてやまないのは涙だけ

 背をなぞることで、誰であるかを認識できるということは、「あなた」は「わたし」の恋人だったと示唆されます。

 3行目の「受け止めきれないもの」は、圧倒的な悲しみや苦しみを表しているのでしょう。4行目の溢れる涙へと繋がります。

 続いて、2番のBメロの歌詞を引用します。

何をしていたの 何を見ていたの
わたしの知らない横顔で

 上記の引用部も、「あなた」が家族や友人ではなく、恋人だったのではと思わせる表現です。「知らない横顔」というのは、人には誰しも多面性があり、「わたし」の知らない「あなた」の一面があったということ。

 もちろん、家族同士でも知らない一面を持ち得ますが、一般的には他人同士の方が、知らない一面をお互いに持っているもの。

 さらに、上記1行目の「何をしていたの」という問いかけと解釈できる言葉が、2人が親密な関係であったこと、そして知らない一面があることに対して、感情が動いていることを思わせます。

 まとめると、親しい間柄でありながら、知らない一面があり、なおかつ知らない一面があることに、多かれ少なかれ「わたし」が、ショックを受けているということ。このように考えると、2人は恋人同士であったと想定することが可能でしょう。

 その関係性を裏付けるように、2番のサビでは以下の歌詞が続きます。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください
そんなことを心から願うほどに
今でもあなたはわたしの光

 1番の歌詞は、「夢」や「永遠」といった言葉を使い、「あなた」が既に亡くなったことすら連想させる内容になっていました。しかし、上記の引用部では、1番と比較すると具体性が増し、2人の関係性がより鮮明に浮かび上がってきます。

 1行目に「どこか」という言葉が出てきますが、上記の引用部に書かれている内容から想像すると、「あなた」は亡くなったわけではなく、会えない状態にあるようです。

 ただ、天国も含めて「どこか」と表現し、亡くなった相手に対しての強い喪失感をあらわした表現である、という可能性も残ります。

 その根拠となるのが、引用部の4行目と5行目。この2行は、「わたし」にとって「あなた」の存在があまりにも大きいため、どこかで自分と同じようにあることを願ってしまう、言い換えれば「あなた」は亡くなっているが、今もどこかで生きていると想像する、とも解釈できます。特に「願う」という言葉が使われている点が、この仮説を想起させました。

 2番のサビの後に挿入されるCメロでは、「あなた」が恋人であったことを思わせる言葉が並びます。以下に引用します。

自分が思うより
恋をしていたあなたに
あれから思うように
息ができない
あんなに側にいたのに
まるで嘘みたい
とても忘れられない
それだけが確か

 2行目に「恋をしていた」という言葉が出てくるため、2人が恋愛関係にあったのは決定的なように思われます。上記の引用部では、そのほかの部分も、2人の親密性を感じさせる言葉が続いています。

「あなた」とは誰か?

 では、結局「あなた」とは誰なのか。家族なのか恋人なのか。そして、生きているのか、亡くなっているのか。

 結論から言うと、歌詞の中には確定的な情報はありません。しかし、僕は「あなた」は恋人であったと考えています。理由はふたつ。

 まず一つ目は、「私」という漢字ではなく、一貫して「わたし」とひらがなで表記されている点です。「わたし」と「あなた」。両者をひらがな3文字に揃えることで、2人が対等な関係性であることを表している、というのが僕の考えです。

 もちろん、家族同士でも対等な関係性であることはあり得ますし、あくまで一つの仮説。しかし、親や兄弟が対象だと、年齢差や家族の中での立場の違いが自ずと生じますし、恋人同士の方が、より対等であると言えるのではないでしょうか。

 二つ目の理由は、歌詞のラストから2行目に出てくる「切り分けた果実の片方の様に」という表現。一つ目の理由とほぼ重なるのですが、この上記の表現もやはり2人の対等性を表しているのではないかと思います。

 果実を切り分けるということで、血肉を分けた家族とも考えられそうですが、仮に親を想定しているとして、真っ二つに対等な関係で分けられる、というのは少し違和感があります。どうしても両者には年齢差があり、親の後に子が生まれるという不可逆性もあります。

 以上、ふたつの理由で、個人的には2人は恋人同士であったと考えるのが、最も自然ではないかという結論に至りました。しかし、前述したように、これはあくまで僕の仮説。

 家族や友人であると想定してもいいですし、そのような解釈も十分可能かと思います。また、いささかトリッキーではありますが、例えば、1番の歌詞の「あなた」は祖父、2番の歌詞の「あなた」は元恋人というように、1番と2番でそれぞれ「あなた」が違う、という解釈も可能でしょう。

結論・まとめ

 「あなた」は誰か、という議論をしばらく続けてきましたが、ここで全体の結論に入ります。

 「Lemon」は「別れの悲しみをテーマにした曲である」というのが、僕の結論です。なんだか、サッパリしていて、肩透かしを食らったような気分でしょうか?

 何を言いたいのかご説明します。先ほど、この曲に出てくる「あなた」は、恋人なのか家族なのか確定できない、と書きました。

 作者が意図的なのかどうかは分かりませんが、それは人間関係のストーリーではなく、別れの悲しみにフォーカスするため、あえて具体的な情報を避けている、というのが僕の考えです。

 つまり、大好きだった祖父の思い出を詳しく記述したり、恋愛関係にある2人を描いたり、といった具体性を帯びると、少なからずリスナーはそのストーリーに共感してしまいます。そうした個別のストーリーではなく、大切な人との別れによってもたらされる悲しみ自体に、この曲はフォーカスしているということ。

 そのため、「あなた」とは誰か、亡くなっているのか生きているのか、といった情報は、あえて曖昧性を伴ったままにされています。

 僕がこの結論に至った最大の理由は、タイトルが「Lemon」であること。先述したとおり、レモンとは非常に酸味の強い果物であり、そのままかじったら記憶に残るほど、苦く酸っぱいもの。

 そんな「レモン」を曲名に据えることで、強い痛みや悲しみをテーマにした曲であることを、あらわしているのだと思います。

 「レモン」が持つ強い苦味が、大切な人を失った痛みと結びつき、現実感を伴って響くのがこの曲です。

 本来は聴覚で楽しむ音楽に、誰もが想像できるレモンの味覚を持ち込み、さらにそのレモンの苦味を感情の苦しみに結びつける。

 米津玄師さんの「Leomon」は、聴覚と味覚と感情をつなぐ、巧みな構造を持った楽曲だと言えるでしょう。

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欅坂46「エキセントリック」歌詞の意味考察 SNS時代のコミュニーケーション不全


目次
イントロダクション
顔の無い人々
「僕」の心情
2番の歌詞
結論・まとめ

イントロダクション

 「エキセントリック」は、アイドルグループ欅坂46の楽曲。作詞は秋元康。

 2017年4月5日発売の4thシングル『不協和音』、および2017年7月19日発売の1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されています。

 曲名のエキセントリックとは、英語の「eccentric」。「風変わりな」「常軌を逸した」という意味を持つ形容詞です。歌詞の中にも「I am eccentric 変わり者でいい」という一節が出てきます。

 『サイレントマジョリティー』でデビューして以来、既存のシステムへの反抗や、都市社会の中での孤独など、それまでロックが担っていた反抗性や内省性を持った楽曲を、たびたび発表している欅坂46。

 『不協和音』のカップリング曲としてリリースされた「エキセントリック」も、SNSが盛んな現代においての人間関係がテーマとなっています。

 具体的には、インターネット上におけるコミュニーケーション不全と、そこから生じる孤独にスポットが当てられています。いわば現代的な孤独が、現代的なコミュニーケーションを象徴するインターネットをエッセンスに、描写されるのがこの曲。

 では、実際にどのように孤独やコミュニーケーション不全が描かれるのか、歌詞の意味を考察していきたいと思います。

顔の無い人々

 まずは、語りの構造を確認しましょう。この曲は語り手である「僕」の視点から、言葉が綴られていきます。

 これがラブソングであるなら、対象となる「君」が出てくるところでしょうが、この曲では「僕」以外に具体的な人物は出てきません。

 その代わりに、顔の無い多くの人が出てきます。これはどういうことか、Aメロ1連目の歌詞を引用します。

あいつがああだって言ってた
こいつがこうだろうって言ってた
差出人のない噂の類(たぐ)い
確証ないほど拡散する

 上記の引用部には「あいつ」と「こいつ」という代名詞が出てきますが、いずれも特定の誰かを指しているわけではありません。

 3行目に「差出人のない噂の類(たぐ)い」とある通り、匿名の発言者を指しています。そして、4行目に「確証ないほど拡散する」と続くように、言うまでもなくインターネット上での書き込みを連想させる表現です。

 上記引用部に続く、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

意外にああ見えてこうだとか
やっぱりそうなんだなんてね
本人も知らない僕が出来上がって
違う自分 存在するよ

 こちらの引用部では、1連目で語られた内容が、さらに発展して綴られています。具体的には「僕」に関する匿名の発言者による噂が積み重なり、「僕」の存在が勝手に形作られていくということ。ここまでの2連では、「僕」のインターネット上のコミュニーケーションに対する違和感が表明されています。

 続く3連目は、以下のように続きます。

何が真実(ほんと)なんてどうでもいい
わかってもらおうなんて無理なんだ
倒れて行く悪意のドミノ
止めようたって止められない

 上記の引用部では、より具体的に「僕」の心情が記述されています。ここでは、1連目では「差出人のない噂」と表現されていた匿名の発言が「悪意のドミノ」と言い換えられ、さらに「僕」はそれを止めるのは不可能だと、諦めの気持ちを持っていることが明かされます。

 1番のAメロを通して、顔のない人々と「僕」の間に起こる衝突が描かれ、なんとも陰鬱な内容の歌詞が続きます。しかも、直接的な衝突ではなく、相手の顔は全く見えてきません。インターネットを介した、現代的な孤独を描いているとも言えるでしょう。

「僕」の心情

 続いて、「僕」がどのような心情を抱いているか、確認していきましょう。

 1番のBメロ部分の歌詞を、以下に引用します。

誰もが風見鶏みたいに
風の向き次第で
あっちこっちへとコロコロ変わる
世間の声に耳を塞いで
生きたいように生きるしかない
だから僕は一人で
心閉ざして交(まじ)わらないんだ

 上記の引用部では、Aメロでは語られなかった「僕」の具体的心情が明らかにされています。Aメロでは、匿名の発言に違和感を持ち、「悪意のドミノ」を「止められない」と諦めの感情を持っていた「僕」。

 Bメロでは、匿名の発言を繰り返す人々を「風見鶏」に例え、「僕」は彼らと同じようにはならない、と宣言しています。そして、Bメロに続くサビでは、より強く「僕」の思いが表明されます。

 1番のサビの歌詞を、下記に引用します。

I am eccentric 変わり者でいい
理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ
他人(ひと)の目 気にしない 愛なんて縁を切る
はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの

 タイトルにもなっている「eccentric」という言葉が、ここで出てきました。引用部2行目にもあるとおり、「変わり者」を意味する「eccentric」という言葉。

 引用したサビ部分の歌詞は、エキセントリックという言葉が、この曲において何を意味するかの説明になっています。

 すなわち、差出人のない噂を鵜呑みにする、風見鶏のような人々には染まらず、自分の思うように判断し、生きるということ。その態度を、エキセントリック=変わり者であると表現しています。

2番の歌詞

 2番に入っても、1番の歌詞を補強する内容の言葉が続きます。まず、2番のAメロ1連目の歌詞を引用します。

あれってああだって聞いたよ
ホントはこうらしいって聞いたよ
推測だらけの伝言ゲーム
元のネタはどこにある?

 1番のAメロで綴られた内容と対応し、ここでも顔のない人々による噂話の拡散が扱われています。「推測だらけ」「元のネタ」といった言葉使いは、やはり匿名の書き込みで溢れる、インターネットを連想させると言っていいでしょう。

 さらに2番のBメロでは、以下の言葉が続きます。

すべてがフィクション 妄想だって
大人げないイノセンス
嘘とか欺瞞(ぎまん)に溢れる世界
キレイな川に魚はいないと
したり顔して誰かは言うけど
そんな汚い川なら
僕は絶対泳ぎたくはない

 上記の引用部で「僕」は、「すべてがフィクション」とまで言い切っています。「すべて」は、3行目に続く「嘘とか欺瞞(ぎまん)に溢れる世界」に繋がっていて、そのような世界は全て妄想であり、フィクションだと言っているのでしょう。

 もう少し補足すると、この曲で一貫して語られてきた、根拠のない情報を鵜呑みにし、自分の意思を持たないかのように振る舞う人々。彼らの見る世界はすべてフィクションだと、「僕」は非難しているということです。

 4行目から、今度は世界を「川」に例え、「僕は絶対泳ぎたくはない」とあらためて嘘にまみれた世界の拒絶を、宣言しています。

結論・まとめ

 以上、「エキセントリック」は現代における孤独とコミュニーケーション不全を描いている、という仮説に基づいて、歌詞を読み解いてきました。

 歌詞のテーマを、端的にあらわすなら、欺瞞に溢れる世界と、エキセントリックな自分の対立。

 歌詞全体をとおして、語り手である「僕」は、不確かな情報に溺れる人々に対して、深い違和感を持ち続けています。

 そして、自分はそうはならない、という強い拒絶の態度が「エキセントリック」という言葉に集約され、サビでは「I am eccentric 変わり者でいい」と歌われます。

 興味深いのは、自分が「エキセントリック=変わり者」であると、「僕」が自覚しているところ。言い換えるなら、不確かな情報を信じ、匿名での発言を繰り返す人々がマジョリティーであり、それになじめない自分がマイノリティーであるということです。

 ハッキリとは記述されていませんが、この曲がインターネットを介したコミュニケーションを想定しているのは明らか。その上で、「僕」は上記のマジョリティーとマイノリティーの認識を持っています。

 SNSが主流となり、誰もがアカウントを使い分け、複数の「自分」を持つことになった現代。このような文化に馴染めない孤独を、語り手の「僕」を通してこの曲は語っている、というのが僕の結論です。

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