乃木坂46「制服のマネキン」歌詞の意味考察 恋愛禁止を掲げるアイドルの矛盾


目次
イントロダクション
「制服のマネキン」とは?
場面設定
「君」の感情
問いかけの意味
結論・まとめ

イントロダクション

 「制服のマネキン」は、2012年12月19日にリリースされた、乃木坂46の4作目のシングル。2015年1月7日リリースの1stアルバム『透明な色』にも収録されています。作詞は秋元康。

 「制服のマネキン」という曲名にも集約されているのですが、アイドル・グループが歌うことで、アイドルというシステムを揶揄しているようにも、アイドルの異常さを指摘しているようにも聞こえる楽曲です。

 僕は基本的には、歌詞の内容は独立して解釈すべき、と考えています。つまり、誰が書いたか歌ったか、どのような背景で生まれた曲か、といった外部の情報よりも、歌詞に書かれた内容のみで解釈すべき、ということ。

 しかし、秋元康という策士が書いたこの曲。恋愛禁止を掲げる女性アイドル・グループが歌うことで、明らかにアイドル自体をテーマにした曲として響いています。

 具体的には、恋愛を禁じられたアイドルと、そのアイドルを追うヲタクとの関係性が、記述されているように思えるのです。アイドルに恋をすることを「ガチ恋」と呼びます。握手会などのいわゆる接触イベントをおこなうアイドル・グループにとって、多かれ少なかれ、ファンにガチ恋的感情を抱いてもらうことは重要です。

 なぜなら、CDが売れなくなったと言われて久しい現代。「AKB商法」と呼ばれ、批判を受けることも度々ありますが、1人のファンに多くのCDを買ってもらうことが、アイドル・グループを経済的に成り立たせるため、極めて大きなファクターを締めるからです。

 そこで、CDを大量に買ってもらうモチベーションとして、恋愛感情を利用するわけです。しかし、ここには大きな問題があります。アイドルは、アイドルをやっているからこそ、ヲタクにとって会える存在。ひとたびアイドルを辞めてしまえば、基本的にはヲタクは会う機会を失います。いわば一方通行の関係性。

 そして、多くのアイドルは恋愛禁止をルールとして掲げ、アイドルをやっている限りは、ヲタクとアイドルの恋愛が発展することはありません。(少なくとも建前上は)

 なんだか、ライアーズ・パラドックスのような状況ですよね。アイドルは恋愛禁止を叫んでいるのに、実際には恋愛感情を利用しながらCDを売ろうとしている。そして、アイドルを卒業してしまえば、ヲタクは会えるシステムを失ってしまう。

 「制服のマネキン」は、このようなアイドルの矛盾を、自己言及的に歌っているのではないか、というのが僕の仮説です。では、そのような考えに基づいて、歌詞の意味を考察していきたいと思います。

「制服のマネキン」とは?

 まず、曲のタイトルになっている「制服のマネキン」が何を意味するのか、検討しましょう。マネキンというのは、言うまでもなく、見本用に洋服を着せられ、展示される人形のことです。

 「制服のマネキン」とは、サビの歌詞にも出てきますが、制服を着たマネキンということ。では「制服」とは、何を象徴するでしょうか。まず思い浮かぶのは、学校の制服。あるいは、コンビニやチェーン系レストランなどの制服。

 制服とは、ある組織に所属している人々が着用する、共通するデザインを持った服のこと。そのため、着ることで自分が属しているグループ、あるいは職業までをも示す記号性を有しています。また、着ることを半ば強制されるため、組織やルールを表象しているとも言えるでしょう。

 まとめると「制服」とは、組織やルールを象徴する、一種の記号であるということ。「制服のマネキン」とは、ルールに従い、自分の感情を持たない、人形のような存在であることを、端的にあらわした表現です。

 乃木坂のメンバーが着る揃いの衣装も、一種のユニフォームであると言えますし、アイドルというのは、自分の感情に関係なく、笑顔を振りまかなくてはいけない存在です。

 つまり「制服のマネキン」というタイトル自体が、アイドルという存在の特異性を示しているとも言えます。では、歌詞では実際にどのようなことが歌われているのか、順番に考察しましょう。

場面設定

 最初に登場人物と、場面設定を確認します。登場人物は、語り手である「僕」と「君」の2人。

 では、どのような場面が設定されているのか。1番のAメロの歌詞で、多くの情報が提供されます。まずはAメロ1連目の歌詞を、下記に引用します。

君が何かを言いかけて
電車が過ぎる高架線
動く唇 読んでみたけど
YesかNoか?

 引用部に「高架線」が出てくることから、場所は野外であることが分かります。「僕」が「君」の答えを待っている状態、ということで、普通に考えるならば、「僕」が「君」に告白をして、その答えを待っているシチュエーションということでしょう。

 続いて、Aメロ2連目の歌詞を引用します。

河川敷の野球場で
ボールを打った金属音
黙り込んだ僕らの所へ
飛んでくればいい

 上記の引用部では「河川敷の野球場」という言葉が出てきました。先ほどの「高架線」と合わせると、場所は近くを電車が走る河川敷ということでしょう。場面がより、具体的になりました。

 「僕」がいる場所と、野球場の距離がどの程度なのかは記されていません。しかし「ボールを打った金属音」が響いているところから、「君」と「僕」との間に、重苦しい沈黙が流れていることが示唆されます。

 ボールに対して「僕らの所へ 飛んでくればいい」と思っているところからも、「僕」が押しつぶされそうな気分であると解釈できるでしょう。

 ここまでの歌詞で、場所は河川敷。「僕」は「君」の返事を待っていて、重苦しい空気である、という状況が確認できました。

「君」の感情

 では、次に「君」はどう思っているのか、どのような答えが想定されるのか、検討していきましょう。1番のサビの後半4行を引用します。

恋をするのはいけないことか?
君の気持ちはわかってる
感情を隠したら
制服を着たマネキンだ

 上記の引用部では、「僕」が一方的に感情を明らかにするだけで、「君」の言葉や仕草が描写されることはありません。

 このあたりで、うすうす気がつくことですが、この曲は終始「僕」が一方的に状況と感情を語るだけで、「君」の人間性がまったく見えてきません。もちろん、これは作詞家による意図的な試みでしょう。

 「君の気持ちはわかってる」という一節がありますが、これもあくまで「僕」の感情であって、「君」の実体を感じさせる表現は、一切出てきません。

 文字どおり「君」は、「制服のマネキン」のような存在で、感情をあらわにしないということ。同時に「僕」と「君」の一方通行の関係性が、アイドルとヲタクの関係性と並行しているとも解釈できます。

 2番のサビでは、上記の関係性がより補強されます。2番のサビを引用します。

どんな自分を守ってるのか?
汚(けが)れなきものなんて
大人が求める幻想
どんな自分を守ってるのか?
僕は本気で好きなんだ
その意思はどこにある?
制服を着たマネキンよ

 ここでも「僕」が、一方的に自分の感情を吐き出すだけです。以上のように、この曲では一貫して「君」の個性や感情を示す描写はなされず、ひたすら「僕」の感情のみが記述されるかたちで、歌詞が進行します。

問いかけの意味

 さて、少し視点を変えて、この曲のもうひとつの特徴を指摘しておきます。それは「恋をするのはいけないことか?」という一節をはじめ、問いかけの言葉が非常に多い点です。

 これらの問いかけも「僕」が「君」に対しておこなったものだと推定できます。「君」に告白し、その答えを待っている「僕」。

 しかし、告白への回答はおろか「どんな自分を守ってるのか?」「その意思はどこにある?」という質問に対しても、歌詞の中で「君」が返答することがありません。

 これは何を表しているのでしょうか。やはり「僕」の一方的な態度、そして「君」がマネキン的存在であることを、ますます浮かび上がらせていると言えるでしょう。

結論・まとめ

 ここまで「制服のマネキン」はアイドルが持ち得る矛盾を、自己言及的に歌った曲なのではないか、という仮説に基づいて歌詞を読み解いてきました。

 歌詞の内容は「僕」が語り続けるばかりで、「君」の感情や顔が全く見えてこない。もちろん「僕」の問いかけにも「答えない」という点は、アイドルとヲタクの関係性を表していると言えます。その理由は、「僕」が「君」に理想の言葉を追い求める、一方的な関係であるから。これは、ある決まったシチュエーションのみで会うことができる、アイドルとヲタクの関係性に対応しています。

 「恋をするのはいけないことか?」、この質問に対して「僕」が期待するのは「いけないことではない」という主旨の答え。しかし、前述のとおり「君」が答えることはありません。

 それが「君」の感情によるもの、言い換えれば「君」が「僕」に対して興味がないから答えに困っているのか。あるいは、まだ制服を着る学生なので早いと思っているから、アイドルに当てはめて言い換えるなら、アイドルをしているために答えられないのか、理由は最後まで明かされません。

 回答がはぐらかされるところも、恋愛感情を巧みに利用しながら、恋愛禁止を掲げるアイドルの矛盾を、あらわしているのではないかと思います。

 以上、長々と書いてきましたが、僕はアイドルの接触イベントを悪いとも思っていませんし、ヲタクが全員ガチ恋だとも思っていません。

 ただ、音楽やダンスのクオリティよりも、アイドルという人自体に感情移入させて、商品価値を転化させるシステムが、とてもよくできていると思うのです。(僕自身、握手会や2S会に、それなりに参加してしまいますし…。)

 それと「恋愛禁止」を掲げるのも、システムとして理にかなって思うんですよね。ガチ恋の人にとっては対象が誰のものにもならないという安心感を与えるし、アイドルを守る予防線にもなります。さらに言えば、恋が叶わない理由にもできるという。

 少し視点を変えて「制服のマネキン」の歌詞を読んでみると、「僕」は恋が叶わない理由を、まだ学生だから「君」は早いと思っている、と理由づけて納得しているようにも響きます。

 いずれにしても、この曲は「僕」が感情を一方的に投げつける歌であり、「君」は決して感情を出さない、あるいは出せない「制服のマネキン」である。そしてそれはアイドルとヲタクの関係性と一致する、というのが結論です。

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乃木坂46「君の名は希望」歌詞の意味考察 ラカンの鏡像段階で読み解く「君の名は希望」


目次
イントロダクション
人物と場面設定
「僕」の変化
「君」は何を意味するか
2番の歌詞
結論・まとめ

イントロダクション

 「君の名は希望」は、2013年3月13日にリリースされた、乃木坂46の5作目のシングル。作詞は秋元康。

 語り手である「僕」の視点から、「君」のことを綴っているこの曲。タイトルも示唆しているように、一聴すると「君」に出会って「希望」をもらった、というラブソングのように聞こえますし、最初は僕もそのような曲だと思って聴いていました。

 でも、聴き込んでいくうちに、「君」は具体的な誰かを指すのではなく、「希望」という概念を指しているようにも、思えてきたんですよね。言い換えれば、「希望」を擬人化して「君」と呼んでいるとも取れる、ということ。

 さらに踏み込むと、この曲は「僕」自身の変化について歌っていて、自分という他者に出会うことが、テーマになっているんじゃないかな。

 歌詞を読み込んでいくと、他にもいろいろと仕掛けが見つかり、これはなにか書きたい! 語りたい!という気分になってしまいました。そんなわけで、この曲の僕なりの解釈・意味の考察を、このページに記述します。

 ラブソングというと、ある男女の関係にフォーカスした曲を指しますが、この曲は「僕」と「君」との関係性よりも、「僕」の変化にフォーカスした曲ではないかと思います。

 主人公の成長を描いた小説を、ドイツ語でビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と呼び、日本語では「教養小説」と訳されています。この曲は、いわば「僕」が成長する物語を描いた、一種のビルドゥングスロマンです。

 また、フランスの哲学者・精神科医のジャック・ラカンは、生まれたばかりの幼児は、自分の身体を自分であると認識することができず、生後6ヶ月から18ヶ月ぐらいの間に、鏡に映った自分の姿を見ることによって、自分という存在を認識することを指摘しました。この期間を、鏡像段階と呼びます。

 この曲に出てくる「君」と「僕」は、鏡に映った自分の姿と、自分自身である。そして、「僕」が鏡像段階を経て、自己を形成していくプロセスを描いている、というのが僕の仮説です。

 表層では「僕」と「君」の出会いを描いたラブソングとして進行しますが、深層では「僕」の成長過程が綴られる。この曲にはそんな二面性があり、どちらも「僕」が「君」をきっかけに変化を遂げる、という点で共通しています。

 ここでは、「君の名は希望」は「僕」が自己を形成する物語である、というテーマに基づいて、歌詞を読み解いてみたいと思います。

人物と場面設定

 まずは歌詞に出てくる人物と、時間や場所などの設定を確認しましょう。冒頭2行の歌詞で、ある程度の情報が提示されるので、以下に引用します。

僕が君を初めて意識したのは
去年の6月 夏の服に着替えた頃

 上記の引用部から、語り手は「僕」で、あることが分かります。そして、「僕」の視点から語られる「君」も出てきました。登場人物は「僕」と「君」の2人。

 それでは、時間や場所の設定はどうでしょうか。引用部2行目に「去年の6月」という具体的な記述があります。去年の6月は、言うまでもなく過去のこと。

 つまり、「僕」は現在の視点から、「君」と出会って以降のことを、過去を振り返るかたちで語っているということです。

「僕」の変化

 では、具体的に「僕」にどのような変化があったのか、順番に確認していきましょう。

 先ほどの引用部には「夏の服に着替えた頃」という表現が出てきました。季節を示したいのであれば、例えば「梅雨が明けた頃」や「アジサイが咲く頃」としても良かったわけです。

 それなのに、わざわざ自分の服装を用いた表現にした理由は何か。これは、自分の価値観が変わることを、示唆しているのではないかと思います。

 季節の変化よりも、「僕」の変化にフォーカスしていることを強調するため、「着替え」という表現を使った、というのが僕の考えです。

 では、具体的にどのような変化が生じていくのか。先ほどの冒頭2行に続く歌詞を、引用します。

転がって来たボールを無視してたら
僕が拾うまで
こっちを見て待っていた

透明人間 そう呼ばれてた
僕の存在 気づいてくれたんだ

 こちらの引用部では、「君」が投げたと思われるボールを、「僕」が拾う様子が描写されています。

 文字通りに解釈すると、「透明人間」と呼ばれるほど、存在感の薄かった僕。しかし、「君」がボールを拾うまで待っていてくれたことで、「僕」は自分自身の存在を認識することができた、ということでしょう。

 ここで使われている「透明人間」とは、一見すれば「クラスの中で存在感の薄い存在」程度の意味だと考えられます。

 しかし、その後の歌詞を繋いでいくと、他者との関係から切り離された人を、意味するようにも取れます。「僕」は「君」という他者と出会うことで、初めて社会的な存在になれた、ということ。

 また、ボールを使った表現も示唆的。文字通りの意味では、なにかしらの球技をしていたということでしょうが、会話をキャッチボールに例えることがあります。

 上記の引用部でも、野球ボールなのかサッカーボールなのかは曖昧にすることで、言葉のキャッチボール、言い換えれば人と人とのコミュニケーションを象徴しているとも考えられます。

 歌詞はさらに、以下に続きます。

厚い雲の隙間に光が射して
グラウンドの上 僕にちゃんと影ができた
いつの日からか孤独に慣れていたけど
僕が拒否してた
この世界は美しい

 「透明人間」に「影ができた」。このメタフォーは、「僕」が「君」という他者と出会い、社会的な存在となったことを、表しているのでしょう。

 さらに引用部5行目の「この世界は美しい」という言葉。これも、他者を発見し、社会的な存在となったことを、端的に示しているのではないかと思います。

 前述したラカンの思想を借りれば、まだ自己を認識できない「透明人間」であった「僕」が、ここで「君」という他者に出会い、自己を形成していきます。

「君」は何を意味するか

 続いて、「君」が何を意味するのかについて、検討していきます。

 最初に結論を言ってしまうと、「君」というのは「僕」自身を映した鏡。すなわち、自己を形成するための、きっかけとして機能しているのではないでしょうか。

 先ほどの引用部に続く、1番のサビの歌詞を引用します。

こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名前は”希望”と今 知った

 文字どおりに読むと、「君」に恋をして人生が変わった、というラブソングのように解釈できます。しかし、最後の行の「君の名前は”希望”」という一節が、「君」を概念化し、歌詞に多層性をもたらしています。

 つまり「君」を「希望」という抽象名詞とイコールで結ぶことで、具体的な存在ではなく、自分に起きた変化に重点を置いていることが、強調されています。

 もちろん、「君」と出会い恋したことを「希望」と表現していると解釈することも可能で、重要なのは歌詞が曖昧性を帯びていることでしょう。

 「君」は他者を象徴するキーワードであり、他者と出会うことで「僕」は自己を形成し、社会の中で生きる準備ができた、というのがこの曲のテーマです。

2番の歌詞

 それでは、ここまでの議論に基づいて、2番の歌詞を読み解いてみましょう。2番のAメロの歌詞を、以下に引用します。

わざと遠い場所から君を眺めた
だけど時々 その姿を見失った
24時間 心が空っぽで
僕は一人では
生きられなくなったんだ

 上記の引用部も、表層的には「僕」が「君」に片思いをしていて、片時も忘れることができない!と言っているように思えます。

 しかし、1行目の「わざと遠い場所から君を眺めた」と、2行目の「その姿を見失った」という表現。遠くから眺めたことや、姿を見失ったことを、わざわざ記述した理由は何か、と考えると「僕」の自己の認識が、まだ揺らいでいる状態を表すためなのではないかと思います。

 この部分もダブル・ミーニングで、叶う可能性が低い片思いを、表現しているとも解釈できます。ただ、もし片思いにフォーカスするなら、もっと適切な表現を秋元康は使ったはず。

 続いて、Cメロあるいは大サビと呼ぶべき部分の歌詞を引用します。

もし君が振り向かなくても
その微笑みを僕は忘れない
どんな時も君がいることを
信じて まっすぐ歩いて行こう

 上記引用部は、メロディー的にもクライマックスとなる部分にあたります。ここに至って、「僕」はついに鏡に映る自分を認識し、1人の人間として歩き出したのでしょう。

 「君が振り向かない」というのは、片思いしている相手が振り向かないことと、鏡に映る姿が自分であると気づいたことを、ダブル・ミーニングで表しているのではないでしょうか。

結論・まとめ

 この曲は「僕」が自己を形成する物語である、という仮説に基づいて、歌詞を読み解いてきました。

 まとめると「君の名は希望」は、「君」との出会いが「僕」を変えたというラブソング的な一面と、自分という他者を通して自分自身を認識できる、というラカン的な自我の形成を描いた一面が、両立した曲であるということ。そして両方とも「君」をきっかけに「僕」が変わる、という構造を持っています。

 ラブソング的に読みとくと、まわりに馴染むことができず、存在感の薄かった「僕」が、「君」と出会うことで、他人を思う気持ちを知り、人生が輝き始める歌。

 ラカン的に読みとくと、自己を形成できていない存在だった「僕」が、「君」という他者と出会うことで、自己を形成していく歌。

 そして、前者では他人を思う心、後者では自我が確立したことを、それぞれ「希望」と呼んでいる、というのが僕の結論です。

 杉山勝彦さんの書いた曲も素晴らしく、透明感のあるピアノのイントロから、楽曲の世界に引き込まれていきます。気になった方は「アイドルの曲だから…」と敬遠しないで、ぜひ聴いてみてください。




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乃木坂46「ジコチューで行こう!」歌詞の意味考察 ポップな言葉に潜むメッセージ


目次
イントロダクション
歌詞の場面設定
歌詞の二面性
結論・まとめ

イントロダクション

 2018年8月8日にリリースされた、乃木坂46の21作目のシングル「ジコチューで行こう!」。作詞は秋元康。

 秋元康が作詞の曲に限らず、歌詞がダブル・ミーニング、あるいはトリプル・ミーニングとなり、多層性を持っていることが、ポップ・ミュージックでは、たびたびあります。「ジコチューで行こう!」も、その一例。

 8月にリリースされたこの曲は、夏曲という一面を持ちながら、歌詞の内容は人生賛歌とも、炎上商法の肯定とも取れるもの。このページでは、歌詞の意味を順に解釈しながら、その二面性を読み解いてみたいと思います。

歌詞の場面設定

 まずは、場面設定と登場人物を確認しましょう。1番のAメロの歌詞で、情報が提示されます。Aメロの歌詞を、以下に引用します。

坂を駆け上がって
肩で息しながら
(wow…)
強い日差しの中
入江の向こうに広がる海原

 「僕」や「私」といった一人称の代名詞は用いられないものの、ある語り手の視点から、歌詞が綴られていきます。登場人物は、この「語り手」ひとりだけです。

 上記の引用部では、語り手が坂を駆け上がり、その頂上からは海が見えることが明らかにされています。場所は、海の近くの野外。「強い日差し」という言葉からは、季節が夏であることも示唆されます。

語り手の心情

 Aメロの歌詞では、場面設定が明らかにされ、Bメロ以降の歌詞では、語り手の心情が記述されていきます。では、Bメロから順に、語り手が伝えたいメッセージを、確認していきましょう。1番のBメロの歌詞を、以下に引用します。

ずっと抱えてた悔しいことが
何だか ちっぽけに見えて来た
やめよう!もう…

 上記の引用部は、語り手が坂を登りきった先に広がる、海を見ながら抱いた感情でしょう。海を眺めて、心が浄化されたり、あるいは「バカヤロウ!」と叫んで気分転換をする、というシチュエーションは、ドラマや映画でも見かけます。この引用部も、まさにそのような状況を描いたものなのでしょう。

 その後に続くサビでは、語り手のさらに強い決意が表明されます。1番のサビの歌詞を、以下に引用します。

この瞬間を無駄にはしない
人生あっという間だ
周りなんか関係ない
そうだ
何を言われてもいい
やりたいことをやるんだ
ジコチューだっていいじゃないか?

 人生は短いのだから、他人の目を気にせず、自分のやりたいことをやろう!という、この曲のテーマとも思われる感情を、表明しています。

 1番の歌詞をまとめると、語り手が坂を駆け上がったところで海を眺めながら、その雄大な景色がきっかけとなり、「ずっと抱えてた悔しいこと」をちっぽけに感じ、自分の思い通りに生きようと決意した、ということになるでしょう。

歌詞の二面性

 1番で、自由に生きる意思を固めた語り手。それでは、2番に入ると、歌詞はどのように発展していくのか、検討していきます。2番のAメロ後半部を、以下に引用します。

エゴサばかりしてた
今日までの自分も生まれ変わるかな

 引用部に「エゴサ」という言葉が出てきました。1番までの歌詞だと、夏の暑い日に海を見ながら、決意を新たにした、という夏曲として解釈できます。しかし、ここで「エゴサ」というネット社会以降の単語が出てきたことにより、歌詞が途端に日常性と現代性を帯びてきました。

 「エゴサ」とは「エゴサーチ」の略で、インターネット上で自分の名前を検索し、その評価を確認する行為。語り手は、これまでは他人の評価を気にして、エゴサばかりしていた事実を告白しています。

 その後に続くBメロでは、さらに「エゴサ」というワードを意識し、発展させた内容が記述されます。以下に引用します。

目立たないのが一番楽で
叩かれないこととわかったよ
だけど もう

 ネット上でネガティヴなコメントが寄せられることを、「叩かれる」と表現します。先のBメロでは、他人の評価を気にして、エゴサばかりしていた語り手。上記の引用部では、叩かれないよう、目立たない行動を心がけていたことが、明らかにされています。

 しかし、3行目では「だけど もう」と、逆接を示唆する言葉が続き、サビへと入ります。2番のサビ前半の歌詞を、以下に引用します。

この青空を無駄にはしない
夕立もきっと来るだろう
今しかできないことがある
絶対

 インターネットを連想させる言葉が続いていましたが、上記の引用部では、再び夏の野外のイメージが戻ってきました。

 冒頭からの歌詞の流れを整理すると、まず語り手は坂を駆け上がったところで、海を見ながら、心情に変化が生じています。2番に入り、エゴサを気にしないように生きようと誓ったのも、その変化のひとつ。

 そして、2番のサビに入り、「青空」と「夕立」という言葉が使われ、夏の晴れた日の描写が再開されています。

 では、上記の引用部は、なにを語っているのでしょうか。引用1行目では、先ほど海を見ながら心情の変化が生じたように、青空を見ながら、語り手の心情にまた変化が起こったようです。

 サビ前の歌詞からの流れを考慮すると、他人の目を気にして、消極的な行動をとるのはやめよう、ということでしょう。

 さらに、2行目には「夕立もきっと来るだろう」と続きます。これも、サビ前の歌詞と繋がる比喩で、他人から批判されること、ネット上で叩かれることを、「夕立」に例えているのでしょう。

 1番では「この瞬間を無駄にはしない」と決意し、生きる上でのスタンスを新たにしていました。そして2番に入ると、「エゴサ」というワードに象徴されるように、テーマを日常化したかたちで、1番での決意が繰り返されています。

 以上のように、日常的な悩みから、普遍的な人生の悩みまで、この曲はカバーしているということ。言い換えれば、日常性と普遍性を持ち合わせていることが、この曲に奥行きを与え、魅力となっているのでしょう。

結論・まとめ

 それでは、最後に考察してきたことをまとめます。語り手が海や空を見ながら、心情に変化が起こり、決意を新たにする、というのがこの曲の大まかな流れ。

 「強い日差し」「広がる海原」「汗で流れ落ちれば」「この青空」など、夏を喚起させる言葉が散りばめられていることから、夏曲と言えます。夏の暑さや、大きな海や空を感じることが、決意を新たにするきっかけになった、ということでしょう。

 そして、語り手の心情の変化は、「人生をどう生きるか」という大きく普遍的なものから、「エゴサを気にしない」という日常的な小さなものまでカバーする、二面性を持っています。

 「ジコチューで行こう!」というカタカナ表記を使った、軽い印象を与える曲名も示唆的。「ジコチューだっていいじゃないか」という開き直りのようなフレーズを用いつつ、背中を押す応援歌にも聞こえる、射程の広さを持った曲と言えます。

 歌詞を締めくくる最後の4行に、この曲のメッセージと二面性が凝縮されています。

みんなに合わせるだけじゃ
生きてる意味も価値もないだろう
やりたいことをやれ
ジコチューで行こう!

 「ジコチューで行こう!」というフレーズは軽いノリに聞こえますが、「生きてる意味も価値もないだろう」と、かなり強い表現も使われています。

 毒にも薬にもならないと思われる曲が、実は強いメッセージを忍び込まされ、多くの人の耳に浸透していく、ポップ・ミュージックの醍醐味を感じる表現です。

 まとめると、夏曲としても機能し、日常性と普遍性を併せ持っている、というのがここでの結論。

 また、みんないつかは卒業していくであろうアイドル・グループが歌うことで、アイドルが放つ刹那的な輝きを映し出している、という一面もあるでしょう。

 いろいろ書いてきましたけど、ミュージック・ビデオを観ると、センターを務めた齋藤飛鳥さんの顔の小ささに、なにより驚きますね。

 あと、イントロでサビのメロディーが演奏されるところも、AKB以降の秋元康の楽曲らしいアレンジです。

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乃木坂46「シンクロニシティ」歌詞の意味考察 76億人とのシンクロ


目次
イントロダクション
「シンクロニシティ」の意味
登場人物と場面設定
「僕」の語る内容
2番の歌詞
結論・まとめ

イントロダクション

 2018年4月25日に発売された、乃木坂46の20枚目のシングル「シンクロニシティ」。作詞は秋元康。

 最近、ゆるやかに乃木坂にハマっていまして、以前よりもじっくり楽曲を聴くようになりました。

 そんなわけで聴き込んでいくと、いろいろと言いたいことが出てきたので、この曲の歌詞について分析・考察したことを、まとめたいと思います。

「シンクロニシティ」の意味

 まず、この曲のテーマについて、考えてみましょう。一聴して分かるのは、ポップ・ソングで扱われることの多い、わかりやすい男女関係を歌った曲ではないということ。

 いわゆる、ラヴソングではありません。それでは、なにをテーマにした曲なのか。歌詞を順に追いながら、考察していきます。

 歌詞に入る前に、曲のタイトルになっている「シンクロニシティ」という言葉の意味を確認しましょう。辞書やネットで調べれば、すぐに出てきますが、スイスの心理学者・ユングが提唱した概念で、「意味のある偶然の一致」を意味します。日本語では「共時性」や「同時性」と訳されます。

 例えば「今日はカレーが食べたいなぁ」と思いながら帰宅したら夕飯がカレーだった、みたいな状況ですね。では、そのような意味を持つ「シンクロニシティ」という言葉を意識しながら、歌詞を読み解いていきます。

登場人物と場面設定

 登場人物は、語り手である「僕」だけ。この「僕」が、夜の街を歩くところから、歌詞は始まります。冒頭3行の歌詞を、以下に引用します。

悲しい出来事があると
僕は一人で
夜の街をただひたすら歩くんだ

 「僕」に悲しい出来事があり、夜の街を歩いている、という状況のようです。悲しいから夜の街を徘徊する、という気持ちは、特に説明がなくとも分かるような気もしますが、街を歩く理由について、その後の歌詞で説明がなされていきます。

 端的に言えばこれ以降は、語り手の「僕」が、散歩の理由を説明するかたちで進みます。3連目の歌詞を、以下に引用します。

すれ違う見ず知らずの人よ
事情は知らなくてもいいんだ
少しだけこの痛みを 感じてくれないか?

 「僕」が夜の街を歩く理由が、明らかになってきました。その理由とは、すれ違う他人と悲しみを共有し、自分の痛みを和らげるため。「シンクロニシティ」という言葉の意味とも、繋がっています。

「僕」の語る内容

 それでは、語り手である「僕」は、夜の街を歩きながら何を感じ、どのようなメッセージを発しているのでしょうか。サビでは、次のように歌われます。

きっと
誰だって 誰だってあるだろう
ふいに気づいたら泣いていること
理由なんて何も思い当たらずに
涙がこぼれる

それは
そばにいる そばにいる誰かのせい
言葉を交わしていなくても
心が勝手に共鳴するんだ
愛を分け合って

 「ふいに気づいたら泣いている」という経験は、多くの人にあるでしょう。その理由を「僕」は、他人と心が共鳴している、言い換えれば、他人の痛みを共有しているため、と理由づけしています。なんとも、ロマンチックな感受性を持った「僕」ですね。

 「シンクロニシティ」というタイトルを持ったこの曲。先ほど確認したとおり、恋愛感情を歌った曲ではありませんが、より範囲の広い、世界規模の共感について歌った曲のようです。

 1番の歌詞で、以下の内容が確認できました。語り手は「僕」、場面設定は夜の街、街を散歩する理由は他人と共鳴するため。では、この内容を踏まえて、2番の歌詞に進みましょう。

2番の歌詞

 2番に入ると、どのようなことが歌われているのでしょうか。結論から言うと、1番で提示された「他人との共鳴」が、より詳細に語られていきます。2番の1連目の歌詞を、以下に引用します。

みんなが信じてないこの世の中も
思ってるより愛に溢れてるよ
近づいて「どうしたの?」と聞いて来ないけど
世界中の人が 誰かのことを思い浮かべ
遠くの幸せ願うシンクロニシティ

 1番では、夜の街を歩きながら、すれ違う人との共鳴を願った「僕」。言い換えれば1番では、他人との感情の共有が、語られていました。

 上記の引用部3行目には「近づいて「どうしたの?」と聞いて来ないけど」とあります。ここでも、他人との共有が、引き続き話題になっていることが分かります。

 しかし、引用部4行目に続くのは「誰かのことを思い浮かべ 遠くの幸せ願う」という言葉。この一節では、近くの他人から、遠くの大切な人へと、感情を共有する対象が、変化しています。

 さらに、その後のサビでは、以下の歌詞が続きます。

だから
一人では一人では負けそうな
突然やって来る悲しみさえ
一緒に泣く誰かがいて
乗り越えられるんだ

 引用部4行目に「一緒に泣く誰か」と出てきますが、これは誰を指すのでしょうか。近くの他者か、遠くの大切な人か、あるいは近くの大切な人なのか、判然としません。

 しかし、具体的に誰を指すのかは、それほど重要ではありません。むしろ、そのあとの歌詞を読むと、意図的に曖昧さを残しているのではないかと思います。上記に続く歌詞を、引用します。

ずっと
お互いにお互いに思いやれば
いつしか心は一つになる
横断歩道で隣り合わせた
他人同士でも
偶然…

 これまでは、近くの他人との共鳴と、遠くの大切な人への思いが、記述されてきました。上記の引用部では、そのふたつが融合しているように解釈できます。すなわち、全ての人が誰かを思いやることで、その心が互いに繋がり、ネットワークのようにひとつになる、と言っているのではないでしょうか。

 そして、歌詞にたびたび出てくる「ハモれ」は、心の繋がりを願う言葉であり、その心の繋がりのことを「シンクロニシティ」と呼んでいるのでしょう。

 なんだか、突拍子もない話のようですが、すれ違う他人と痛みを共有したいと願う、ロマンチストな「僕」の感受性を考慮すると、あながちおかしな話ではありません。

 上記の引用部に続く歌詞では、さらに心の繋がりが強調されています。

抱え込んだ憂鬱とか
胸の痛みも76億分の一になった気がする

 「76億」という数字は、世界人口のことでしょう。夜の街の散歩から、世界規模の繋がりにまで、飛躍してしまいました!

結論・まとめ

 結論に入りましょう。この曲では一貫して、他者との感情の共有が、テーマとなっています。

 1番では、たまたま近くにいる他人との共鳴を願い、2番の途中からは、誰かを思うことが誰かを救うことになり、いつしか心はひとつになる、という世界規模の展開を見せます。

 この心の繋がりのことを、歌詞の中では「シンクロニシティ」と呼んでいます。「共鳴」という言葉も、ほぼ同じ意味で用いられているのでしょう。

 先ほど、この曲は恋愛関係を歌ったラブソングではない、と書きました。しかし、歌詞を読み解いていくと、無償の愛と言うべきか、地球規模の壮大な愛を歌った曲であることが分かりました。

 そう思いながら聴くと、透明感のあるピアノのイントロから、ダイナミックかつ整然と進行していく楽曲のアレンジも、より広がりを持って聴こえてくるんじゃないでしょうか。

 ちなみに僕は、初めてこの曲を聴いたとき「ハモれ」が「アモーレ」に聞こえて、やっぱり秋元康はぶっとんだ歌詞を書くな…と思いました。ただ、ここまでの考察を踏まえると、「アモーレ」でも意味が通りそうな気がします。

 また、この曲は生駒里奈さんが参加した、最後のシングルでもあります。卒業していくメンバーと、乃木坂に残るメンバー。それぞれの心の繋がりをテーマにした、という一面もあるのかもしれませんね。

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乃木坂46「きっかけ」歌詞の意味考察 日常性と普遍性の交錯


目次
イントロダクション
登場人物と場面設定
「私」の感情
サビでの展開
歌詞の二重性
「きっかけ」という言葉の意味
結論・まとめ

イントロダクション

 乃木坂46の「きっかけ」。シングル曲ではありませんが、2ndアルバム『それぞれの椅子』のリード・トラックとなっており、ミュージック・ビデオも作成されています。作詞は秋元康、作曲は杉山勝彦。

 飾り気の無い、素っ気ないとも言える、「きっかけ」という曲名。歌詞の内容がほとんど想像できない、つかみどころの無いタイトルです。

 でも、実際に聴いてみると、アルバムのリード・トラックにふさわしく、多層性のある歌詞が魅力的な楽曲で、乃木坂の中でもお気に入りの曲になりました。

 歌詞の意味が、わかりやすいのと同時に、巧みな構造を持っているんですよね。このページでは、歌詞の分析と考察をしながら、この曲が持つ魅力を、お伝えできればと思っています。

 歌詞は必要な部分は引用しますが、全文は掲載しません。全文は歌詞カードか各種サイトで、確認してくださいね。

登場人物と場面設定

 まずは、登場人物と場面設定を確認しましょう。歌詞に出てくるのは、語り手である「私」のみです。

 乃木坂の楽曲は、一人称が「僕」で、「君」について歌った恋愛の曲が多いのですが、この曲はそのパターンから外れます。一人称を「私」とすることで、乃木坂メンバーの境遇に、照らし合わせた歌詞だという解釈も、可能かもしれません。

 次に、場面設定。歌い出し部分に「交差点の途中」という言葉が出てくるため、場面は交差点を渡っている途中であることが分かります。

 また、歌詞全体を見渡してみると「信号」「横断歩道」という言葉も登場。この曲の歌詞が、通りを渡っている最中に、「私」が感じたことを記述した内容だと分かります。

 では「私」は、何をきっかけにして、どんな感情を持ったのか。これから、歌詞の内容を検討していきましょう。

「私」の感情

 交差点を渡っている「私」。1番のAメロでは、信号を見ながら、思いを巡らせています。Aメロ1連目の歌詞を引用します。

交差点の途中で
不安になる
あの信号 いつまで
青い色なんだろう?

 青信号で通りを渡りながら、ふと信号というシステムに疑問を持ち、不安な気持ちになっています。信号というのは、社会のあらゆる既存のシステムを、象徴しているのでしょう。「私」は、そのシステムに無条件に従うことに疑問を持ち、不安な気持ちを抱くところから、この曲は始まります。

 Aメロ2連目では、信号が点滅し、「私」は無意識に早歩きになります。システムに疑問を持っているものの、「私」にはそのシステムが染み付いており、自動的に体が動いてしまう、という状態のようです。

 続くBメロの歌詞では、信号が点滅することに反応して、まわりの人々が自分の意思に関係のないように走りだす様子が、前半4行で記述されます。そして、後半3行では、そのときの「私」の気持ちが明かされます。

何に追われ焦るのか?と笑う
客観的に見てる私が
嫌いだ

 信号に合わせて走りだす人々を、「私」は一歩引いた目線から、嘲笑的に見つめています。そして、そんな視点を持ってしまう自分自身を「嫌いだ」と宣言しています。

 1番のAメロとBメロの歌詞をまとめると、信号機に象徴される自動化されたシステムと、無意識でそのシステムに従う人々に、「私」は疑問を呈している、ということになるでしょう。

サビでの展開

 ここまでは交差点を渡りながら、その状況がきっかけとなり、「私」は思考を巡らされていました。そのため、この部分の歌詞には「交差点」や「点滅」など、その場の具体的な状況を示す言葉が、散りばめられています。

 しかし、サビに入ると語りの質が変わり、「私」の感情のみが、流れるように記述されます。サビの前半3行の歌詞を、以下に引用します。

決心のきっかけは
理屈ではなくて
いつだってこの胸の衝動から始まる

 前述のとおり、上記の引用部には、交差点を示す言葉は出てきません。AメロとBメロでは、信号に従う人々を、批判的に見つめていた「私」。サビに入ると、より思考を深め、普遍的な事柄を語っているようです。

 上記の引用部は、信号の色が変わったら動く、というルールに従うのではなく、なにかを決心するときには、自分の心に従うべき、と言っているのでしょう。信号を渡る人々を見ながら、思考が人生の決断へと、飛躍しています。

 サビの後半では、さらに具体的な記述が続きます。サビの後半5行を、以下に引用します。

流されてしまうこと
抵抗しながら
生きるとは選択肢
たった一つを
選ぶこと

 ルールやシステムに流されて、何かを決定するのではなく、自分自身で決断すべき。そんな強い思いが、「たった一つを
選ぶこと」という言葉に凝縮されています。

 最初は信号や人々を眺めながら、その様子について考えていたのに、サビに至って「生きるとか何か?」というレベルの思考に、たどり着いてしまいました。

歌詞の二重性

 ここまでで「私」が、交差点の状況がきっかけとなり、思考が飛躍していくプロセスが確認できました。

 「きっかけ」の歌詞の面白いところは、その二重性です。これは具体的にどういうことか、ご説明します。1番の歌詞では、交通ルールに従うことを、人生において流されてしまうことに、照らし合わせていました。そして2番に入ると、今度は人生において、信号機のように決定してくれるものがあればいいのに、と思いを巡らせています。

 つまり、「交差点は人生のようだ」という比喩と、「人生は交差点のようだ」という比喩が、交互に出てくるということ。言い換えれば、双方向の比喩表現とでも言うべき、構造になっています。

 では、その前提に基づいて、2番の歌詞を確認していきましょう。2番のAメロ1連目の歌詞を、引用します。

横断歩道 渡って
いつも思う
こんな風に心に
信号があればいい

 1番の歌詞では、信号に従う人々を笑っていた「私」。しかし、2番では「心に信号があればいい」と、一見すると真逆のことを思っています。

 そして、上記の引用部に続く、2連目の歌詞では、信号のようにルールがあれば、悩まなくていいのに、という心情が吐露されます。

 ここまでの歌詞からは、自分の意思で決定するのは大変だから、信号のように自動的に決まってほしい、という気持ちが読み取れます。しかし、これはその後の内容を強調するための逆説表現で、実際には「ルールがあったら楽なんだろうけど、やっぱり自分で決断したい」という思いが、綴られていきます。

 Bメロ前半4行の歌詞を、引用しましょう。

誰かの指示
待ち続けたくない
走りたい時に
自分で踏み出せる

 Aメロでは「心に信号があればいい」のにと思っていた「私」。しかし、それは本心ではなく、上記の引用部が、実際の心持ちなのでしょう。その後に続く歌詞でも「強い意思を持った人でいたい」と、その感情がさらに強調されています。

「きっかけ」という言葉の意味

 「私」が、自分で決断できる人でいたい、という強い気持ちを持っていることが、ここまでの考察で確認できました。

 それでは、曲のタイトルにもなっている「きっかけ」という言葉。サビにも出てくるこの言葉が、なにを意味するのか検討します。2番のサビの前半部を、下記に引用します。

決心のきっかけは
時間切れじゃなくて
考えたその上で未来を信じること

 「時間切れ」というのは、信号の色が変わって動き出すように、流されるままに決断してしまうことを指しているのでしょう。ここから、その前に出てくる「きっかけ」の意味も、逆算できそうです。

 なにかを決めるときに、決断を後押しするもの。それを、この曲では「きっかけ」というキーワードに設定しているのでしょう。そして、「きっかけ」となるのは、まわりの状況や他人の意見ではなく、自分自身の心であるべきだということ。それが、この曲のテーマです。

 歌詞の最後の3行は、まさにこの曲のメッセージを、端的にあらわしています。

決心は自分から
思ったそのまま…
生きよう

 曲中には「心に信号があればいい」「背中を押すもの 欲しいんだ」という一節も出てきますが、最終的には自分で決心するしかない、自分の心に従って生きよう、というメッセージで締めくくられています。

結論・まとめ

 「人生は旅路」や「人生の岐路」という表現に代表されるように、人生を道に例える歌は、古今東西に数多くあります。

 この曲も、道を人生に例えてはいるのですが、比喩が双方向である点、そして「交差点」「横断歩道」という日常的な道が用いられている点が、特異なところ。人生を長い旅路に例えた壮大な曲ではなく、あくまで良い意味での日常性を持っています。

 AメロとBメロでは、交差点を例に出した具体的な言葉が並び、サビに入ると、人生の決断へと、話題が一気に飛躍します。この、日常性と普遍性を行ったり来たりするところが、楽曲の入口を広め、リスナーの共感を生みやすくするのでしょう。

 最後に少しだけ、音楽にも触れておきましょう。メロディーが、Aメロでは起伏が少なく抑えめで、サビに入ると起伏が大きく、開放感を演出する、というのはポップスの常套手段。「きっかけ」は、メロディーのみならず歌詞においても、あざやかなコントラストをなしていると言えます。

 すなわち、サビ以外の部分では「交差点」や「信号」を用いた、日常的な歌詞が充てられ、サビでは「生きるとは選択肢」という一節に象徴的なように、人生レベルの壮大な歌詞が充てられています。

 Mr.Childrenの桜井和寿さんが、ライヴでカバーしたというエピソードも有名ですが、本当に歌い継がれるべき、名曲です!

 




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