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乃木坂46「きっかけ」歌詞の意味考察 日常性と普遍性の交錯


目次
イントロダクション
登場人物と場面設定
「私」の感情
サビでの展開
歌詞の二重性
「きっかけ」という言葉の意味
結論・まとめ

イントロダクション

 乃木坂46の「きっかけ」。シングル曲ではありませんが、2ndアルバム『それぞれの椅子』のリード・トラックとなっており、ミュージック・ビデオも作成されています。作詞は秋元康、作曲は杉山勝彦。

 飾り気の無い、素っ気ないとも言える、「きっかけ」という曲名。歌詞の内容がほとんど想像できない、つかみどころの無いタイトルです。

 でも、実際に聴いてみると、アルバムのリード・トラックにふさわしく、多層性のある歌詞が魅力的な楽曲で、乃木坂の中でもお気に入りの曲になりました。

 歌詞の意味が、わかりやすいのと同時に、巧みな構造を持っているんですよね。このページでは、歌詞の分析と考察をしながら、この曲が持つ魅力を、お伝えできればと思っています。

 歌詞は必要な部分は引用しますが、全文は掲載しません。全文は歌詞カードか各種サイトで、確認してくださいね。

登場人物と場面設定

 まずは、登場人物と場面設定を確認しましょう。歌詞に出てくるのは、語り手である「私」のみです。

 乃木坂の楽曲は、一人称が「僕」で、「君」について歌った恋愛の曲が多いのですが、この曲はそのパターンから外れます。一人称を「私」とすることで、乃木坂メンバーの境遇に、照らし合わせた歌詞だという解釈も、可能かもしれません。

 次に、場面設定。歌い出し部分に「交差点の途中」という言葉が出てくるため、場面は交差点を渡っている途中であることが分かります。

 また、歌詞全体を見渡してみると「信号」「横断歩道」という言葉も登場。この曲の歌詞が、通りを渡っている最中に、「私」が感じたことを記述した内容だと分かります。

 では「私」は、何をきっかけにして、どんな感情を持ったのか。これから、歌詞の内容を検討していきましょう。

「私」の感情

 交差点を渡っている「私」。1番のAメロでは、信号を見ながら、思いを巡らせています。Aメロ1連目の歌詞を引用します。

交差点の途中で
不安になる
あの信号 いつまで
青い色なんだろう?

 青信号で通りを渡りながら、ふと信号というシステムに疑問を持ち、不安な気持ちになっています。信号というのは、社会のあらゆる既存のシステムを、象徴しているのでしょう。「私」は、そのシステムに無条件に従うことに疑問を持ち、不安な気持ちを抱くところから、この曲は始まります。

 Aメロ2連目では、信号が点滅し、「私」は無意識に早歩きになります。システムに疑問を持っているものの、「私」にはそのシステムが染み付いており、自動的に体が動いてしまう、という状態のようです。

 続くBメロの歌詞では、信号が点滅することに反応して、まわりの人々が自分の意思に関係のないように走りだす様子が、前半4行で記述されます。そして、後半3行では、そのときの「私」の気持ちが明かされます。

何に追われ焦るのか?と笑う
客観的に見てる私が
嫌いだ

 信号に合わせて走りだす人々を、「私」は一歩引いた目線から、嘲笑的に見つめています。そして、そんな視点を持ってしまう自分自身を「嫌いだ」と宣言しています。

 1番のAメロとBメロの歌詞をまとめると、信号機に象徴される自動化されたシステムと、無意識でそのシステムに従う人々に、「私」は疑問を呈している、ということになるでしょう。

サビでの展開

 ここまでは交差点を渡りながら、その状況がきっかけとなり、「私」は思考を巡らされていました。そのため、この部分の歌詞には「交差点」や「点滅」など、その場の具体的な状況を示す言葉が、散りばめられています。

 しかし、サビに入ると語りの質が変わり、「私」の感情のみが、流れるように記述されます。サビの前半3行の歌詞を、以下に引用します。

決心のきっかけは
理屈ではなくて
いつだってこの胸の衝動から始まる

 前述のとおり、上記の引用部には、交差点を示す言葉は出てきません。AメロとBメロでは、信号に従う人々を、批判的に見つめていた「私」。サビに入ると、より思考を深め、普遍的な事柄を語っているようです。

 上記の引用部は、信号の色が変わったら動く、というルールに従うのではなく、なにかを決心するときには、自分の心に従うべき、と言っているのでしょう。信号を渡る人々を見ながら、思考が人生の決断へと、飛躍しています。

 サビの後半では、さらに具体的な記述が続きます。サビの後半5行を、以下に引用します。

流されてしまうこと
抵抗しながら
生きるとは選択肢
たった一つを
選ぶこと

 ルールやシステムに流されて、何かを決定するのではなく、自分自身で決断すべき。そんな強い思いが、「たった一つを
選ぶこと」という言葉に凝縮されています。

 最初は信号や人々を眺めながら、その様子について考えていたのに、サビに至って「生きるとか何か?」というレベルの思考に、たどり着いてしまいました。

歌詞の二重性

 ここまでで「私」が、交差点の状況がきっかけとなり、思考が飛躍していくプロセスが確認できました。

 「きっかけ」の歌詞の面白いところは、その二重性です。これは具体的にどういうことか、ご説明します。1番の歌詞では、交通ルールに従うことを、人生において流されてしまうことに、照らし合わせていました。そして2番に入ると、今度は人生において、信号機のように決定してくれるものがあればいいのに、と思いを巡らせています。

 つまり、「交差点は人生のようだ」という比喩と、「人生は交差点のようだ」という比喩が、交互に出てくるということ。言い換えれば、双方向の比喩表現とでも言うべき、構造になっています。

 では、その前提に基づいて、2番の歌詞を確認していきましょう。2番のAメロ1連目の歌詞を、引用します。

横断歩道 渡って
いつも思う
こんな風に心に
信号があればいい

 1番の歌詞では、信号に従う人々を笑っていた「私」。しかし、2番では「心に信号があればいい」と、一見すると真逆のことを思っています。

 そして、上記の引用部に続く、2連目の歌詞では、信号のようにルールがあれば、悩まなくていいのに、という心情が吐露されます。

 ここまでの歌詞からは、自分の意思で決定するのは大変だから、信号のように自動的に決まってほしい、という気持ちが読み取れます。しかし、これはその後の内容を強調するための逆説表現で、実際には「ルールがあったら楽なんだろうけど、やっぱり自分で決断したい」という思いが、綴られていきます。

 Bメロ前半4行の歌詞を、引用しましょう。

誰かの指示
待ち続けたくない
走りたい時に
自分で踏み出せる

 Aメロでは「心に信号があればいい」のにと思っていた「私」。しかし、それは本心ではなく、上記の引用部が、実際の心持ちなのでしょう。その後に続く歌詞でも「強い意思を持った人でいたい」と、その感情がさらに強調されています。

「きっかけ」という言葉の意味

 「私」が、自分で決断できる人でいたい、という強い気持ちを持っていることが、ここまでの考察で確認できました。

 それでは、曲のタイトルにもなっている「きっかけ」という言葉。サビにも出てくるこの言葉が、なにを意味するのか検討します。2番のサビの前半部を、下記に引用します。

決心のきっかけは
時間切れじゃなくて
考えたその上で未来を信じること

 「時間切れ」というのは、信号の色が変わって動き出すように、流されるままに決断してしまうことを指しているのでしょう。ここから、その前に出てくる「きっかけ」の意味も、逆算できそうです。

 なにかを決めるときに、決断を後押しするもの。それを、この曲では「きっかけ」というキーワードに設定しているのでしょう。そして、「きっかけ」となるのは、まわりの状況や他人の意見ではなく、自分自身の心であるべきだということ。それが、この曲のテーマです。

 歌詞の最後の3行は、まさにこの曲のメッセージを、端的にあらわしています。

決心は自分から
思ったそのまま…
生きよう

 曲中には「心に信号があればいい」「背中を押すもの 欲しいんだ」という一節も出てきますが、最終的には自分で決心するしかない、自分の心に従って生きよう、というメッセージで締めくくられています。

結論・まとめ

 「人生は旅路」や「人生の岐路」という表現に代表されるように、人生を道に例える歌は、古今東西に数多くあります。

 この曲も、道を人生に例えてはいるのですが、比喩が双方向である点、そして「交差点」「横断歩道」という日常的な道が用いられている点が、特異なところ。人生を長い旅路に例えた壮大な曲ではなく、あくまで良い意味での日常性を持っています。

 AメロとBメロでは、交差点を例に出した具体的な言葉が並び、サビに入ると、人生の決断へと、話題が一気に飛躍します。この、日常性と普遍性を行ったり来たりするところが、楽曲の入口を広め、リスナーの共感を生みやすくするのでしょう。

 最後に少しだけ、音楽にも触れておきましょう。メロディーが、Aメロでは起伏が少なく抑えめで、サビに入ると起伏が大きく、開放感を演出する、というのはポップスの常套手段。「きっかけ」は、メロディーのみならず歌詞においても、あざやかなコントラストをなしていると言えます。

 すなわち、サビ以外の部分では「交差点」や「信号」を用いた、日常的な歌詞が充てられ、サビでは「生きるとは選択肢」という一節に象徴的なように、人生レベルの壮大な歌詞が充てられています。

 Mr.Childrenの桜井和寿さんが、ライヴでカバーしたというエピソードも有名ですが、本当に歌い継がれるべき、名曲です!

 




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乃木坂46「インフルエンサー」歌詞の意味考察 宇宙規模の比喩と「君」というインフルエンサー


目次
イントロダクション
歌詞の登場人物
2人の関係性
インフルエンサーの意味
2番の歌詞
結論・まとめ

イントロダクション

 「インフルエンサー」は、女性アイドルグループ・乃木坂46の17作目のシングルとして、2017年3月22日にリリースされた楽曲。作詞は秋元康。

 この曲を初めて聴いたとき、歌詞に独特の違和感と、「なるほどな」という納得感が、混じり合った感想を持ったんですよね。それはなぜかと言うと「インフルエンサー」という言葉が、一般的な意味とは違った意味で使われていたため。

 この単語は、通常はSNSでのフォロワーが多く、一定の影響力を持った人物のことを指します。でもこの曲では、本来の意味で解釈すると、違和感が生じます。本来の意味とは、ズラして言葉を使うのは、近年の秋元康の詞にたびたび用いられる手法。

 「インフルエンサー」も、まさにそのような手法を用いて書かれた歌詞で、インフルエンサー本来の意味を離れ、表現に取り込まれています。好きか嫌いかは別にして、構造的によくできた歌詞だなぁ、と感心してしまいます。

 では「インフルエンサー」という言葉が、どのように機能しているのか。この曲は、どのような構造を持っているのか。歌詞の意味を考察・分析し、僕なりの解釈を提示したいと思います。

歌詞の登場人物

 まずはじめに、歌詞に出てくる人物を確認しましょう。一見したところ、歌詞に出てくるのは「僕」と「君」の2人。この曲は「僕」の視点から、「君」について語っていることが分かります。イントロに続く、 Aメロの歌い出しの歌詞を引用します。

いつだって 知らないうちに
僕は見まわしている (何度も)
君がどこで何をしているか
気になってしまうんだ (落ち着かなくなる)

 上記の引用部では、「僕」は「君」が気になっている、ということが提示されます。この後の歌詞には「恋はいつも余所余所しい」という一節も出てくるのですが、どうやら「僕」は「君」に片思いをしている、というシチュエーションのようです。

 まず、冒頭部分で「僕」が「君」を気にしている、言い換えれば、恋をしているという関係性が明かされ、その後の歌詞は、この関係性を前提に進んでいきます。

 それでは、その前提に立って、歌詞を読み進めていきましょう。

2人の関係性

 先ほどの引用部からは、「僕」が「君」に憧れている、ということが確認できました。その後に続く歌詞では、徐々に2人の距離感が、明らかになっていきます。Aメロの2連目の歌詞を、引用します。

声くらい掛ければいい
誰もが思うだろう (できない)
君がいる場所がわかったら
僕には地図になるんだ

 上記の引用部から、「僕」と「君」の関係性が希薄だということが示唆されます。1行目と2行目では、声も掛けられないことが明かされ、続く3行目と4行目では、「君」に対する強い憧れの気持ちが表れています。

 さらに、その後に続くAメロの歌詞でも、「僕」と「君」の距離感が遠い、ということが繰り返し記述されます。サビに入ると、より具体的な比喩表現で、二人の関係性が示されます。サビの1連目の歌詞を引用します。

地球と太陽みたいに
光と影が生まれて
君を探してばかり
距離は縮まらない (hey! hey! hey!)

 上記の引用部では、二人の関係が「地球と太陽」に例えられています。この比喩では、「僕」が地球、「君」が太陽にあたるのでしょう。

 地球は、太陽系の惑星。一定の距離をとって、太陽の周囲を回る存在です。つまり「僕」は「君」に一方的に影響を受けているけど、距離は決して縮まることがない、現在の関係性をあらわしています。

 ほぼ望みのない片思いを歌っているのでしょうけど、宇宙規模の話になってしまいました。でも、「僕」の焦燥感や絶望感を描き出すという意味では、直接的な表現にならず、コミカルな要素も含んでいて、とても機能的。

 ただただ「僕」の焦る気持ちを記述されても、リアクションに困る、暗い歌になってしまいますもんね。

インフルエンサーの意味

 サビの2連目に入ると、曲のタイトルにもなっている「インフルエンサー」という言葉が、遂に登場。それではここで、インフルエンサーとは何を意味しているのか、考察していきましょう。

 サビの2連目の歌詞を、以下に引用します。

重力 引力 惹かれて
1から10まで君次第
存在するだけで
影響 与えてる
インフルエンサー

 「重力 引力」という言葉が用いられ、引き続き宇宙規模の比喩が続いています。ここまでの歌詞で「僕」と「君」の距離感が遠いこと、「僕」が「君」に片思いしていることが確認できましたが、影響を与える人という意味の「インフルエンサー」という言葉も、二人の関係性へと繋がります。

 すなわち、「僕」は「君」から影響を受けるだけの、一方的な関係性であるということです。先述したとおり、「インフルエンサー」とは本来ネット上で影響力を持つ人を指します。

 ネットを通して情報を発信するインフルエンサーと、それを受け取る人の関係は、基本的には一方通行です。コメントなどで、やりとりが可能なケースもありますが、あくまでネット上での関係。決してリアルに近づくことはできません。

 この曲の歌詞に出てくる「インフルエンサー」という言葉は、「君」のことを指しています。しかし、もちろん「君」が著名なインスタグラマーだ、と言っているのではありません。「僕」と「君」には、確かな距離があること。そして、「僕」は「君」を強く思うあまり、その一挙手一投足に影響されてしまうことが、表現されているのでしょう。

2番の歌詞

 2番に入ると、より具体的な状況が語られます。しかし、それらは1番の歌詞で語られた内容を、補強・確認するもの。2番のAメロの歌詞を引用します。

ミュージックやファッションとか
映画や小説とか (何でも)
お気に入りのもの 手にすれば
時間を共有できるんだ

 1番の歌詞に、声も掛けることができない旨が書かれていました。上記の引用部では、せめて「君」の好きなものに触れれば、時間が共有できる、と記述されています。

 会話ができなくても、時間を共有できると考える「僕」。ますます「僕」の一方的な片思いの様相が、明らかになってきました。2番の歌詞では、これ以降も「君」の影響力の大きさが、繰り返し語られていきます。

結論・まとめ

 それでは、結論に入りましょう。この曲では「僕」の「君」に対する片思いが、歌われています。しかも、その関係性は非常に希薄で、「気配以上 会話未満」のコミュニケーションしか取れない状況。

 そんな状況下で「僕」は、かなう可能性が低い、しかしどうしようもなく強い「君」への思いを、宇宙規模の比喩を用いて語っていきます。そして、「君」の影響力の大きさを、端的にあらわしたのが「インフルエンサー」という言葉。

 他人にとっては取るに足らない関係性が、当人にとっては大問題である、ということを、太陽や地球を用いた、壮大なメタファーで描いているのでしょう。

 「インフルエンサー」という横文字の新しい言葉を使ったのは、当人にとっては大ごとであるけど、それは日常的なありふれたテーマであることを、浮き彫りにするためではないでしょうか。

 思春期的なありふれた片思いを、宇宙規模にまで飛躍させ、それを日常にゆり戻すために「インフルエンサー」という言葉を用いた、というのが僕の結論です。

 「君」と「僕」の関係性を、アイドルとヲタクの関係に変換して解釈する向きもあるようですが、当たらずといえども遠からずと言うべきか、示唆的ではあると思います。

 いずれにしても、学生時代にありそうな片思いを、宇宙にまで飛躍して描いていくのは、ちょっと笑ってしまうし、シリアスになり過ぎず、良いですね。

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欅坂46「世界には愛しかない」が意味するもの 歌詞の意味考察


目次
イントロダクション
語りの構造
場面設定
歌詞のテーマ
夕立のメタファー
結論・まとめ

イントロダクション

 「世界には愛しかない」は、欅坂46の2016年8月10日リリースの2ndシングル。2017年7月19日発売のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』にも収録。

 また、欅坂46出演のミステリー学園ドラマ『徳山大五郎を誰が殺したか?』の主題歌になっています。作詞は秋元康。

 「世界には愛しかない」というハッキリと言い切られたタイトル。まず、このタイトルにツッコミたくなりますよね。世界には愛しかないことはないだろう、他にもいろいろあるだろうと。

 こういうちょっとした違和感を利用するのは、秋元康の得意とする手法。メロディーに乗った歌詞を聴いていくと、徐々に答え合わせがなされます。この一種のパズルのような感覚が、リスナーを歌の世界に引き込む効果を持っているのでしょう。

 では「世界には愛しかない」という言葉は、なにを意味するのか。歌詞を順番に読み解きながら、解釈していきます。歌詞は必要な部分は適宜引用いたしますが、全文は歌詞カードか各種サイトでご確認ください。

語りの構造

 最初に、歌詞全体の構造を確認しましょう。語り手は「僕」。

 歌詞を確認すると、カギ括弧で囲われた部分があることに気がつきます。そして、音源を聴いてみると、カギカッコ内のパートが朗読(ポエトリーリーディング)となっているのに対し、カッコ外のパートはメロディーで歌われています。

 全体の歌詞を見渡すと「世界には愛しかない」という曲は、朗読されるカッコ内のパートと、メロディーのついたカッコ外のパートが、交互に登場する構造であることが分かります。

 では、これら2種類のパートは、歌詞の内容の面では、どのように異なっているのでしょうか。表記の方法が異なるのに対応して、歌詞の内容においても差異が認められるのか。2種類のパートが、使い分けられている意味を意識しながら、歌詞を読み解いてみましょう。

 カギカッコで囲われた、冒頭部分の歌詞を引用します。

「歩道橋を駆け上がると、夏の青い空がすぐそこにあった。
絶対届かないって分かっているはずなのに、僕はつま先で立って
思いっきり手を伸ばした。」

 上記の引用部は、具体的な状況描写がなされています。歩道橋を駆け上がり、青い空に手を伸ばす様子。その一連の動きを、語り手である「僕」が、いきいきと描き出します。おそらく、これは「僕」が見たままのことを、そのまま表出しているということでしょう。

 そして、上記の朗読に続いて、カッコのつかない通常のメロディー部分が続きます。上記に続く部分を引用します。

ただじっと眺め続けるなんてできやしない
この胸に溢れる君への想いがもどかしい

 前述のとおり、こちらの引用部にはカッコが付いておらず、朗読ではなくメロディーがあてられています。先の引用部と比較して気がつくのは、語尾と時制の違い。

 カッコ内では、「僕」の発言をそのまま写したかのような言葉が、過去形で記述されていました。しかし、カッコ外となったこちらの引用部では、現在形で「僕」の心情と思われるものが記述されています。

 以上の違いから、カッコ内は実際の発言、カッコ外は心に思ったこと、と仮定しましょう。この仮定に基づくと、カッコ内にだけ句読点が用いられているのは、実際の発言であるという臨場感を演出するため、と解釈できます。

 また、冒頭の朗読部分では「歩道橋」「青い空」という具体的な場所を示す言葉と、「つま先で立って」「手を伸ばした」という具体的な行為をあらわす言い回しが、散りばめられていました。これらの表現も、カッコ内の写実性を高めるため、と考えれば整合性がとれます。

 ここで再び歌詞全体を見渡すと、この曲の語り手は「僕」。この「僕」が唯一の登場人物で、写実的な発言のパートと、感情を記述したパートの2種類から、歌詞が構成されていることが分かります。「僕」の語りの中に「君」も出てきますが、具体的に「君」がどういう人であるのかは、語られません。

場面設定

 語りの構造が明らかになったところで、次にどのような場面を歌っているのか、確認してみましょう。

 先ほど引用した冒頭部分から、「僕」が歩道橋を駆け上がり、空に向かって手を伸ばしていることが分かりました。歌詞の続きを、以下に引用します。

「真っ白な入道雲がもくもくと近づいて、
どこかで蝉たちが一斉に鳴いた。
太陽が一瞬、怯(ひる)んだ気がした。」

 上記の引用部に出てくる「蝉たち」という言葉から、季節が夏であることが分かります。ここまでの歌詞から、季節は夏で、場所は歩道橋の上、今のところは晴れているが入道雲が近づいている、という場面だということが確認できました。

歌詞のテーマ

 では、ここからが本題。曲のタイトルにもなり、サビの歌詞としても歌われる「世界には愛しかない」という言い回しが、なにを意味するのか考えていきます。以下にサビの歌詞を引用します。

 下記の引用部で、カッコに入っている部分の歌詞は、メインのメロディーに対して、合いの手のように歌われています。

世界には愛しかない
(信じるのはそれだけだ)
今すぐ僕は君を探しに行こう
誰に反対されても
(心の向きは変えられない)
それが (それが) 僕の (僕の) アイデンティティー

 上記の引用部から、歌詞のテーマと思われるものが、浮き彫りになってきました。まず、1行目で「世界には愛しかない」と宣言し、それが具体的にどういう意味なのかを、そのあとで説明しています。

 引用部3行目に出てくる「君」について、「僕」との関係性は触れられていませんが、ここでは恋愛感情を持つ相手だと、仮定しておきましょう。

 まとめると、「僕」が「君」を探しに行こうとする感情を、曲げずに貫き通すこと。それを「僕のアイデンティティー」とまで言い切り、「君」を思う感情のことを「愛」だと言っているようです。

 誰に反対されても、君を思うことはやめない。その強い感情が「世界には愛しかない」という言葉で、表わされています。

 さらに、サビに入る前の歌詞に戻ると、以下の一節があります。

「複雑に見えるこの世界は
単純な感情で動いている。」

 上記の引用部で言う「単純な感情」とは、サビに出てくる「愛」のこと。すなわち、他者を思う強い気持ちのことでしょう。曲のテーマが、だいぶ鮮明になってきました。

 この曲は他者を思う気持ちを歌っている、その気持ち以上に人のモチベーションとなるものは無い、ということを「世界には愛しかない」と表現しているのでしょう。

夕立のメタファー

 さて、曲のテーマが明らかになったところで、場面設定の話に戻りましょう。先ほど確認したとおり、この曲の場面設定は、「僕」が歩道橋を駆け上がり、空を見ているところ。では、なぜこのような場面設定がなされたのか、検討していきます。

 歌詞を順番に追っていくと、最初は青い空だったのが、入道雲が近づき、やがて夕立がやってきます。そして、2番の歌詞では、「僕」が次のように語ります。

「夕立も予測できない未来も嫌いじゃない。」

傘がなくたって走りたい日もある

 2番の歌詞では冒頭部分で「突然、雨が降って来た」と記述され、夕立がやってきたところから場面が始まります。その後に続く歌詞から、上記2箇所を部分的に引用しました。

 1番の時点で入道雲が近づき、2番の歌詞に入ったところで、ついに雨が降り始めました。では、この夕立は、なにを意味しているのか。言い換えれば、なんのメタファーとなっているのでしょうか。

 先ほど引用した、1番のサビに「誰に反対されても 心の向きは変えられない」という歌詞があります。おそらく夕立は、他者からの反対意見や、様々な困難をあらわしているのでしょう。

 そして、1番のサビで「心の向きは変えられない」と言い切っているのに対応して、上記2箇所の引用部では、たとえ困難があっても「君」を思う気持ちを優先する、という「僕」の強い気持ちを記述しています。

 「僕」の強い気持ちを際立たせるため、また臨場感を伴った表現とするために、夕立のなかを走り抜けることを、「君」を思い続けることの比喩として用いた、というのが僕の考えです。

結論・まとめ

 「世界には愛しかない」という言い回しが、なにを意味するのか、というのが最初の問いでした。「世界には愛しかない」という言葉は、他者を思い続ける感情以上に人を突き動かすものは無い、という意味で使われているというのが、ここまで考察してきた結論です。

 この曲においては、思いを寄せる他者として「君」が用いられています。しかし、先述したとおり「君」の具体的な情報は、与えられません。恋愛感情にフォーカスして、「君」のことを詳細に語るのではなく、人を突き動かす根源的な感情にフォーカスしているのが、この曲の特異なところと言えるでしょう。

 その感情の動きをいきいきと表現するために、歩道橋を駆け上がり、夕立が降り出すまでを、写実的に記述。さらに、語りの質を次々と切り替え、疾走感を生んでいます。

 少し演奏面にも触れておくと、メロウなピアノのイントロから始まり、続いてアコースティック・ギターの小気味良いカッティングと、流れるようなピアノの音。バックのトラックも歌詞と対応して、コントラストと疾走感を伴っていますよね。

 この曲のラストは、次の言葉で結ばれます。思春期の感情を、疾走感の溢れる言葉とメロディーで切り取った、本当に清々しい1曲です。

自分の気持ちに正直になるって清々しい。
僕は信じてる。世界には愛しかないんだ。

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欅坂46「制服と太陽」歌詞の意味考察 「制服」と「太陽」が表象するもの


目次
イントロダクション
歌詞の場面設定
「制服」と「太陽」が意味するもの
「私」の心情の変化
「私」の決断
結論・まとめ

イントロダクション

 「制服と太陽」は、日本の女性アイドルグループ欅坂46の楽曲。作詞は秋元康。

 2016年11月30日発売のシングル『二人セゾン』、2017年7月19日発売のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されています。

 「制服と太陽」と題されたこの曲。イソップ寓話のひとつに「北風と太陽」という話がありますし、この曲も「制服」と「太陽」が、対立する価値観をあらわすのだと、なんとなく想像して聴き始めました。結論から言うと、その予想の半分はアタリで、半分はハズレ。

 それぞれ異なる価値観をあらわしてはいるのですが、単純に「大人VS子供」「常識VS自由」という対立を歌っているかというと、違いました。そうした二項対立ではなく、若者らしいモヤモヤした感情にフォーカスされた楽曲だったんです。

 個人的に欅坂46には、デビューシングル「サイレントマジョリティー」における鮮烈な反抗のイメージを持っていて、「制服と太陽」も自由になるために大人と戦う曲、この支配からの卒業を歌った曲だと思っていたんですよね。しかし実際には、まわりの常識と自分の価値観の間で、揺れ動く気持ちが描写されています。

 価値観の対立はあるのですが、直接対決ではなく、しなやかにすり抜けていく様子が描かれています。ただ単に大人に反抗するのではなく、ゆるやかに疑問を呈しつつ、自分の感情に従う、というところが、なんとも現代的な語りの手法だと思うんですよね。

 そんなわけでこのページでは、「制服と太陽」の歌詞について、僕なりの解釈を記述していきます。

歌詞の場面設定

 まず、曲のタイトルになっていて、歌詞にも出てくる「制服」と「太陽」という言葉について。この二つの言葉が、それぞれ何を表象しているのか、確認しましょう。

 と、言いたいところですが、これらの言葉が出てくるのはサビに入ってから。歌詞に沿って、順番に話を進めた方がわかりやすいので、まずはAメロの歌詞から、場面設定と登場人物を確認します。

 歌い出し部分の歌詞を、以下に引用します。

いつもの教室に親と教師と私
重苦しい進路相談のその時間
大学へ行くか?
やりたいことはあるか?
今ここで決めなきゃいけないのかなあ

 引用部から、多くの具体的な情報が提供されました。まず、登場人物は「親」と「教師」と「私」の3人。進路相談のために、教室に三者が集まっています。いわゆる三者面談ですね。

 語りの視点は「私」。この曲は「私」の心の声を、綴ったものなのでしょう。「大学へ行くか?」「やりたいことはあるか?」と、クエスチョンマークがついて質問になっている言葉は、他の部分と口調が異なるため、それぞれ親と教師が発したものと解釈できます。

 他の部分が「私」の思ったことを記述しているのに対し、これらの質問文は、親と教師が発した言葉を、「私」が直接話法で記述した形になっています。そのことを強調するために、クエスチョンマークを付けたのでしょう。

 そして、引用部の最後の1行では、「私」自身の言葉に戻っています。また「大学へ行くか?」という言葉からは、「私」が高校生であることも明らかになります。

「制服」と「太陽」が意味するもの

 続くBメロでは、窓の外を鳥が飛んでいく様子が描写されています。三者面談の場で、窓の外を見つめながら、大人に未来を問い詰められ束縛される自分と、自由に空を飛んでいく鳥を、対比的に感じているのでしょう。

 その後、サビに入ると、タイトルになっている「制服」と「太陽」が出てきます。この曲は、サビのメロディーが2段階になっているので、「制服は太陽の匂いがする」から始まる部分をAサビ、「心の光」から始まる部分をBサビと、これ以降は表現させていただきます。

 では、Aサビの前半部分を以下に引用します。

制服は太陽の匂いがする
スカートは風に広がる
何十回 何百回 校庭を走り回り
自由な日々 過ごして来た

 さて、それでは「制服」と「太陽」は、それぞれ何をあらわしているのでしょうか。2番の歌詞に出てくるため後述しますが、「制服」は明らかに学校および校則を象徴するものです。大人側のルールと、言い換えても良いでしょう。

 一方の「太陽」は、Bメロで鳥を眺めていた時の心情とも繋がり、窓の外の世界、校則のない自由な世界を象徴しているように読めます。

 学校という閉じられた世界とルールを象徴する「制服」と、自由な外の世界を象徴する「太陽」。やはり、この二つの言葉は、コントラストをなす組み合わせだと、仮定しておきましょう。

 しかし、上記の意味を代入して歌詞を読み解くと、違和感が残ることに気づきます。「制服」から「太陽」の匂いがするとは、どういうことだろう? 「学校から自由の匂いがする」と解釈すると、これまでの歌詞と矛盾が生じますし、意味が分かりません。

 ひとまず解釈を保留し、歌詞の続きを見てみましょう。そこには「校庭を走り回り 自由な日々 過ごして来た」という言葉が続きます。

 「制服」が、社会のルールの象徴であるのは、おそらくその通り。入学当初は、制服を着ること、つまりルールに従うことに疑問を感じていなかったのに、学校生活を送る中で、ルールに疑問を持ち、自由を求める意識に目覚めた。そのような心情の変化を、「制服は太陽の匂いがする」という言葉で表現している、というのが僕の考えです。

 では、ここからは以上の仮定に基づいて、歌詞の続きを読んでいきます。

「私」の心情の変化

 今まではルールに従順だった「私」。しかし、進路を決める段階になって、初めて自分の意志を出し始めます。Aサビの最後の2行を引用します。

生き方なんて誰からも指導されなくたって
運命が選び始める

 進路を問いただす「親」と「教師」に対し、「私」は運命が決めてくれる、と考えています。ここで興味深いのは、直接的に反抗するのではなく、「こうしたい!」という強い希望を持っているわけでもなく、どちらかと言うと「なるようになるさ」という力の抜けた態度であること。

 さらにBサビでは、以下の歌詞が続きます。

心の光
感じるまま
自分で決める

 ここで初めて「私」の意思表示がなされています。前述したように、具体的に何がしたいという意思表示ではなく、自分の未来は自分で決めたい、という意思表示です。

 2番に入ると、1番で語られた内容が、さらに展開していきます。まず、2番のAメロの歌詞を引用しましょう。

就職をするか?
何もしないつもりか?
人生をみんなに問い詰められてる

 1番のAメロと同様、1行目と2行目は親と教師の言葉、そして3行目は「私」の心情、という構造になっています。また、2番でも引き続き、舞台は教室での進路相談であることが分かります。

 Bメロでは「何を言っても絶対 理解してはくれない」と「私」の心の声が記述され、サビに入ります。以下、Aサビの最初の2行を引用します。

制服を脱ぎ捨てて大人になる
校則のない世界へ

 引用部から、やはり「制服」は、校則やルールの象徴であると確認できました。さらに、この部分では「制服と太陽」という曲が、単純な対立関係を歌ってはいないことが、再び強調されます。

 「大人」が校則を作る側の仮想敵ではなく、校則のない世界へ身を置くことが「大人になる」ことだと表現されています。上記の引用部からは、大人への反抗と対立が、この曲のテーマではないということが分かるでしょう。

 続いて、2番のBサビ後半部を引用します。

傷つき挫(くじ)けながら
歩き方を覚えるもの
転ぶ前にそう初めから手を差し伸べられたら
いつまでも強くなれない

 この引用部では、親と教師のアドバイスが、決して反抗の対象というわけではなく、最初から助言どおりに道を決めていては、自分のためにならない、という心情が綴られています。

 三者面談の場で、親と教師の言葉に対して、違和感を覚えている「私」。しかし、決して彼らの言葉への単純な反発を表明するのではなく、なんとなく納得がいかないモヤモヤした感情から、徐々に自分の意志を決める「私」の変化が、この曲のテーマです。

「私」の決断

 では、最終的に「私」は、どのような決断を下したのか。最後のBサビ部分を引用します。

話の途中
席を立って
教室出よう

 「私」は三者面談の場で、ついに席を立って、教室を飛び出します。校則のある3年間を経て、自分で道を決定する重要さを学び、それを実行した瞬間。歌詞としては、ここがクライマックスだと言っていいでしょう。

 親と教師に対して、ハッキリと反論するのではなく、なんの説明もなしに、いきなり行動に移すところが、なんとも現代的ですね。

 ただ、何も考えていないわけではなく、自分なりに思考を重ねて達した結論であることが、歌詞では語られています。

結論・まとめ

 まとめると、タイトルに用いられている「制服」と「太陽」は、それぞれ校則と自由を象徴しています。しかし、ふたつの価値観を単純に対立させるのではなく、語り手である「私」の感情の動きに焦点を合わせている、というのが、この歌詞の特徴。

 サビの「制服は太陽の匂いがする」という一節も、深読みが可能で、おもしろい言いまわしですよね。洗濯物を日光があたる場所に干すと、太陽の匂いがつくことがありますけど、この曲でも校庭を走り回ることで、制服に太陽の匂いがついた、とも解釈できます。

 もちろん、これは一種の比喩表現で、校則のある学校という場で過ごしているうちに、校則を無条件に受け入れるのではなく、自分の意志で物事を決定することを学んだ、ということを表しているのでしょう。

 ピアノをフィーチャーしたアレンジと、ユニゾンによる合唱風のボーカルも、学校感を演出していて、なんとも青春を感じる楽曲です。

 好きか嫌いかは別にして、秋元康という人は、時代や世代を意識した歌詞を書く人ですね。現在、彼が手がけるアイドル・グループの楽曲は、現代の若者の価値観に迎合したものが多数を占めます。

 学校や大人を敵視するのではなく、なんか違うと感じつつ、最後には教室を飛び出しちゃうところとか、現代版の尾崎豊「卒業」だなぁ、と個人的には思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

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椎名林檎「自由へ道連れ」の歌詞考察と、私立恵比寿中学が歌う意味について


目次
イントロダクション
「自由へ道連れ」というタイトル
歌詞のテーマと登場人物
「世界のまん中」の意味
対になる言葉の使用
「自由」の意味
エビ中がこの曲を歌う意味

イントロダクション

 2018年5月23日に、椎名林檎さんのトリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』がリリースされました。

 このアルバムには、エビ中こと私立恵比寿中学がカバーする「自由へ道連れ」も収録されています。作詞作曲を手がけるのは、もちろん椎名林檎さん。

 僕はエビ中目当てで、このアルバムを手に取ったクチですが、エビ中を知らない方からも「自由へ道連れ」の評判が良いようで、嬉しい。本当に自分のことのように嬉しい!

 皆さんの熱いご意見、ご感想を拝見していたら、自分もなにか書きたい! この楽曲の良さを伝えたい…!という気持ちになってしまったので、この曲の歌詞の考察と、「永遠に中学生」をコンセプトに活動する私立恵比寿中学というアイドル・グループが、この曲を歌う意味について、書いてみたいと思います。

 最初にお断りしておきますが、僕はエビ中のファン(通称:エビ中ファミリー)であり、椎名林檎さんについてはシングル曲を中心に代表曲は知っている、という程度の知識しか持ち合わせていない人間です。

 ですので、椎名林檎さんのファンの方からしたら、的はずれな部分もあるかもしれませんが、ご容赦いただけますと幸いです。

 前フリが長くなりましたが、では順番に歌詞を読みといていきましょう。

「自由へ道連れ」というタイトル

 椎名林檎さんの書く歌詞には、リスナーの耳をつかむ、ハッとするような言葉が使われることが珍しくありませんが、「自由へ道連れ」というこの曲のタイトルにも、良い意味での違和感を覚えました。

 「道連れ」という言葉は、文字どおりには「連れ立って行くこと」「連れ立って行く同行者」程度の意味です。しかし、少なからず無理やりに連れて行く、というニュアンスもあり、『大辞林 第三版』には「むりに一緒の行動をとらせること」という意味も記載されています。

 また、道連れと言うからには、目的地は場所であるはずです。例えば、イギリスのロック・バンド、クイーンの『Another One Bites The Dust』という曲には、『地獄へ道づれ』という邦題がついていました。(「bite the dust」あるいは「kiss the dust」には、「倒れる、戦死する、敗北する」といった意味があるため)

 さて、そんなわけで「自由へ道連れ」というこの曲のタイトル。本来は場所が入るべきところに「自由」という言葉が入り、「自由」という一般的には良い意味で用いられるはずの言葉が、むりやりに連れて行かれるというネガティヴな印象を帯びた「道連れ」という言葉と共に使用されています。

 2段階で、ちょっとずつ言葉の使い方にズレがあり、そのズレがリスナーの想像力を掻き立てる構造になっている、少なくとも僕はタイトルを見た時点で、この楽曲のイマジナティヴな世界観を感じました。

 この曲のなかで「自由」とは何を意味するのか。誰が誰を「道連れ」にするのか。誰もが自由になりたいはずなのに、無理やりに連れて行くニュアンスを持つ「道連れ」という、ちょっとクセのある言葉をなぜわざわざ使ったのか…。

 また、「道連れ」という言葉を使うことで、歌詞に出てくるのが道連れにする人とされる人、少なくとも2人であることが示唆されます。

歌詞のテーマと登場人物

 では、ここから具体的に、歌詞の内容を検討していきましょう。

 まず歌詞に出てくる人物ですが、歌詞を読んでいくと、語り手と「君」の2人であることが分かります。語り手の視点から、語り手自身と「君」について語られていきます。

 次に、この歌詞は何をテーマに歌っているのか。まず歌い出しの部分では以下のように歌われます。

超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル
逸る命
この現し身は驀地(まっしぐら)

 1行目から、リスナーの注意を引く言葉、および仮名遣いが多用されています。「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」と「逸(はや)る命」は、おそらく同じことの言い換えであり、あっという間に過ぎ去ってしまう人生のスピード感を、それぞれ表しているんじゃないかと思います。

 つまり、自分の命および人生を「ミサイル」に例え、さらに「逸る命」、3行目の「驀地(まっしぐら)」と、強調を重ねています。

 また、3行目には「現し身(うつしみ)」という言葉が出てきますが、この語は「現世に生をうけている姿」という意味があります。「現し身」という言葉を使うことで、現在の姿は一時的なものであり、やがて宇宙や永遠に返っていくという、仏教的な死生観を連想させます。

 この歌い出し部分の歌詞から、この曲は命の短さや真理、もっと具体的には生と死について歌っているのではないか、とひとまず仮定できるのではないでしょうか。

 この仮定に基づいて、2連目の歌詞の前半3行を見てみましょう。

最高級(トップバリュー)のドライブ
君の命
そのDNAは驀地(まっしぐら)

 こちらの引用部も、歌い出しの歌詞と同じく、命の短さやスピードについて、歌っていると解釈できます。先ほどの引用部と違うところは、さっきは語り手が自分自身の命を語っていたのに対して、今回は語り手が「君」の命について、語っている点です。

「世界のまん中」の意味

 歌詞のテーマが「命」あるいは「生と死」であると仮定して、さらに歌詞の内容に深く、踏み込んでいきたいと思います。

 歌詞には「世界のまん中」という表現が、合計4回出てきます。この「世界のまん中」という言葉は、なにを意味しているのでしょうか。

 「世界のまん中」という言葉が最初に使われるのは、先ほど引用した歌い出し部分に続く部分。冒頭から4行目です。

世界のまん中が視(み)たい

 この引用部の前の3行では、前述したとおり命のスピード感について歌われています。自らの命を「超弩級(ちょうどきゅう)のミサイル」に例え、生まれてから「世界のまん中」を目指して疾走していく。そう解釈すると「世界のまん中」とは、命の終わりを指しているようにも思えます。

 しかし、この引用部の前では「現し身」という言葉が使われていることから、文字通りの生と死を歌っているのではなく、精神的・概念的なことを歌っているのではないかと思います。

 少しスピリチュアルな話になってしまいますが、「人生の意味」や「世界の真理」のような人生を通して追い求めるべきものを「世界のまん中」と表現し、それに向かっていく人生の疾走感を表したのではないか、というのが僕の考えです。

対になる言葉の使用

 もうひとつ歌詞の中で、目につくのは一対の組み合わせになる言葉の多用です。

 「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」「破壊と建設」「子供にも大人にも」「気分と合理」などなど、対義となる言葉の組み合わせが、随所に散りばめられています。

 この中で、1連目の歌詞に出てくる「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」は、次のような文脈で出てきます。

世界のまん中が視(み)たい
Take me there, won’t you?
混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ

 先ほど引用した「世界のまん中が視(み)たい」に続く部分です。

 「Take me there, won’t you?」は、「そこに連れて行って、くれるよね?」という意味で、語り手が「君」に話しかけている内容ということでしょう。

 さらに「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待っているよ」と続きます。この「混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間」というのも、今生きている人生を表しているのではないかと思います。

 全ての秩序は混沌に向かい、また全ての混沌は秩序に向かっている、ということは多くの理論で主張されます。僕は哲学や物理学の専門家ではありませんので、特定の理論について語ることはできませんが、秩序だった物事はやがて崩壊に向かい、カオスと思われる物事からも、やがて秩序が生まれていく、その混沌と秩序の間でしか、生命は存在できないということです。

 その後も「破壊と建設」「気分と合理」といった対となる言葉が出てきますが、これらも「混沌(カオス)と秩序(コスモス)」の例と同じく、二元論では割り切れない人生を、象徴的に表わしているのではないでしょうか。

「自由」の意味

 ここで「自由へ道連れ」という、この曲のタイトルに立ち返って、歌詞における「自由」の意味について検討したいと思います。

 1回目のサビの終わり、そして曲の最後のサビの終わりに、それぞれ「自由」という言葉が出てきます。まず、1回目のサビ部分を引用します。

待ち切れない
今ならば子供にも大人にもなれる
試されたい
近付いている
確かめてほら
自由へ秒読み

 この引用部の「子供にも大人にもなれる」という言葉は、先ほど言及した「混沌と秩序」に対応した関係になっているんじゃないかと思います。

 すなわち、子供らしく感情に任せた態度と、大人らしく論理や常識を重視する態度。そのふたつのどちらにも囚われず、自分の価値観を獲得することを「自由」と読んでいる、ということです。

 続いて、この曲の最後のサビ部分を引用します。

生きている証は執着そのものだろうけど
放たれたい
相反する二つを結べ
自由はここさ
本当の世界のまん中

 引用部の1行目に「生きている証は執着そのもの」とあります。これは、命への執着とも読み取れます。しかし、その後に続く歌詞から、常識や思いこみなどに執着してしまう態度とも、読み取れます。

 引用部3行目には「相反する二つを結べ」とありますが、これは先ほど検討した「混沌と秩序」「子供と大人」「気分と合理」といった対になる言葉を、対立するものと単純に受け取らず、両方とも自分なりに取り込め、ということではないでしょうか。

 そして、曲のラストは「自由はここさ 本当の世界のまん中」と締められます。これは、執着から放たれ、相反する二つを結ぶことで、「自由」と「世界のまん中」に達したということを表わしているのではないかと思います。(同時に、相反する二つを結ぶことは現実には不可能であり、命の終わりを意味している、という解釈も可能かと思います。)

 もちろん、言葉で説明できるほど単純なことを歌っているとは思いませんが、多層性のあるイマジナティヴな世界観を、疾走感あふれる言葉と楽曲で描き出す、素晴らしい楽曲であることは確かです。

エビ中がこの曲を歌う意味

 最後に、この「自由へ道連れ」を、エビ中が歌う意味について、個人的に思うことを書かせていただきます。

 前述したとおり、エビ中こと私立恵比寿中学は「永遠に中学生」をコンセプトに活動する、アイドル・グループです。しかし、すでにメンバーには実際の中学生はいません。

 年齢的には中学生を越えているメンバーたちが、「中学生」というコンセプトを実行する二重性。また、今回エビ中を知らない方からの「アイドルなのに歌唱力がすごい!」という感想を拝見しますが、アイドルであるのに、歌唱力で勝負できるレベルの歌唱力を備えているところ。

 このように「大人」と「中学生」の間、「アイドル」と「歌手」の間を、楽しそうに越境するエビ中が「自由へ道連れ」を歌うことで、椎名林檎さんが歌うオリジナルとは異質の、アイドルならではの二重性が生まれているのではないかと思います。

 その最も象徴的なパートは、再生時間でいうと2:43あたりの「道連れしちゃうぞ」というセリフでしょう。アイドルらしからぬ歌唱力と表現力を発揮しながら、間奏後のキメとなる部分に、アイドル然としたアレンジをさらっと入れるバランスが、本当に秀逸。

 また、一般的には持続するのが難しい、女性アイドルという存在の刹那感が、原曲が持つ命と人生の疾走感とマッチしつつ、違った魅力を与えていると思います。アイドルならではの疾走感と言ったらいいでしょうか。

 サウンド・プロダクションの面でも、エッジの立ったソリッドなオリジナル版に対して、アコースティック・ギターを用いて全体のサウンドを若干ソフトに仕上げたところも、疾走感を失わず、キャラクターの違う6人の声の魅力を、際立たせていますね。

 エビ中のオフィシャルYouTubeチャンネルに、「自由へ道連れ」をライブでカバーした映像がアップされています。こちらも素晴らしいので、ぜひご覧になってみてください。

 ここからは、エビ中のファンとして、こちらのライブ映像に沿って、メンバーを簡単にご紹介します。

 歌い出しのパートを担当する、安定感のある歌声を披露しているショートカットの子は、トマト大好きリコピン少女、安本彩花さん。

 安本さんからバトンを受けて「世界のまん中が視たい」からのパートを担当する、ファルセットを自在に操るポニーテールの子は、エビ中のハイテンションガール、真山りかさん。

 「最高級(トップバリュー)のドライブ」からのパートを担当する、柔らかな優しい声を持っているのは、歌う稲穂、ダンシングライス、小林歌穂さん。

 「世界のまん中に触れて」からのパートを担当する、顔をくしゃくしゃにしてエモーショナルに歌うのは、さそり座の中学生、中山莉子さん。

 「待ち切れない」からのサビの前半を担当している、アメリカのポップスターのような華やかな雰囲気を持っているのは、エビ中の今どき革命ガール、星名美怜さん。

 「試されたい」からのサビの後半を担当し、圧倒的な歌唱力を披露しているのは、エビ中のいつも笑顔なおもちゃ箱、柏木ひなたさん。

 これを書きながら、ちょっと泣けてくるぐらいエビ中が好きなんですけど、このカバーがきっかけになって、もっと多くの人にエビ中が届くといいなぁ。

 本当に、地道に努力を重ねて、現在の歌唱力とパフォーマンス力を手にしたメンバーたちなので。

 




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