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欅坂46「二人セゾン」歌詞考察 -セゾンが描き出すものは何か?-


目次
イントロダクション
タイトルの意味
登場人物と時間設定
語りの視点
話者の切り替え
「君はセゾン」の意味
結論・なぜ「セゾン」を使ったか?

イントロダクション

 「二人セゾン」は、2016年11月30日に発売された欅坂46の3枚目のシングル表題曲。作詞は秋元康。アルバム『真っ白なものは汚したくなる』にも収録されています。

 語感は良いけど、タイトルを聞いただけでは具体的なイメージがつかみにくいこの曲。実際に楽曲を聴いてみると、想像力をかきたてる優れた歌詞でしたので、この曲の歌詞を分析・考察したいと思います。

タイトルの意味

 タイトルになっている「二人セゾン」という言葉は、歌詞にも何回も出てきます。セゾン (saison)は、「季節」を意味するフランス語で、英語でいうseason (シーズン)にあたる言葉。洋菓子で「タルト・セゾン」といえば、「季節のタルト」という意味です。

 あえてタイトルを日本語にするなら「二人の季節」といったところでしょう。では、どうして意味の通じやすい「二人の季節」や「二人シーズン」ではなく、「二人セゾン」というタイトルを採用したのでしょうか。

 そのあたりを手掛かりに、この曲を読み解いていきたいと思います。

登場人物と時間設定

 まず、歌詞の登場人物と、時間設定を確認しましょう。

 歌詞に出てくるのは「君」と「僕」の2人。「僕」が「君」と出会い、それがきっかけで、変わっていく心情が歌われています。

 では、歌詞の時間設定についてはどうでしょうか。この曲はサビから始まりますが、最初の連で時間設定を確認できる言葉が早速出てきます。

二人セゾン
二人セゾン
春夏(はるなつ)で恋をして
二人セゾン
二人セゾン
秋冬(あきふゆ)で去って行く

 こちらの引用部からは、この曲が現在から過去を振り返っている、ということが想定されます。すなわち、今現在は、二人が出会い、そして別れた後だということです。

 また、曲のタイトルであり、引用部でも何度も繰り返される「二人セゾン」という言葉が、春や秋のような具体的な季節ではなく、二人が一緒にいた期間のことをあらわしている、ということも読み取れると思います。

語りの視点

 では、次に語りの視点を確認しましょう。語り手は基本的には「僕」です。「僕」の視点から、「君」のことを語るというのが基本構造ですが、いくつか巧妙な仕掛けも存在します。

 その仕掛けについては後ほど取り上げることにして、まずは歌詞の流れに沿って、解釈をしていきたいと思います。

道端咲いてる雑草にも
名前があるなんて忘れてた

 引用したのは、Aメロの歌い出し部分です。「僕」の変化がこの歌詞のテーマと言えるのですが、こちらの引用部からわかるのは、「君」と出会う前の「僕」は、雑草のことなど気にもとめないぐらい、感受性を失っている状態だということ。

 しかし、そんな「僕」が「君」と出会うことによって、徐々にいきいきとした感受性を取り戻していくのが、歌詞の流れです。Aメロ2連目の歌詞を引用します。

誰かと話すのが面倒で
目を伏せて聴こえない振りしてた
君は突然
僕のイアホン外した

 こちらの引用部でも、最初の2行は「僕」が心を閉ざしている、あまり精神状態が良くないということが強調されます。そして、続く2行では「君」と「僕」の出会いの瞬間が描写されています。

話者の切り替え

 さて、ここで前述した歌詞の仕掛けが出てきます。先ほど引用したAメロまでは、常に「僕」の視点から語られていました。しかし、これ以降は「君」の視点も導入されます。その切り替えのスイッチとなるのが、先ほど引用したAメロに続く歌詞です。以下に引用します。

What did you say now?

 突如として、英語のフレーズが挟まれます。このフレーズは、AメロとBメロの間のブリッジ部というべき場所に入っているのですが、どういう効果を狙ったものなのか、考察したいと思います。

 この英語のフレーズを境に、その後に続くBメロの4行は「君」の視点からと思われる言葉になっています。それでは、この英語のフレーズは誰の言葉でしょうか。

 おそらく、このフレーズの発言者は「僕」です。しかし、語りの質が異なっていて、それまでは自分の感情を心の中で語っていましたが、この部分は実際に「君」に向かって声に出した内容ではないかと思います。

 イヤホンを外されて戸惑った「僕」が、「君」の発言内容を確認して思わず口にしたのが、この英語のフレーズの部分です。もちろん、実際には日本語で「今、なんて言ったの?」と聞いたのでしょう。

 しかし、他の部分との差異を際立たせるため、また話者を切り替えるスイッチの役目を与えるために、わざわざ英語にしてリスナーの注意を引きつけようとしたのではないか、というのが僕の仮説です。

 その後に続く「太陽が戻ってくるまでに」から始まるBメロの4行は、「君」が「僕」に対して言った言葉だと考えられます。「今、なんて言ったの?」と聞く「僕」に対して、「君」が言葉を返した、ということです。

 そして、曲はサビへと至ります。

「君はセゾン」の意味

 
 冒頭のサビでは「二人セゾン」という言葉が繰り返し出てきましたが、今度は「君はセゾン」という言葉に置き換えられています。これはどういった意味でしょうか。

 Aメロの歌詞で明らかになったのは、どうやら「僕」が心を閉ざしがちで、感受性も乏しくなっているということです。そのため、道端の雑草を思うことも、そうしたちょっとした自然から季節を感じることもできません。

 しかし「君」と出会ったことで、「僕」は季節を感じる心を手にします。2番以降の歌詞では、徐々に「僕」が変わっていった様子が描写されていきます。

 「君」と出会うまでは、季節を感じることができなかった「僕」。でも「君」との出会いがきっかけとなって、季節を感じられる心を得ます。そのため、季節を与えてくれた「君」のことを、セゾンと表現しているのではないかと思います。

 言い換えれば「君」に出会うまでは、「僕」には季節は存在していなかったということです。この曲の最後の部分は「僕もセゾン」という言葉で結ばれています。これは「僕」も、季節を感じる繊細な感受性を持てるようになった、ということではないでしょうか。

結論・なぜ「セゾン」を使ったか?

 最後に、なぜこの曲は「季節」や「シーズン」ではなく、わざわざフランス語の「セゾン」という言葉を使用したのか、その理由を考察したいと思います。

 単純に語感がいい、英語よりも少し距離感のあるフランス語はロマンティックに響く、ということもあろうかと思います。仮に「二人の季節」、「二人シーズン」などというタイトルだったら、ここまで想像力をかきたてる楽曲にはならなかったのではないかと思います。

 また「セゾン」という言葉は、セゾングループを連想させます。欅坂46には「渋谷からPARCOが消えた日」という楽曲もありますが、セゾングループとはパルコ等を展開した企業グループです。

 セゾンという言葉は、パルコをはじめとした都市文化を象徴しており、「二人セゾン」は都市の中での孤独や、感受性の欠如を歌った曲なのではないか、とも思います。

 この曲のなかの「僕」は、「誰かと話すのが面倒で」「見えないバリア張った別世界」という歌詞からも示唆されるように、人間関係に疲れているようにも思えます。

 また「僕」は「君」との出会いによって、季節を感じるようになるのですが、この曲で描写されるのは「道端咲いてる雑草」「街を吹き抜ける風の中」など、あくまで都市の景観です。

 かつては人間関係に疲れ、雑草や吹き抜ける風に何も感じることのなかった「僕」が、「君」と出会うことによって、雑草や風の変化にも敏感になり、「花のない桜を見上げて 満開の日を」想うようになります。

 つまりこの曲は、都市生活のなかで季節を失った「僕」が、季節を取り戻す歌だということです。そして、季節を失った原因は人間関係にあるのですが、季節を取り戻してくれるのもまた人間です。

 以上のように「二人セゾン」という曲は、都市文化のなか、特に人間関係における憂鬱と希望をともに描いている1曲と言えるのではないでしょうか。

 ちょっと真面目に語ってきましたけど、この曲とにかく大好きです!

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Base Ball Bear「CRAZY FOR YOUの季節」とはどんな季節か?


目次
イントロダクション
独創的な比喩表現
歌詞のなかの人間関係
「CRAZY FOR YOUの季節」とはどんな季節か?

イントロダクション

 「CRAZY FOR YOUの季節」は、Base Ball Bearの楽曲。作詞作曲は小出祐介。2006年11月29日発売のメジャー1枚目のアルバム『C』に収録。

 「Introducing Album」(イントロデューシング・アルバム)として、2006年1月12日に発売された『バンドBについて』にも、別バージョンが収録されています。

 この時期のBase Ball Bearは、バンドがまるで歯車のぴったり合った機械のように、有機的かつパワフルにグルーヴしているのが好きです。

 さらに、この曲に関して言えば、バンドの疾走感と共に、歌詞も目眩がするぐらいにイメージが次々と飛び込んできます。音にも言葉にもフックが無数にある、息もつかせぬ1曲です。

 疾走感あふれるバンドのアンサンブルと、独創的なイマジナティヴな言葉が次々に押し寄せる歌詞の世界観。その情報量の多さに圧倒されてしまいますが、彼らの音楽は聴きこめば聴きこむほど、読み込めば読み込むほどに、魅力がにじみ出てきます。

 特に「CRAZY FOR YOUの季節」は、言葉の使い方が独創的です。今回は、この曲の歌詞について分析、考察してみます。

 そして、最終的には「CRAZY FOR YOUの季節」というのが、どんな季節なのか、僕なりの解釈を示したいと思います。

独創的な比喩表現

 曲を再生すると、イントロから疾走感あふれる演奏が繰り広げられます。リズム・セクションと2本のギターが、ひとつの塊のように迫ってくるイントロから、徐々に各楽器が分かれて、曲が加速していく展開。

 そんなスピード感あふれるバンドのアンサンブルに乗って歌われる歌詞も、イマジネーションを喚起させる言葉を、次々と聴き手に投げてきます。

海みたいな彼女が笑った

 引用したのは、歌い出し部分の歌詞です。この曲の歌詞は、語り手が「彼女」との関係および自分の感情を、語っているのだと推測されます。「海みたいな彼女」と、スタートから早速「彼女」が出てきます。

 ここでは「海みたいな」という比喩表現が使われていますが、これはどういう意味でしょうか。「海」という単語から広がる連想は、それこそ無数にありそうですが、思いつくままに書き出してみても「とてつもなく大きい」「真っ青な美しい海」「溺れてしまいそうで怖い」など、様々なイメージに繋がります。

 「海みたいな彼女」というのは、上記のように多層的な意味を含んだ表現で、リスナーそれぞれに違ったイメージを引き起こすのではないでしょうか。

 しかし、共通するイメージもあり「理解できないほど大きい」「美しいけど怖い」など、海という言葉そのものが持つ広さと比例して、「海みたいな彼女」という表現も、リスナーに多種多様な意味を伴って迫ってきます。

一口齧った檸檬が成る街で

 上記に引用したのは、歌い出しに続く歌詞です。こちらも聴き手の注意をひきつける、聴き慣れない言い回しが使われています。

 「かじった」を「齧った」、「レモン」を「檸檬」と、漢字を多用しているところも気になりますが、ここでは引用部全体でなにを表しているのかを、検討したいと思います。

 レモンをかじると、当然のことながら強い酸味を味わうことになります。そんな「一口齧った檸檬が成る街」というのは、顔をしかめるほどの酸味を伴った、しかも既にかじってしまったので、後戻りすることはできない、ということを意味しているのではないかと思います。

 歌詞には具体的に記述されていませんが、失恋の酸っぱさと、すでに結果が出てしまったことの不可逆性、そのようなメッセージがこの歌詞にはこめられているのではないでしょうか。もちろん作詞した小出さんの本意がどうであるのかは分かりません。

 しかし、このような解釈の楽しみをリスナーに与えてくれるところも、この曲の魅力のひとつであるのは、事実だと思います。

歌詞のなかの人間関係

 では、次に歌詞のなかの人物たちの、人間関係を整理したいと思います。前述したとおり、まず語り手と「彼女」が存在します。

眠りの森 あの2人抜け出して 空中都市へ逃れ消えていった

 引用したのは2連目の歌詞の1行目。ここで「あの2人」と出てきます。「あの」という表現から、この「2人」には語り手が含まれていないことが示唆されます。さらに「眠りの森」「空中都市」という非日常的な表現が使用されています。

 この引用部から想像できるのは、語り手が思いを寄せていた「彼女」は、他の誰かのところに行ってしまった、ということ。語り手と「彼女」がクラスメイトなのか、どういう距離感の知り合いなのか、詳細は明言されません。

 しかし、クラスメイトだったと仮定して、「彼女」が遠くに引っ越すなど、物理的に遠くに行ってしまった、という意味ではないはずです。「空中都市」というのは、物理的な距離ではなく、精神的な距離、つまり語り手の「彼女」への思いは、もう叶わないことが確定してしまった、ということを表しているのではないかと思います。

 そのように語り手と「彼女」の関係性を仮定すると、その後の歌詞に出てくる「口笛は重く響く」「クリティカルな感傷」といった表現も、よりリアリティをともなって響くのではないでしょうか。

「CRAZY FOR YOUの季節」とはどんな季節か?

 それでは、一気にサビの歌詞まで移動したいと思います。タイトルの「CRAZY FOR YOUの季節」という表現は、サビの歌い出しの歌詞にもなっています。ここでは、この曲の最後のサビ部分を引用します。

CRAZY FOR YOUの季節が ざわめく潮騒の様で
氷漬けの気持ちを溶かして 海みたいに彼女が笑った

 引用部2行目には、歌い出し部分の歌詞にもあった「海みたい」という表現が繰り返されています。こちらの引用部は、語り手が「彼女」をあきらめようと気持ちを「氷漬け」にしていたのに、「彼女」が笑ったことで、かつての感情がよみがえってきてしまった、ということでしょう。

 英語で「crazy for」というと、何かが欲しくてたまらない、好きで好きでたまらない、という意味。これまでにも多くの歌で使われてきた表現でしょうが、「crazy for you」というのは、あなたが好きで好きでしょうがない、という意味です。

 そんなクリシェ化した表現に「季節」という言葉を組み合わせ、季節の移り変わり、2人の関係性の移り変わり、自分の感情の移り変わり及びざわめき、を並行させながら鮮やかに語っていく「CRAZY FOR YOUの季節」の歌詞は、間違いなく優れた歌詞であると言えます。

 具体的な「2月」や「春」といった季節ではなく、感情のざわめきを前景化するために、「CRAZY FOR YOUの季節」としたのでしょう。

 語り手の心がざわめき、揺れる季節が「CRAZY FOR YOUの季節」です。この曲は、青春時代のその季節にしかありえない感情を、見事に描き出した曲であると思います。

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サンボマスター「ラブソング」は最高のラブソング


目次
イントロダクション
ラブソングとは何か?
「僕」の心情
歌詞の文学性
「ラブソング」は最高のラブソング

イントロダクション

 「ラブソング」は、2009年11月18日に発売されたサンボマスター13枚目のシングル。2010年発売の5thアルバム『きみのためにつよくなりたい』にも収録されています。作詞作曲は山口隆。

 「ラブソング」というストレートとしか言えないタイトル。その名のとおり愛に溢れた曲です。愛をテーマにした歌という意味では、この曲は間違いなくラブソングと言えます。でも、一般的なラブソングの構造とは、少し変わった歌でもあると思います。

ラブソングとは何か?

 まずラブソングの定義とはなんでしょうか? 定義と言うと、堅苦しい感じになってしまいますが、基本的には「恋や愛をテーマにした歌」ということでしょう。

 特に、家族愛や友人間の愛情ではなく、恋愛関係のことを歌っている、というのもラブソングの特徴と言っていいと思います。

 では、サンボマスターの「ラブソング」は、どのような内容を歌っているでしょうか。歌詞に出てくるのは「僕」と「君」の二人。「僕」が「君」に対しての思いを語る、というのがこの曲の基本構造です。

 しかし、歌詞を聴いているとすぐに気がつくのは、「僕」が「君」とは会えない状況にあるということ。しかも、もう二度と会うことができないという事実が、歌詞のいたるところで示唆されています。例えば、2連目の歌詞。

神様って人が君を連れ去って 二度とは逢えないと僕に言う

 こちらの引用部からは、端的に「君」がもう会えない存在になってしまったことが、想像できます。

 「ラブソング」は、確かに君と僕との関係を歌ったラブソングではあるのですが、恋の成就を願う歌でも、恋が叶うか叶わないかというドラマ性を扱った歌でもありません。

 進展を願うのではなく、ただ「僕」が「君」に対しての思いを歌う曲です。

「僕」の心情

 それでは、「僕」はどのような心情なのでしょうか。サビの部分の1行目の歌詞を引用します。

あいたくて あいたくて どんな君でも

 こちらの引用部からは、「僕」が君に会いたいという気持ちが分かります。同時に「どんな君」にも、今は会うことができない、ということが示唆され、「君」の不在が強調される側面もあると思います。

 また、歌詞では「会いたい」や「逢いたい」という具体的な漢字を充てず、「あいたくて」とひらがな表記になっています。

 「逢いたい」と漢字を使用すると具体的なシチュエーションを帯びるため、あえてひらがなを使用することで、「君」に会えないという事実と、「僕」が持つ強い思いが、より伝わるのではないかと思います。これは考えすぎかもしれませんが。

 サビが終わり、2番のAメロは次の言葉で始まります。

僕はカラッポになってしまって ぬけがらみたいになったよ

 こちらの引用部では、「僕」の心情がはっきりと表明されています。すなわち、「君」の不在が原因となって、「ぬけがらみたいに」なってしまった、そういう状態だということです。

 では、「僕」はカラッポのまま、「君」への思いを吐露するだけでこの曲が終わっているかというと、そうではありません。この曲のラストの歌詞が、次の言葉です。

君と過ごした日々を忘れることなんてできずに
そいつが僕のカラッポを埋めてくんだよ

 この引用部で「僕」は、「君」の不在でカラッポになった部分は、「君と過ごした日々」によって埋めていく、と言っています。

 言い換えれば、「君」との日々を忘れたいのでも、忘れるのを待つのでもなく、「君」との思い出でカラッポを埋めていくということ。「僕」のこうしたスタンスは、非常に強く、愛に溢れたものだと、言えるのではないでしょうか。

歌詞の文学性

 歌詞の内容をまとめると、「君」の不在によってカラッポになった「僕」が、そのカラッポを埋めるべく「君」との思い出、「君」への思いを歌っている、ということではないかと思います。

 「ラブソング」という直球のタイトルと比例して、歌詞もダイレクトに人の心に刺さるキラーフレーズとも言うべき言葉で構成されるこの曲。しかし同時に、奥行きがあって深いな、と思う表現もあります。

 ひとつ挙げると、先ほども引用した、1番にも2番にも共通で出てくる次の表現です。

神様って人が君を連れ去って 二度とは逢えないと僕に言う

 こちらの引用部では、まず「神様」を「人」だと言い直しているところが、耳に引っかかります。「神様」という神聖であり非日常的な存在と、「人」という日常的な存在。

 日常性と非日常性が交錯するような感覚が、この言い回しにはあると思います。「君」という身近で日常的な存在に、もう二度と逢えないという非日常性。そんな「僕」の混乱した心が、この一節には込められているように感じます。

 また、先ほどサビの歌詞では「あいたくて」とひらがな表記になっている点を指摘しましたが、この引用部では「逢えない」という漢字表記になっています。

 「逢う」という漢字表記は、時として親しい人に会うことを意味することがありますから、この部分で「逢えない」と表記したのは、やはり「君」の不在をより強く感じさせることになっているんじゃないかと思います。

「ラブソング」は最高のラブソング

 前述したように、この曲は「僕」が「君」への思いを語る、という意味ではラブソングだと呼べるものの、恋の進展やストーリーを持った曲ではありません。

 しかし、見返りや進展を求めるのではなく、ただ純粋に君への思いを歌い続けるところが、何にも増してラブソングらしい曲であると思います。

 サンボマスターといえば、まず思い浮かぶのは、爆発的とさえ言えるエモーション溢れるライブ・パフォーマンス。楽曲も、ライブの熱量をそのままパッケージしたような、熱くエモーショナルでラウドなものが多いですが、少なくとも「ラブソング」は音量的にはラウドな曲ではありません。

 しかしこの曲も、大切な人への思いという点で、非常に多くのエモーションが込められた熱い1曲です。エモーション爆発のサンボマスターとは違ったかたちで、感情を音楽に表出させている曲とも言えます。

 ここまで書いてきといてなんですが、あんまり言葉で語るべきではない、とにかく美しい曲です。サンボマスターの詩的で優しい部分が全面に出た、暖かく、優しい1曲。ぜひ、聴いてみてください!

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エレファントカシマシ「おはよう こんにちは」は挨拶の言葉を異化している


 「おはよう こんにちは」は、1988年11月2日に発売されたエレファントカシマシ3枚目のシングル。作詞作曲は宮本浩次。

 同年11月21日発売の2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』にも収録されています。

 エレファントカシマシには好きな曲がいっぱいあるんですけど、この曲も大好きな1曲です。「おはよう こんにちは」という日常的な挨拶の言葉がタイトルになったこの曲。この曲の好きなところを一言であらわすなら、とにかくエモーショナルなところ。

 歌詞もタイトルと同じく「おはよう こんにちは」という歌う出しで始まるのですが、そのときの宮本さんの歌唱が、日常的なフレーズとは裏腹に、あり得ないほどエモーショナルなのです。聴いていて、ちょっと怖くなるほど。こんなに激しくエモーションをこめた「おはよう」も「こんにちは」も、この曲以外では聞いたことがありません。

 バンドのアレンジもテンポは抑え目ながら、タメをしっかり作ったグルーヴ感のあるロックで、非常にかっこいい1曲です。「おはよう こんにちは」というタイトルなら、弾き語りのメローな曲を想像する人の方が多いのではないかと思いますが、この曲はラウドでロックな曲なんです。

 歌詞がメロディーに乗って歌われることにより、言葉が持つ意味以上のものが伝わる、伝わってくるように思える、というところがポップ・ミュージックの魅力のひとつだと思いますが、この曲はまさに言葉以上のメッセージとエモーションが伝わってきます。では、これから歌詞の意味とボーカルの歌唱の2点を中心に、この曲の好きな部分をご紹介したいと思います。

ボーカリゼーションの特徴

 かっこつけて「ボーカリゼーション」と書きましたが、「ボーカルの歌い方」程度の意味だとご理解ください。前述したように、この曲はバンドの演奏とサウンドも、ミドル・テンポのロックです。音量もラウドで、イントロからロックバンドかくあるべし!という演奏が展開されます。

 イントロから、ギターとドラムはタメを作って、ゆったりと演奏しています。元々のテンポが遅めなのに加えて、さらに音が遅れて出てくるような、糸を引くようなへヴィーなアンサンブルです。ベースは、ギターとドラムのタメを補強するように、リズムをキープしていきます。

 イントロに続いて、ボーカルが入ってくるわけですが、バンドの演奏から遅れてズレそうなぐらいに、大きくタメを作って、歌っていくんです。「言葉じり合わせ」という部分は、バンドの演奏と交錯するような、時間差で波が打ち寄せるような感覚に陥ります。こういったタイム感は、宮本さんの特徴であり魅力であると思うのですが、この曲ではそのようなタイム感が全面に出てきています。

 絶妙なタイム感と共に、声自体もエモーションを絞り出すような、圧倒的な存在感を持っています。タイム感と唯一無二の声。このふたつが合わさり、「おはよう こんにちは」というなにげない言葉が、とてつもない説得力を持って響きます。この時点では「おはよう こんにちは」と言っているだけで、表層的には特に意味があることを言っているわけではないのに、です。

歌詞の内容

 では、次に歌詞の内容を検討してみましょう。まず、歌い出し部分の歌詞を、下記に引用します。

おはよう こんにちは さようなら
言葉じり合わせ 日がくれた

 先ほども触れたとおり、1行目はタイトルと同じく挨拶の言葉が並びます。しかし、2行目の歌詞の内容によって、それらの挨拶の言葉も全く違って聞こえてくるのではないかと思います。

 2行目の「言葉じり合わせ」というのは、人に合わせて当たり障りのない言葉を使う、というような意味でしょうか。

 そして、それに続く「日がくれた」という言葉は、気を使って当たり障りのない言葉を言っているうちに、1日が終わってしまった、ということを歌っているのではないかと思います。

 ここで重要なのは、2行目の歌詞によって、挨拶の言葉を並べた1行目の歌詞が、全く違った意味を帯びて響くということです。

 日常的な「おはよう」や「こんにちは」といった言葉が異化され、非日常的なまでの感情をともなった言葉のように響く、と言ってもいいでしょう。

 「おはよう」や「こんにちは」という言葉は、ある面では形骸化していて、ほとんど具体的な意味を持っていません。この曲は、そのような形骸化した言葉を日々使わなければいけないことへの、苛立ちのようにも響きます。

 同時に、もっと生き生きとした言葉を使いたい、との情熱も内包いるのではないかとも思います。

 さらに歌詞は以下のように進行します。歌い出しの2行に続く歌詞を引用します。

頭かかえて そこらの芝生に寝ころんで
空 見上げて 何もかもが同じ

 この引用部でも、日常的としか言えない日常に対して、苛立ちとも怒りとも呼べない感情が渦巻いていることを、歌っているのではないでしょうか。

言葉が歌になったときの魅力

 歌詞の内容を見てきましたが、この曲の歌詞はエレファントカシマシの演奏と歌によって増幅され、音楽の一部になることで完成されるものだと思います。歌い出しの「おはよう」から、とても日常的な挨拶の「おはよう」とは思えない熱情が込められています。

 いろいろと書いてきましたが、意味に多様性があり、言葉以上に解釈の余地が大きいところが、音楽の魅力だと思っています。

 僕はこの曲に、鬱屈した感情が爆発するようなパワーを感じ、1日の始まりに聴きたい1曲になっています。エレカシはこの曲で、形骸化した「おはよう」(のような言葉)に異を唱え、ここまで力強くエモーショナルな「おはよう」を歌っているのではないか、というのが僕の考えです。

 少ない言葉で最大限の感情を伝える、エレカシの魅力が凝縮された1曲なので、ぜひ聴いてみてください。

 





エレファントカシマシ「月と歩いた」が描くのは東京の夜の散歩


 「月と歩いた」は、エレファントカシマシの楽曲。作詞作曲は宮本浩次。1989年発売の3rdアルバム『浮世の夢』に収録。

 2009年発売のベストアルバム『エレカシ 自選作品集 EPIC 創世記』にも収録されています。

 「月と歩いた」は、東京の夜の散歩を歌った曲です…と書くと、夜の散歩は歌のテーマとして一般的であるし、何も変わったことなんてないじゃないか、と思われるかもしれません。

 しかし、この曲の特異なところは、「東京の」夜の散歩を歌っているところ。それではなぜ、この曲が特異なのか、これからご説明させていただきます。

楽曲の構造

 この曲の構造は、一般的なヴァースとコーラスが循環する進行、言葉を変えればAメロからBメロを経てクライマックスのサビに至る、といった進行感とは少し異なっています。下記のように、間に挟まるブリッジ以外は、同じメロディーが繰り返されます。

コーラス→ブリッジ→コーラス

 イントロはアコースティック・ギターのみの弾き語りのようなアレンジで、再生時間1:27あたりからのブリッジ部分に入ると、ラウドな音量のフル・バンドでの演奏に切り替わります。同時に、この部分では歌詞の内容も一変し、音量の上でも歌詞の上でも鮮烈なコントラストをなしています。では、どのように1曲のなかで歌詞がコントラストをなしているのか、順番に見てみましょう。

前半部分の歌詞

 まず、歌い出しの2行では、以下のように歌われています。

月と歩いた 月と歩いた
寒い夜ありがたい散歩の道づれに

 月が出た夜道を歩いているときの心情が、アコースティック・ギターをバックに繊細に歌われています。ひとりで散歩する様子を「月と歩いた」というロマンチックとも言える言葉で表している点など、この引用部は夜の散歩を歌った曲らしい一節です。さらに、この後の2行には、夜道の描写が続きます。

道が真ん中 そのまにまに
小さくなって家が建ってる

 こちらの引用部では、道路に沿って両側に家が建っている様子を描写しているのでしょう。「道が真ん中」と道を主語にして、道路を中心にして語っています。この部分からは、語り手の実際の立ち位置と価値観が垣間見えて、優れた表現であると思います。

 おそらく、語り手は道の真ん中を歩いているか、あるいは道を眺めているということ。そして家が小さいというのは、小さく窮屈そうに家が建っている、あるいは道よりも存在感が小さい、ということを歌っているのではないかと思います。このように前半のコーラス部分では、月が出た夜道を散歩する様子が、情緒的に描かれています。

ブリッジ部の歌詞

 では、ブリッジ部分では何が歌われているのでしょうか。前述したように、演奏の面でもブリッジ前まではアコースティック・ギター1本による弾き語りのようなアレンジ、ブリッジ部からはフル・バンドによるロックロール然としたアレンジとなり、音量と雰囲気が一変します。以下はブリッジ部分の歌詞の引用です。

ブーブーブードライブ楽しブーブーブ
なめたようなアスファルトの道を

 引用部では、車が走る様子が歌われています。「ブーブー」と擬音語が使用され、ボーカルの歌い方もそれまでとは一変し、荒々しくパワフルな歌い方へ。直前まで、ひとり静かに夜道を散歩していた語り手。その語り手に車が走り寄り、ひかれそうになるぐらいの距離まで接近する、その一連の様子と車の発する音が、ブリッジ部では表されているのでしょう。

 ブリッジ部分の歌詞の主語は確定しにくいですが、それまでと変わらぬ語り手だとしたら、心をかき乱された描写だと言えるし、あるいは車を擬人化して主語にしているようにも感じられます。

対比的なコーラスとブリッジ

 ブリッジ部が終わると、再び静かなコーラス部が戻ってきます。その歌い出しの歌詞を、下記に引用します。

少し静かにしてくれないか
言うか言わぬか車をよけた

 こちらの引用部から、語り手に車が接近していたことが確認できます。さらに、この曲の最後の行にあたる歌詞で、語り手は「ついてくる月がついてくる」と言葉を結んでいます。

 ここまで見てきたように「月と歩いた」は、静かに夜道を散歩するコーラス→車が接近してきて騒がしいブリッジ→車が走り去りまた静かなコーラス、と展開していきます。静かな夜道を散歩している風景や、そのときの心情を情緒的に歌うだけではなく、車が接近する様子まで描写しているのが、この曲のめずらしい部分です。

 しかも、語り手は車の接近に気を取られつつも、車が去った後は「月がついてくる」と言い、車が接近する前の落ち着いた気持ちを失っていません。

 この曲ではブリッジにおいて、弾き語りからフル・バンドへの移行が、アレンジと音量の面でコントラストとなり、曲のダイナミズムを広げています。しかし、そのコントラストは音楽面だけに留まらず、歌詞の面でも車の接近を挟むことで、東京のような都市において、月に思いをよせる感受性を際立たせているのではないかと思います。

 「東京には空がない」というクリシェがありますが、「月と歩いた」の語り手は車の騒音のなかでも、月と一緒に歩く感受性を失ってはいません。

 最初にこの曲は「東京の夜の散歩を歌った曲」だと書きましたが、重要なのは東京かどうかというより、繊細な感受性を持ち続けられるかどうか、ということです。

 単純に夜道の散歩を情緒的に歌うだけではなく、車の騒音というリアリティを含めることで、「月と歩いた」は人の感受性をより深く描写した1曲と言えるのではないでしょうか。