Mogwai『Happy Songs For Happy People』/ モグワイ『ハッピー・ソングス・フォー・ハッピー・ピープル』


モグワイ 『ハッピー・ソングス・フォー・ハッピー・ピープル』
Mogwai – Happy Songs For Happy People

発売: 2003年6月17日
レーベル: [PIAS] Recordings, Matador

 スコットランドのポストロックバンド、モグワイの4thアルバムです。

 1stアルバムで鮮烈なデビューを果たしたバンドが、そのあと実験と試行錯誤を重ねて音楽性を広げ、スケールアップして自分たちの原点に戻ってくる…僕はそういうタイミングのアルバムが好きなんですが、モグワイの『Happy Songs For Happy People』は、まさにそういう位置の作品です。

 轟音ギターと静寂のアンサンブル、静と動のコントラストが鮮やかな1st『Mogwai Young Team』、ギター中心のアンサンブルをさらに磨き上げた2nd『Come On Die Young』、ストリングスやホーンを導入し音楽性を野心的に広げた前作『Rock Action』。そして、4作目が今作『Happy Songs For Happy People』です。

 今作では、これまでの3作で培ってきた音楽的アイデアとアンサンブルをもとに、静と動のコントラストを演出する彼ら得意のギター・ミュージック色が戻り、バランスの良い仕上がりになっています。また、ヴォコーダーを導入しているのも、今作の注目点のひとつ。

 今までにも、ボーカルを入れた曲がたびたびあったモグワイ。今作では1曲目や4曲目などでヴォコーダーを使用し、声を完全にバンドのサウンドの一部に取り込んでいます。

 伴奏があり、その上にボーカルのメロディーが乗る、という構造ではなく、バンドのアンサンブルを追求するモグワイの態度が垣間見えるアプローチだと言えます。

 1曲目の「Hunted By A Freak」は、静と動というほどコントラストを強調した曲ではないものの、ゆったりとしたテンポから、徐々にアンサンブルが熱を上げていく展開は、これぞモグワイ!という1曲。これまでのモグワイの音楽性の総決算のようでもあり、アルバムのスタートにふさわしい曲と言えます。

 2曲目は「Moses? I Amn’t」という示唆的というべきか、不思議なタイトル。ギター・オリエンテッドなアンサンブルよりも、サウンドを前景化させた、アンビエントな1曲。

 3曲目「Kids Will Be Skeletons」は、ギターを中心にしながら、全ての楽器が緩やかに絡み合いグルーヴしていく、モグワイらしい1曲。

 4曲「Killing All The Flies」は、音数を絞ったイントロから、轟音へと至るコントラストが鮮烈。この曲でもヴォコーダーを使用。

 5曲目の「Boring Machines Disturbs Sleep」は、アンビエントで音響的な1曲。ボーカル入りですが、メロディーが前景化されるというより、むしろメロディーはバックのサウンドに溶け合い、言葉がサウンドの中で浮かび上がっているようなバランス。ここまで、収録楽曲のバランス、流れも良いと思います。

 6曲目の「Ratts Of The Capital」は、8分以上に渡ってバンドの緻密なアンサンブルが続く1曲。ヴァース→コーラスという明確な形式を持っているわけではありませんが、次々に展開があり、聴いていて次に何が起こるのかとワクワクします。

 8曲目は「I Know You Are But What Am I?」。イントロから、ピアノが時に不協和音も使いながらシンプルな旋律を弾き、奥から微かな電子音が聞こえてくる前半。

 そこから、徐々に音が増えていき、音楽がはっきりとしたポップ・ミュージック的なフォームを形成するか、しないか、と緊張感のある後半へ。わかりやすく展開があるわけではありませんが、音数を絞ることでスリルが生まれ、ずっと聴いていたくなるから不思議。

 ラスト9曲目の「Stop Coming To My House」は、唸るような轟音ギターが渦巻き、中盤からは音が洪水のように押し寄せる1曲。この曲もモグワイ節が炸裂しています。

 気になる曲の気になるポイントだけに触れるつもりが、7曲目の「Golden Porsche」以外すべての曲に触れてしまいました。

 前述したように、ここまで3作で音楽性とアンサンブルの幅を確実に広げてきたモグワイが、これまでの中間総決算という感じで仕上げた4作目が今作『Happy Songs For Happy People』。

 アルバム全体を通しての流れ、サウンド・プロダクション、バンドのアンサンブル、と全てのバランスが良く、おすすめできる1枚です。

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サンボマスター「ラブソング」は最高のラブソング


目次
イントロダクション
ラブソングとは何か?
「僕」の心情
歌詞の文学性
「ラブソング」は最高のラブソング

イントロダクション

 「ラブソング」は、2009年11月18日に発売されたサンボマスター13枚目のシングル。2010年発売の5thアルバム『きみのためにつよくなりたい』にも収録されています。作詞作曲は山口隆。

 「ラブソング」というストレートとしか言えないタイトル。その名のとおり愛に溢れた曲です。愛をテーマにした歌という意味では、この曲は間違いなくラブソングと言えます。でも、一般的なラブソングの構造とは、少し変わった歌でもあると思います。

ラブソングとは何か?

 まずラブソングの定義とはなんでしょうか? 定義と言うと、堅苦しい感じになってしまいますが、基本的には「恋や愛をテーマにした歌」ということでしょう。

 特に、家族愛や友人間の愛情ではなく、恋愛関係のことを歌っている、というのもラブソングの特徴と言っていいと思います。

 では、サンボマスターの「ラブソング」は、どのような内容を歌っているでしょうか。歌詞に出てくるのは「僕」と「君」の二人。「僕」が「君」に対しての思いを語る、というのがこの曲の基本構造です。

 しかし、歌詞を聴いているとすぐに気がつくのは、「僕」が「君」とは会えない状況にあるということ。しかも、もう二度と会うことができないという事実が、歌詞のいたるところで示唆されています。例えば、2連目の歌詞。

神様って人が君を連れ去って 二度とは逢えないと僕に言う

 こちらの引用部からは、端的に「君」がもう会えない存在になってしまったことが、想像できます。

 「ラブソング」は、確かに君と僕との関係を歌ったラブソングではあるのですが、恋の成就を願う歌でも、恋が叶うか叶わないかというドラマ性を扱った歌でもありません。

 進展を願うのではなく、ただ「僕」が「君」に対しての思いを歌う曲です。

「僕」の心情

 それでは、「僕」はどのような心情なのでしょうか。サビの部分の1行目の歌詞を引用します。

あいたくて あいたくて どんな君でも

 こちらの引用部からは、「僕」が君に会いたいという気持ちが分かります。同時に「どんな君」にも、今は会うことができない、ということが示唆され、「君」の不在が強調される側面もあると思います。

 また、歌詞では「会いたい」や「逢いたい」という具体的な漢字を充てず、「あいたくて」とひらがな表記になっています。

 「逢いたい」と漢字を使用すると具体的なシチュエーションを帯びるため、あえてひらがなを使用することで、「君」に会えないという事実と、「僕」が持つ強い思いが、より伝わるのではないかと思います。これは考えすぎかもしれませんが。

 サビが終わり、2番のAメロは次の言葉で始まります。

僕はカラッポになってしまって ぬけがらみたいになったよ

 こちらの引用部では、「僕」の心情がはっきりと表明されています。すなわち、「君」の不在が原因となって、「ぬけがらみたいに」なってしまった、そういう状態だということです。

 では、「僕」はカラッポのまま、「君」への思いを吐露するだけでこの曲が終わっているかというと、そうではありません。この曲のラストの歌詞が、次の言葉です。

君と過ごした日々を忘れることなんてできずに
そいつが僕のカラッポを埋めてくんだよ

 この引用部で「僕」は、「君」の不在でカラッポになった部分は、「君と過ごした日々」によって埋めていく、と言っています。

 言い換えれば、「君」との日々を忘れたいのでも、忘れるのを待つのでもなく、「君」との思い出でカラッポを埋めていくということ。「僕」のこうしたスタンスは、非常に強く、愛に溢れたものだと、言えるのではないでしょうか。

歌詞の文学性

 歌詞の内容をまとめると、「君」の不在によってカラッポになった「僕」が、そのカラッポを埋めるべく「君」との思い出、「君」への思いを歌っている、ということではないかと思います。

 「ラブソング」という直球のタイトルと比例して、歌詞もダイレクトに人の心に刺さるキラーフレーズとも言うべき言葉で構成されるこの曲。しかし同時に、奥行きがあって深いな、と思う表現もあります。

 ひとつ挙げると、先ほども引用した、1番にも2番にも共通で出てくる次の表現です。

神様って人が君を連れ去って 二度とは逢えないと僕に言う

 こちらの引用部では、まず「神様」を「人」だと言い直しているところが、耳に引っかかります。「神様」という神聖であり非日常的な存在と、「人」という日常的な存在。

 日常性と非日常性が交錯するような感覚が、この言い回しにはあると思います。「君」という身近で日常的な存在に、もう二度と逢えないという非日常性。そんな「僕」の混乱した心が、この一節には込められているように感じます。

 また、先ほどサビの歌詞では「あいたくて」とひらがな表記になっている点を指摘しましたが、この引用部では「逢えない」という漢字表記になっています。

 「逢う」という漢字表記は、時として親しい人に会うことを意味することがありますから、この部分で「逢えない」と表記したのは、やはり「君」の不在をより強く感じさせることになっているんじゃないかと思います。

「ラブソング」は最高のラブソング

 前述したように、この曲は「僕」が「君」への思いを語る、という意味ではラブソングだと呼べるものの、恋の進展やストーリーを持った曲ではありません。

 しかし、見返りや進展を求めるのではなく、ただ純粋に君への思いを歌い続けるところが、何にも増してラブソングらしい曲であると思います。

 サンボマスターといえば、まず思い浮かぶのは、爆発的とさえ言えるエモーション溢れるライブ・パフォーマンス。楽曲も、ライブの熱量をそのままパッケージしたような、熱くエモーショナルでラウドなものが多いですが、少なくとも「ラブソング」は音量的にはラウドな曲ではありません。

 しかしこの曲も、大切な人への思いという点で、非常に多くのエモーションが込められた熱い1曲です。エモーション爆発のサンボマスターとは違ったかたちで、感情を音楽に表出させている曲とも言えます。

 ここまで書いてきといてなんですが、あんまり言葉で語るべきではない、とにかく美しい曲です。サンボマスターの詩的で優しい部分が全面に出た、暖かく、優しい1曲。ぜひ、聴いてみてください!

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Sigur Rós ( ) / シガー・ロス 『( )』


シガー・ロス 『( )』
Sigur Rós – ( )

発売: 2002年2月16日
レーベル: Fatcat, Bad Taste

 『( )』は、アイスランド出身のポストロック・バンド、シガー・ロスの2002年発売の3rdアルバム。本国アイスランドのレーベルBad Tasteの他、イギリスのFatcat Recordsなど、複数のレーベルより世界各国で発売された。

 まず気になってしまうのが、アルバムタイトルがカッコのみ。さらに、曲のタイトルも付けられていない点です。偏見なしに、音楽それ自体に集中してほしい、というシガー・ロスからのメッセージということでしょうか。音楽至上主義の彼らにそう言われたなら、即座に納得してしまいます。

 アンビエント色が強く、わかりやすいヴァース‐コーラス形式を伴った楽曲群では無いのに、いや無いからこそかもしれませんが、聴き手の感性が研ぎ澄まされるような美しい音楽で満たされたアルバムです。シガー・ロスの作品でしばしば聴かれる躍動感や、シンフォニックな面は、今作では抑えられていて、代わりにサウンド自体が前景化されている、とでも言ったらいいでしょうか。

 ですが、全くリズムもメロディーも無い、というわけではなくて、バンドの躍動も感じることができる、不思議な作品です。前述したように、タイトルも曲名も無いアルバムですが、風景が眼前に次々にあらわれるかのような、イマジナティヴな音世界が70分詰まっています。

 1曲目は、電子的な漂うような持続音と、音数の絞り込まれたピアノの音が溶け合う、幻想的なサウンドプロダクション。ドラムが入っていないためビート感が希薄で、昔の宗教音楽を思わせる壮大さがあります。ボーカルもバックの音と同化するように長めの音符でメロディーを紡ぎ、霧の中を散歩するような幽玄な雰囲気を持った1曲。

 2曲目は、ノイズ色のある電子音がドローンのような音の壁を表出するなか、ギターとドラムがリズムを刻むことで、徐々に音楽が姿をあらわす1曲。音楽になる前の素材としての音が、有機的に音楽になっていくのを目撃しているかのよう。

 3曲目もイントロから音量小さめの電子音が鳴っています。そのミニマルな持続音の上に、ピアノがシンプルな旋律を重ねる、そのコントラストが美しい1曲。

 4曲目は楽曲全体にエコーがかけられたような、靄がかかったような不思議な音像。ドラムのリズム、ギターとオルガンのフレーズが絡み合い、アルバム中最も形のはっきりした曲と言えます。幻想的なサウンドのなかで、ボーカルは透明感を持った音ではっきりと響くところも、美しいです。

 5曲目。スローテンポ、という表現が不適切に感じられるぐらい、一般的なポップミュージックとは差異のあるサウンドを持った本作。この曲では、ドラムがスローモーションのようにゆったりリズムが刻んでいきます。その上に乗るボーカルの旋律も、ロングトーンがほとんどで、いわゆるメロディアスなものではありません。でも、聴いているうちに、このテンポ感にも慣れてきて、心地よく音楽のなかを漂う気分になれるから不思議。

 6曲目は、ドラムもバスドラとフロアタムなのか、低音の太鼓が下の方から鳴り響く、重心の低いサウンド。奥の方では電子音が持続していて、不穏とも感じられるし、神秘的とも感じられる雰囲気の1曲です。曲後半になると、それまでの霧が晴れたかのような、開放的なバンドアンサンブルへ。

 このアルバムには持続していく電子音が多用されていますが、この7曲目も揺らめく持続音から始まります。そこから徐々に音が増え、リズムが生まれ、音楽が姿をあらわしてくるところも、このアルバムに共通した魅力。

 ラスト8曲目は、イントロからギターのはっきりとしたフレーズが聞こえ、それに続くドラムも手数は少ないながらリズムを刻み、前半からバンドらしいサウンドとアンサンブル。しかし、奥には電子音が漂い、このアルバムが共通して持つ音像はしっかりと存在しています。

 ミニマルだけれど、美しいサウンドを持った1枚。しかも、ただ美しいだけでなく、畏敬の念のようなものも伝わる、不思議な温度感のアルバム。ドローンのような持続音と、ピアノやボーカルの旋律がコントラストをなしていて、リズム・セクションとその上に乗るボーカルとリード・ギター、といった構造とは一線を画す作品だと思います。

 長調は明るい曲調、短調は暗い曲調などと言われますが、そういった調性と感情との関係もわからなくなるようなアルバムです。イントロを聴いていた時には、薄暗く怖いイメージだったのに、曲を聴いているうちにサウンドが非常に心地よくリラクシングに感じられる、といったこともしばしば。

 タイトルも曲名も無いアルバムです。気になった方は、偏見なしにサウンド自体に耳を傾けてみてください。きっと、美しいと思う部分があるはず!

 





エレファントカシマシ「おはよう こんにちは」は挨拶の言葉を異化している


 「おはよう こんにちは」は、1988年11月2日に発売されたエレファントカシマシ3枚目のシングル。作詞作曲は宮本浩次。

 同年11月21日発売の2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』にも収録されています。

 エレファントカシマシには好きな曲がいっぱいあるんですけど、この曲も大好きな1曲です。「おはよう こんにちは」という日常的な挨拶の言葉がタイトルになったこの曲。この曲の好きなところを一言であらわすなら、とにかくエモーショナルなところ。

 歌詞もタイトルと同じく「おはよう こんにちは」という歌う出しで始まるのですが、そのときの宮本さんの歌唱が、日常的なフレーズとは裏腹に、あり得ないほどエモーショナルなのです。聴いていて、ちょっと怖くなるほど。こんなに激しくエモーションをこめた「おはよう」も「こんにちは」も、この曲以外では聞いたことがありません。

 バンドのアレンジもテンポは抑え目ながら、タメをしっかり作ったグルーヴ感のあるロックで、非常にかっこいい1曲です。「おはよう こんにちは」というタイトルなら、弾き語りのメローな曲を想像する人の方が多いのではないかと思いますが、この曲はラウドでロックな曲なんです。

 歌詞がメロディーに乗って歌われることにより、言葉が持つ意味以上のものが伝わる、伝わってくるように思える、というところがポップ・ミュージックの魅力のひとつだと思いますが、この曲はまさに言葉以上のメッセージとエモーションが伝わってきます。では、これから歌詞の意味とボーカルの歌唱の2点を中心に、この曲の好きな部分をご紹介したいと思います。

ボーカリゼーションの特徴

 かっこつけて「ボーカリゼーション」と書きましたが、「ボーカルの歌い方」程度の意味だとご理解ください。前述したように、この曲はバンドの演奏とサウンドも、ミドル・テンポのロックです。音量もラウドで、イントロからロックバンドかくあるべし!という演奏が展開されます。

 イントロから、ギターとドラムはタメを作って、ゆったりと演奏しています。元々のテンポが遅めなのに加えて、さらに音が遅れて出てくるような、糸を引くようなへヴィーなアンサンブルです。ベースは、ギターとドラムのタメを補強するように、リズムをキープしていきます。

 イントロに続いて、ボーカルが入ってくるわけですが、バンドの演奏から遅れてズレそうなぐらいに、大きくタメを作って、歌っていくんです。「言葉じり合わせ」という部分は、バンドの演奏と交錯するような、時間差で波が打ち寄せるような感覚に陥ります。こういったタイム感は、宮本さんの特徴であり魅力であると思うのですが、この曲ではそのようなタイム感が全面に出てきています。

 絶妙なタイム感と共に、声自体もエモーションを絞り出すような、圧倒的な存在感を持っています。タイム感と唯一無二の声。このふたつが合わさり、「おはよう こんにちは」というなにげない言葉が、とてつもない説得力を持って響きます。この時点では「おはよう こんにちは」と言っているだけで、表層的には特に意味があることを言っているわけではないのに、です。

歌詞の内容

 では、次に歌詞の内容を検討してみましょう。まず、歌い出し部分の歌詞を、下記に引用します。

おはよう こんにちは さようなら
言葉じり合わせ 日がくれた

 先ほども触れたとおり、1行目はタイトルと同じく挨拶の言葉が並びます。しかし、2行目の歌詞の内容によって、それらの挨拶の言葉も全く違って聞こえてくるのではないかと思います。

 2行目の「言葉じり合わせ」というのは、人に合わせて当たり障りのない言葉を使う、というような意味でしょうか。

 そして、それに続く「日がくれた」という言葉は、気を使って当たり障りのない言葉を言っているうちに、1日が終わってしまった、ということを歌っているのではないかと思います。

 ここで重要なのは、2行目の歌詞によって、挨拶の言葉を並べた1行目の歌詞が、全く違った意味を帯びて響くということです。

 日常的な「おはよう」や「こんにちは」といった言葉が異化され、非日常的なまでの感情をともなった言葉のように響く、と言ってもいいでしょう。

 「おはよう」や「こんにちは」という言葉は、ある面では形骸化していて、ほとんど具体的な意味を持っていません。この曲は、そのような形骸化した言葉を日々使わなければいけないことへの、苛立ちのようにも響きます。

 同時に、もっと生き生きとした言葉を使いたい、との情熱も内包いるのではないかとも思います。

 さらに歌詞は以下のように進行します。歌い出しの2行に続く歌詞を引用します。

頭かかえて そこらの芝生に寝ころんで
空 見上げて 何もかもが同じ

 この引用部でも、日常的としか言えない日常に対して、苛立ちとも怒りとも呼べない感情が渦巻いていることを、歌っているのではないでしょうか。

言葉が歌になったときの魅力

 歌詞の内容を見てきましたが、この曲の歌詞はエレファントカシマシの演奏と歌によって増幅され、音楽の一部になることで完成されるものだと思います。歌い出しの「おはよう」から、とても日常的な挨拶の「おはよう」とは思えない熱情が込められています。

 いろいろと書いてきましたが、意味に多様性があり、言葉以上に解釈の余地が大きいところが、音楽の魅力だと思っています。

 僕はこの曲に、鬱屈した感情が爆発するようなパワーを感じ、1日の始まりに聴きたい1曲になっています。エレカシはこの曲で、形骸化した「おはよう」(のような言葉)に異を唱え、ここまで力強くエモーショナルな「おはよう」を歌っているのではないか、というのが僕の考えです。

 少ない言葉で最大限の感情を伝える、エレカシの魅力が凝縮された1曲なので、ぜひ聴いてみてください。

 





エレファントカシマシ「月と歩いた」が描くのは東京の夜の散歩


 「月と歩いた」は、エレファントカシマシの楽曲。作詞作曲は宮本浩次。1989年発売の3rdアルバム『浮世の夢』に収録。

 2009年発売のベストアルバム『エレカシ 自選作品集 EPIC 創世記』にも収録されています。

 「月と歩いた」は、東京の夜の散歩を歌った曲です…と書くと、夜の散歩は歌のテーマとして一般的であるし、何も変わったことなんてないじゃないか、と思われるかもしれません。

 しかし、この曲の特異なところは、「東京の」夜の散歩を歌っているところ。それではなぜ、この曲が特異なのか、これからご説明させていただきます。

楽曲の構造

 この曲の構造は、一般的なヴァースとコーラスが循環する進行、言葉を変えればAメロからBメロを経てクライマックスのサビに至る、といった進行感とは少し異なっています。下記のように、間に挟まるブリッジ以外は、同じメロディーが繰り返されます。

コーラス→ブリッジ→コーラス

 イントロはアコースティック・ギターのみの弾き語りのようなアレンジで、再生時間1:27あたりからのブリッジ部分に入ると、ラウドな音量のフル・バンドでの演奏に切り替わります。同時に、この部分では歌詞の内容も一変し、音量の上でも歌詞の上でも鮮烈なコントラストをなしています。では、どのように1曲のなかで歌詞がコントラストをなしているのか、順番に見てみましょう。

前半部分の歌詞

 まず、歌い出しの2行では、以下のように歌われています。

月と歩いた 月と歩いた
寒い夜ありがたい散歩の道づれに

 月が出た夜道を歩いているときの心情が、アコースティック・ギターをバックに繊細に歌われています。ひとりで散歩する様子を「月と歩いた」というロマンチックとも言える言葉で表している点など、この引用部は夜の散歩を歌った曲らしい一節です。さらに、この後の2行には、夜道の描写が続きます。

道が真ん中 そのまにまに
小さくなって家が建ってる

 こちらの引用部では、道路に沿って両側に家が建っている様子を描写しているのでしょう。「道が真ん中」と道を主語にして、道路を中心にして語っています。この部分からは、語り手の実際の立ち位置と価値観が垣間見えて、優れた表現であると思います。

 おそらく、語り手は道の真ん中を歩いているか、あるいは道を眺めているということ。そして家が小さいというのは、小さく窮屈そうに家が建っている、あるいは道よりも存在感が小さい、ということを歌っているのではないかと思います。このように前半のコーラス部分では、月が出た夜道を散歩する様子が、情緒的に描かれています。

ブリッジ部の歌詞

 では、ブリッジ部分では何が歌われているのでしょうか。前述したように、演奏の面でもブリッジ前まではアコースティック・ギター1本による弾き語りのようなアレンジ、ブリッジ部からはフル・バンドによるロックロール然としたアレンジとなり、音量と雰囲気が一変します。以下はブリッジ部分の歌詞の引用です。

ブーブーブードライブ楽しブーブーブ
なめたようなアスファルトの道を

 引用部では、車が走る様子が歌われています。「ブーブー」と擬音語が使用され、ボーカルの歌い方もそれまでとは一変し、荒々しくパワフルな歌い方へ。直前まで、ひとり静かに夜道を散歩していた語り手。その語り手に車が走り寄り、ひかれそうになるぐらいの距離まで接近する、その一連の様子と車の発する音が、ブリッジ部では表されているのでしょう。

 ブリッジ部分の歌詞の主語は確定しにくいですが、それまでと変わらぬ語り手だとしたら、心をかき乱された描写だと言えるし、あるいは車を擬人化して主語にしているようにも感じられます。

対比的なコーラスとブリッジ

 ブリッジ部が終わると、再び静かなコーラス部が戻ってきます。その歌い出しの歌詞を、下記に引用します。

少し静かにしてくれないか
言うか言わぬか車をよけた

 こちらの引用部から、語り手に車が接近していたことが確認できます。さらに、この曲の最後の行にあたる歌詞で、語り手は「ついてくる月がついてくる」と言葉を結んでいます。

 ここまで見てきたように「月と歩いた」は、静かに夜道を散歩するコーラス→車が接近してきて騒がしいブリッジ→車が走り去りまた静かなコーラス、と展開していきます。静かな夜道を散歩している風景や、そのときの心情を情緒的に歌うだけではなく、車が接近する様子まで描写しているのが、この曲のめずらしい部分です。

 しかも、語り手は車の接近に気を取られつつも、車が去った後は「月がついてくる」と言い、車が接近する前の落ち着いた気持ちを失っていません。

 この曲ではブリッジにおいて、弾き語りからフル・バンドへの移行が、アレンジと音量の面でコントラストとなり、曲のダイナミズムを広げています。しかし、そのコントラストは音楽面だけに留まらず、歌詞の面でも車の接近を挟むことで、東京のような都市において、月に思いをよせる感受性を際立たせているのではないかと思います。

 「東京には空がない」というクリシェがありますが、「月と歩いた」の語り手は車の騒音のなかでも、月と一緒に歩く感受性を失ってはいません。

 最初にこの曲は「東京の夜の散歩を歌った曲」だと書きましたが、重要なのは東京かどうかというより、繊細な感受性を持ち続けられるかどうか、ということです。

 単純に夜道の散歩を情緒的に歌うだけではなく、車の騒音というリアリティを含めることで、「月と歩いた」は人の感受性をより深く描写した1曲と言えるのではないでしょうか。