My Bloody Valentine『Loveless』/ マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン『ラヴレス』


マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン 『ラヴレス』
(My Bloody Valentine – Loveless)

アルバムレビュー
発売: 1991年11月4日
レーベル: Creation

 『ラヴレス』は、アイルランド出身のバンド、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの1991年発売の2ndアルバム。

 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(以下マイブラ)の音楽性を形容するときに、「音の壁」という言葉が使われることがたびたびあります。また、「靴を見つめる人」を意味するシューゲイザー(Shoegazer)というジャンルの代表的なバンドとも紹介されます。僕が彼らの音楽に出会う前、そうした言葉からは具体的なサウンドをイメージすることができず、いったいどんな音を鳴らしているのだろう、と期待が膨らんでいきました。

 また、彼らにはフォロワー・バンドも、熱心なファンも非常に多く、音楽雑誌でマイブラを絶賛する記事を読むたびに、音楽好きな先輩から「マイブラはマジ最高!」という言葉を聞くたびに、密教的なアウラを感じ、ますますこのバンドに対する好奇心は高まっていきました。

 そんなわけで、期待が非常に高まった状態で、この『ラヴレス』という作品を手にとったわけです。そして、実際に聴いてみると、確かに音の壁としか表現できないような唯一無二のサウンドがそこにはあり、アルバム1枚を聴き終えるころには、僕もすっかり彼らの信者になってしまいました。自分の音楽の聴き方を更新するような、新しい音楽の聴き方を教えてくれるようなインパクトが、このアルバムにはあります。

 1曲目の「Only Shallow」から、幾重にもオーバーダビングされたギターの洪水が押し寄せます。もはやギターの音なのか分からないぐらいのサウンド・プロダクション。そのギターの波に埋もれるように、奥の方から聴こえてくる、囁くようなボーカルのメロディー。ドラムの音も意図的に軽く録音されているようで、スネアの音ですら「パスン」といった感じのアタックの弱い音になっています。

 この1曲を聴いただけで、なるほどこれが「音の壁」かと、すぐに納得しました。一般的なポップ・ミュージックにおいて前景化されるはずの、メロディーや歌詞やビートは相対的に後景化し、サウンドが圧倒的な量感で押し寄せてきます。音楽を構成する音韻情報として、リズム、メロディー、ハーモニーが挙げられますが、これら3つが音響情報と不可分に溶け合い、塊として迫ってくるとでも言ったらいいでしょうか。

 あるいは美しいメロディーや、ディストーション・ギターのもたらす刺激など、音楽の気持ち良い要素が溶け合いながら、迫ってくると言うべきか。普段はリズムやメロディーを分析的に聴くことが好きなのに、『ラヴレス』というアルバムを前にすると、ただひたすら音に身を委ねるのが、とにかく気持ちいい。そんな新しい音楽の聴き方を教えてくれたのが、この作品です。

 また、音楽要素の相対化と並んで、この作品で衝撃を受けたのは、クリエイティヴィティ溢れる数々のギターの音作りです。2曲目「Loomer」での時空が歪んだような、まるで時間が逆に進んでいるかのような感覚にさえ陥るサウンド。5曲目「When You Sleep」では、ドラムのリズムもギターのリフも分かりやすく、いわゆるロックのフォーマットに近いものの、ギターの独特な揺らぎが耳に残ります。

 7曲目「Come in Alone」の音圧が高い、というよりコンプレッサーで凝縮されたような音。9曲目「Blown a Wish」の無重力空間を漂うような浮遊感。このアルバムは、ディストーション・サウンドの持つ音圧と迫力、空間系のエフェクターを駆使した心地よいサウンドなど、一般的に良いとされるサウンド・プロダクションとはかけ離れたギター・サウンドで満たされています。そういう意味では、新たなギター・ミュージックを提示していると言ってもよいかもしれません。

 メロディーを追う、歌詞を聴きとる、リズムに乗る、バンドのグルーヴを聴く、といった音楽を聴くうえで当然と思われている態度を、『ラヴレス』は解体していると言ってもよいでしょう。このアルバムは、とにかくできるだけ大音量で、音楽にただただ快楽的に身を委ねながら聴くことをおすすめします!

 





Mogwai『Mogwai Young Team』 / モグワイ『モグワイ・ヤング・チーム』


モグワイ 『モグワイ・ヤング・チーム』
(Mogwai – Mogwai Young Team)

アルバムレビュー
発売: 1997年10月27日
レーベル: Chemikal Underground

 『モグワイ・ヤング・チーム』は、スコットランドのグラスゴー出身のポストロック・バンド、モグワイの1997年発売の1stアルバム。

 ポストロックとは何か?というと、ロックのポスト、すなわちロック後のロックということです。それじゃあロックって何か?というと、ひとまず理論的な厳密さは脇に置いて、パブリックイメージとしては、歪んだギターがフィーチャーされ、8ビートのノリやすいリズムがあり、歌詞にはメッセージ性がある、といったところでしょうか。そして本題のモグワイ。彼らはポストロックの代表的なバンドと目されており、『ヤングチーム』はそんな彼らの1stアルバムです。

 それでは実際に聴いてみると、どんな音が鳴っているのか。1曲目「Yes! I Am a Long Way from Home」は複数のクリーントーンのギターを中心に、各楽器が絡み合う美しいアンサンブル。そして、ボーカルが入っていません。まるで風景を眺めているかのようなイマジナティヴな音楽をサウンドスケープと呼ぶことがありますが、この曲などはまさにサウンドスケープと呼べそうです。

 そのままギターを使った静かな美しいインスト・ミュージックが続くかと思いきや、再生時間3分過ぎから徐々に盛り上がり、3:40あたりからはディストーション・ギターが押し寄せてきます。AメロからBメロを経てサビというクライマックスに至る、という一般的なポップ・ミュージックのフォーマットは採用していないにも関わらず、このあたりの盛り上がりは単純にかっこよく、そうした意味では非常にポップと言えます。

 このような構造はアルバム全体を通して続き、2曲目「Like Herod」でも1曲目以上に激しい轟音ギターが、途中からなだれ込んできます。あんまり詳細を書くとネタバレのようになってしまいますが、7曲目「With Portfolio」の後半部分のすさまじい音像、10曲目「Mogwai Fear Satan」のリズムとサウンド・プロダクションが混然一体となった演奏など、聴きどころを挙げていけば、きりがありません。

 ロックという音楽が人々をエキサイトさせる要素を書きだしていくと、単位のはっきりとしたノリのよいビート、聴感的に激しく響く歪んだギターのサウンド、Aメロからサビに至るまでの進行感とサビでのクライマックス、リスナーをアジテートするような歌詞、などが挙げられるでしょう。では、ポストロック・バンドと呼ばれるモグワイの場合はどうか。

 まず、ドラムによるリズムはもちろん存在し、『モグワイ・ヤング・チーム』の一部の曲では、ロック的にノレる部分もありますが、それほど体を揺らすためのビートが前景化された作品というわけではありません。激しく歪んだギターは、ロックにおけるリフのようなかたちでは出てきませんが、アルバム中に十分に含まれています。

 Aメロからサビへの進行感というのも、ロックのような構造を持った音楽と比べれば希薄ですが、音量とサウンドにおける静寂と轟音のコントラストは、Aメロとサビの関係に近いとも言えます。歌詞については、モグワイの曲には基本的には歌が入っていません。

 以上、ロックとの比較で浮かび上がるのは、いわゆるロックのフォーマットをそのまま踏襲してはいないものの、ロックがリスナーに与える興奮を『モグワイ・ヤング・チーム』は持っているということです。言い換えれば、ロックの魅力を部分的には引き継ぎ、部分的には更新しているということ。

 例えば、Aメロとサビとの対比にも似た、静寂と轟音の対比。Aメロからサビという画一的な進行を持たないからこそ生まれる、そろそろ来るかな、来ないかな?という緊張感と期待感。歌詞を持たないものの、リスナーをアジテートするような挑発的で自由なギターのフレーズとサウンド。

 『モグワイ・ヤング・チーム』は、ロックを解体し、再構築しているという意味において、まさにポストロックと言えるでしょう。歌が無い、サビが無い音楽はとっつきにくいと考えている方にこそ、このアルバムの興奮とスリルを味わっていただきたいです。いろいろ小難しいことも書いてきましたが、とにかくサウンド自体がかっこよく、曲が予想しない方向に展開したり、あるいは展開しないで留まったり、何も考えずに聴いて楽しめる作品なので!

 ちなみにジャケットには、今は亡き「富士銀行」の看板が写っております。撮影場所は、当時の富士銀行恵比寿支店。しかし権利の関係なのか、日本盤では黒塗りになっているので、気になる方は輸入盤をチェックしましょう。

 





エレファントカシマシ『風』


エレファントカシマシ 『風』

アルバムレビュー
発売: 2004年9月29日
レーベル: フェイスレコーズ

 『風』は、2004年に発売されたエレファントカシマシ16枚目のアルバム。

 エレファントカシマシの魅力は、楽曲の良さもさることながら、パワー溢れる圧倒的なライブ・パフォーマンスにもあります。宮本さんのボーカリストとしての技量と、バンドとしての一体感あふれるアンサンブル。そんなライブ・バンドとしてのエレカシの魅力が、このアルバムには詰まっています。

 まず、サウンド・プロダクション。宮本さんのボーカルをはじめとして、まるでバンドが目の前で演奏しているかのような臨場感のある生々しい音でレコーディングされています。

 そして、曲順。曲順もまるでライブのセットリストのようになっていて、アルバム全体で起承転結が感じられ、メローな曲からアグレッシブな曲まで幅広く収録されているのに、散漫な印象は全くなく、作品としてまとまっています。

 スタジオ・アルバムであるのに、音質と曲順の両面で、まるでライブ・アルバムのような耳触りなのです。前述したようにエレカシの魅力のひとつはライブ・パフォーマンスにあるのですが、その雰囲気が少なからず感じられる作品です。そういう意味ではベスト・アルバムと並んで、意外とエレカシ入門用のアルバムとしても最適なのではないかと、個人的には思っています。

 1曲目の「平成理想主義」。曲を再生すると、まるでメンバーがステージに出てきて、音合わせをしているかのようなラフで自由な雰囲気でアルバムは始まります。メンバーの空気感まで伝わってくるような音。そのまま音出しがしばらく続き、おもむろにギターがリフを弾き始め、曲がスタート。この、さりげなさも非常にかっこよく、リアリティを感じます。

 「平成理想主義」はミドルテンポながら、リズムにタメがあり、各楽器が絡み合いながらグルーヴしていて、一聴しただけでかっこいいと思うロック・チューンです。そして、やはりライブ感あふれる宮本さんの声とボーカリゼーション。もう、この1曲目の時点で、アルバムの世界に引き込まれてしまいます。

 2曲目はイントロからビートがわかりやすく、やはり即効性のあるかっこよさの「達者であれよ」。サビでの宮本さんのエモーションを絞り出すようなボーカリゼーションは、とてもスタジオ録音とは思えない生々しさがあります。

 1曲目、2曲目とガツンとくる曲が続いた後での3曲目「友達がいるのさ」。ここまでの2曲から一変して、バンドもボーカルも抑え気味のじっくり聴かせるようなイントロ。この緩急のつけ方に、ライブのセットリストのような意図を感じます。イントロは抑え目に始まるものの、ダイナミズムが非常に広くドラマチックな1曲。ガツンとした1曲目と2曲目でリスナーをアルバムの世界に引き込んだうえで、3曲目にこのようなキラー・チューンを配置されてしまっては、ますますアルバムの世界観に引き込まれざるを得ません。

 4曲目「人間って何だ」。この曲もビートがはっきりしていて、各楽器のアレンジもシンプルながら緩やかにグルーヴしていて、ロック的な楽しみのある1曲。タイトルのとおり「人間って何だ?」と問いかけ、それに対する応答という、コールアンドレスポンスの構造をした歌詞も聞き取りやすく、心にスッと届きます。

 5曲目「夜と朝のあいだに…」、6曲目「DJ In My Life」とテンポを落としたメローな曲が続き、7曲目「定め」では、またロック的なビートが戻ってきます。緩急をつけながら、不自然ではないバランスでテンポと曲想の異なる曲が並び、本当にライブを観ているような気分にさせてくれる曲順。

 そしてラスト10曲目の「風」。アルバムのタイトルにもなっているこの曲。アコースティック・ギターを中心にした、ゆったりしたアンサンブルのなか、宮本さんの歌うメロディーと言葉が響き渡ります。

いつか通ったとおりを辿り来た気がする
「いいのかい?」なんてさ 「いいのかい?」なんてさ

 ここまでアルバム1枚を通して、様々なグルーヴやエモーションを届けてくれたエレカシ。この「風」に至るまでに、すっかりこちらの耳も心もこのアルバムにチューニングが合い、引用した上記の歌詞も、1曲単体で聴くよりも深く心に染み入ります。ライブでアンコールの最後の1曲を聴くような感覚があり、この曲を聴き終わると、まるでライブを1本見終えたような満足感が残ります。ぜひ、アルバム1枚を通して聴いていただきたい作品です。

 





Base Ball Bear「すべては君のせいで」には青春の全てが詰まっている


 「すべては君のせいで」は、Base Ball Bearの楽曲。作詞作曲は小出祐介。2017年4月12日発売のメジャー7枚目のアルバム『光源』に収録されています。

 青春には、甘酸っぱくキラキラした面もありますが、その裏にはこの時期特有の影も存在します。Base Ball Bearというバンドは青春をテーマにしながらも、その光だけではなく影の部分もフェアに描写するところ、しかも1曲のなかにその両面をおさめるところが、本当に信頼できます。

 「すべては君のせいで」も、まさに青春のリアリティが詰まった1曲。この論では、この曲が持つ両面性と、表現における優れた技巧について、考察していきたいと思います。

状況説明の巧みさ

 小出さんの書く歌詞は状況説明が巧みで、いつもハッとさせられます。「状況説明」と書いてしまいましたが、この表現はちょっと不適切で、正確にいうと説明的ではないのに、少ない言葉で、具体的な状況や繊細な感情を描き出すことに、成功しているということです。

ある日突然 幽霊にされた
僕を置き去りに今日も教室は進む

 引用したのは歌い出し部分の歌詞。いきなりいじめを連想させるような表現に、耳を奪われます。「教室」という言葉ひとつで、この曲の舞台が学校であることが分かりますし、「幽霊にされた」「僕を置き去りに」という表現からは、いじめの質が見えてきます。

 たった2行で、語り手である「僕」の状況が詳細に描き出されるその手法は、見事としか言いようがありません。しかも、音楽的にはセブンスを含んだ四和音を多用し、コードのヴォイシングもサウンド・プロダクションも、非常に凝った耳触りのオシャレなもの。

 そんなサウンドとは裏腹に、イントロから「幽霊」という印象的な言葉を使いながら青春の暗い面を描き、リスナーを曲の世界観に引き込んでいきます。

「君」の存在

 前述したように、最初の2行では暗い学校生活のイメージが提示されます。それでは、この曲は青春の暗さを歌った曲かといえばそうではなく、続く歌詞で「君」が登場します。「すべては君のせいで」というタイトルのとおり、これ以降は一貫して「君」のことが歌われます。以下は、サビ部分の歌詞の引用です。

すべては君のせいで 毎日が眩しくて困ります
すべては君のせいで ああ、心が♯していきます

 暗く辛そうなAメロ部分とは打って変わって、「君」の眩しさが歌われています。また、「幽霊にされた」学校生活とのコントラストで、「君」という存在の眩しさが、より際立っています。

 しかし、歌詞の中で「僕」と「君」の関係性に進展があるのかというと、そうではなく、「毎日が眩しくて困ります」というフレーズにも集約されているように、ひたすら「君」の眩しさが歌われていきます。青春時代の甘酸っぱい淡い恋心。その感情が、この曲には完璧にパッケージされていると言えるでしょう。

 引用したサビ部分の歌詞にも、感情をあざやかに描き出した表現があります。それは「心が♯していきます」という部分。

 ♯(シャープ)とは音程を半音上げる記号のことですが、1音上がりきるのではなく半音というところに淡い心が感じられますし、♯という記号を歌詞の中で文字通り記号的に使い、リスナーのイマジネーションを刺激しているところにも、全く無駄がありません。

 ここでも、「僕」の感情をこまかに説明しているわけではないのに、どのような心情なのか、手に取るように伝わります。

 このような効果的な表現が、この曲の中にはいくつもあって、例えば2番のAメロには、次のフレーズが出てきます。

君が微笑む みんなの輪の中で
たまらなくなって ハードロック雑誌に目を落とす

 「ハードロック雑誌」という一言で、「僕」の性格や趣味など、人間描写の精度が著しく高まっています。また、引用部では時間設定は明らかにされていませんが、休み時間中に「君」はみんなの輪の中にいて、「僕」はひとり席に座ってハードロック雑誌を読んでいる様子が自ずと想像でき、ドラマのワンシーンのようなイメージが目の前に広がる感覚があります。

 また、この曲では「君」の存在がメイン・テーマとして歌われていくわけですが、「君」の具体的な描写は、容姿の面でも性格の面でも全くありません。強いて言えば「自転車通学のヘルメットありの」という部分でしょうか。

 しかし、この部分も髪型やファッションを描写しているわけではなく、あくまで制服の一部のようなものです。「君」のことを細かく描写しないことで、ますます「君」の眩しさ、言い換えれば神性が高まり、青春時代の甘酸っぱい一方的な恋心を、浮かび上がらせているのではないかと思います。

青春の二面性

 以上のように、導入部ではいじめを連想させるような描写、そしてその後は「君」の眩しさを歌っています。そこには、学校になじめない憂鬱から、眩しさに目がくらむだけの恋心まで、青春という病理が抱える光と闇が共に含まれています。

 音楽的にも、疾走感溢れる8ビートで走るのではなく、メンバー同士で高度なコミュニケーションを楽しむようなグルーヴが、歌詞と見事に調和しているのではないかと思います。言葉と音がひとつになることで、明るさと暗さの中間を表現できるのが音楽の魅力であると、あらためて教えてくれる1曲です。

 





赤い公園「カメレオン」は変奏的なアレンジが秀逸


 「カメレオン」は、赤い公園の楽曲。作詞作曲は津野米咲。2017年8月23日発売の4thアルバム『熱唱サマー』に収録されています。

 アルバム『熱唱サマー』の1曲目に収録されている「カメレオン」。アルバムの1曲目にふさわしく、イントロから音楽的なフックと疾走感に溢れた、リスナーの耳を掴む1曲です。

 Aメロからサビに至るまで、どのように盛り上がり、高揚感を得られるかが、ポップ・ミュージックの醍醐味のひとつですが、その点でも「カメレオン」は秀逸。Aメロで溜め込んだエネルギーが、サビで一気に解放される展開からは、カタルシスが得られることでしょう。

 サビで一気に盛り上がり、高揚感が得られるという点では、この曲は間違いなくポップなのですが、アレンジメントには実験性も持ち合わせています。

 いや、「実験性」と表現したのはちょっと不適切で、実験のための実験に陥るのではなく、あくまで楽曲を魅力的にするために試行錯誤を重ね、結果的に一般的でない音やアレンジメントが含まれているということ。

 フランクな言葉で言い換えれば、なんか変な音がいっぱい入ってるけど聴くとめちゃくちゃ楽しい!ということです。

楽曲の構造

 この曲の構造を書き出すと、以下のようになります。

イントロ→Aメロ→サビ→間奏→Aメロ→サビ→間奏→サビ

 イントロはスネアの連打から始まり、その後に入ってくるギターとベース、そしてホーン・セクション。ロック・バンドがホーンやストリングスを導入する場合、折衷的になってしまい必ずしも導入の必然性が感じられないこともありますが、「カメレオン」におけるホーンは非常に有機的にバンドと融合しています。

 まず、このイントロ部分では、複数のホーンが一斉に8分音符で同じ音を吹き始め、音の壁のような厚みのあるサウンドを構築しています。ここで感じるのは、ユニゾンの強さ。

 多くの楽器が同じ旋律をプレイするのは、わかりやすくダイナミズムを感じ、聴いていて非常に気持ちがいいものです。特にこのイントロ部分では、フレーズ頭の2音を除いて、同じCの音を繰り返すだけ。同じ音を8分音符で刻むだけで、こんなにもかっこいい音楽になるのか、と新鮮な驚きがあります。

 Aメロに入ると、ホーン隊が一旦抜け、バンドのみに。ここで特に活躍しているのがギターです。ホーンが抜ける分、イントロとの対比でバンドのサウンドが前景化され、各楽器の音に集中しやすくなります。

 それまでより音数の少ないなかを、足がもつれることも気にせず勢いで突っ走るようなギターが、疾走感とスリルを生み出しています。サビ前には、ギター以外の楽器がブレイクしたところで、ギターがカウントを取るようなフレーズを弾いて、いよいよサビへ。

 ここで、イントロに続いて再びホーン・セクションが入ります。しかも、ここで吹かれるのは、イントロ部と全く同じフレーズ。Aメロで助走をつけてサビで思いっきりジャンプするような、Aメロで溜め込んだエネルギーをサビで一気に爆発させるような高揚感がここにはあります。

 クラシックでも展開部を終えて主題に戻ってきたとき、ジャズのビバップでも即興部分が終わりテーマのメロディーが戻ってきたときに、一種の高揚感と解決感が生まれますが、「カメレオン」の展開も同様の構造を持っています。

 イントロで聴いたシンプルでかっこいいリフが、イントロ部にはなかったボーカルのメロディーも伴って戻ってくる。その爽快感は、まさに音楽によって得られるカタルシスです。

変奏的なアレンジメント

 ここまででも十分に魅力的な楽曲なのですが、赤い公園はAメロとサビを同じアレンジメントで繰り返すことには飽き足らず、さらなる展開があります。

 まず、2番のAメロには、1番とは違い途中からホーンが入ってくるのですが、ユニゾンで吹くのではなく、フレーズを自由に吹いているような印象。1番のAメロと比べても、躍動感と疾走感が増していて、変奏と言っていいアレンジメントです。

 2番のサビは1番のサビとほぼアレンジが変わらないものの、間奏を挟んでからのサビではまたアレンジを変え、最後のサビとのブリッジのような役目を果たしています。

 このように、Aメロとサビの単純なコントラストだけではなく、イントロのフレーズがサビで再び登場したり、ホーンを効果的に使ったりと、音楽的なフックが至るところに仕掛けられており、ジェット・コースターのような疾走感とスリルのある1曲です。

 しかも、ただ勢いがあるだけではなく、音楽的な伏線を次々に回収していくような、緻密な面もあります。歌詞にも少しだけ言及させていただきますが、この曲のテーマは自分探しをしても本当の自分なんて相対的なものでしかない、というようなことだと思いますが、それを全く悲観的ではなく、ポジティヴに描き出しているところも魅力です。

 赤い公園のメンバーが、どのような音楽的なバックボーンを持つのか、クラシックやジャズに造詣が深いのかは存じ上げませんが、音楽に対して非常に真摯で、才能溢れるミュージシャンの集まりであることは、この1曲からも垣間見えます。